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ゾンビから生き残るための百のルール  作者:
第一章、前提編
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その6・状況を冷静に判断すること





 右手は男の左手に、左手に持った武器は男の右手に。

 両腕を封じられる、という緊急事態に奏は驚愕を覚えた。


(まさか、こんなのが――)


 反射速度が異常に速い。

 力が強い。

 加えて「あー」とか「うー」とか以外の“言葉”を話す、人語を解するほどの知性を持つ感染者との唐突な遭遇なんて、全く持って嬉しくない。


 どうしよう。

 本当にどうしよう。


 どこか部分的に腐っていたらそこを重点的に狙いバランスを崩せるのだが、今のところそれすら見当たらない。

 スペックが高すぎる相手に動揺する奏だが、とりあえず考えるべきことは一つだと分かってはいた。

 どのようにしてこの感染者から逃げ出すか、だ。


 現時点で力は拮抗しているようだが、相手は疲れ知らずの感染者。そして間違いなく“ただのゾンビ”ではない。

 恐らく、それは『特殊型』。

 相手は単純な食欲だけではなく、二種類の欲求を持つ――生ける屍(ゾンビ)だ。

 現在、任務的な意味で求めている相手とはいえ、部が悪すぎる状況に今、奏の背筋には嫌な汗がダラダラと伝っていた。


 数ある感染者の中で、何故私はこれを引き当てたのか。

 そもそも、どこから間違ったのか。

 どうしてこうなったのか。


 そんな考えても仕方が無い思考を振り払うよう、奏は戦慄く奥歯をかみ締め口を開く。


「目的は、何?」


 そう、この感染者は奏での腕を引きどこかへ連れ去ろうとしていたはずだ。

 ならばこいつが空腹を覚える前にそれを確認しておこうと、何かの糸口になればいいと。

 問いかけた奏に相手は疑問符を浮かべた。


「目的?」

「お前は何がしたいんだ、と聞いている」


 弱みを見せれば、つけいれられる。

 徐々に上がる息を悟らせないよう、奏は極めて冷静に振舞った。


「何? ……なに?」

「……私をあの場から連れ出したことに、意味はないの?」


 力を持つ上に人語を解す感染者、ということで奏の中の警戒心はマックスを振り切っていたのだが。

 実のところ、この感染者はそこまで頭が良くないのかも知れない。というより未だ、知識量がたりない、といったところなのか--などと。

 考察をしながらも、けれど奏の尖った神経は目の前の相手へと注がれ続けていた。まるで虫のような、感情の無い感染者の瞳が恐ろしい。


「意味はあるに決まっている」

「え」


 やがて開かれた感染者の言葉に奏はつい、素のままの言葉を零してしまった。

 “何がしたい”のかは分からないくせに、“意味はあるにきまっている”。


その意味不明さに、力を込め過ぎてだんだん痺れてきた己の腕に冷や汗を流しながらも、奏は相手の言葉を待った。


「あそこにいたら、お前は食われる」

「え?」

「お前は、俺の非常食」

「は?」


 聞き逃せない言葉に、奏の思考回路が一瞬ショートする。


「ひ、非常食?」

「非常食」


 おそらく突っ込むべきは先の言葉だったのだろうが、思わず奏は鸚鵡返しに確認してしまった。非常食とはきっと、食べ物の乏しい、俗に言う緊急事態に食べるアレのことだろう。

 この男は感染者なのだから、奏を非常食扱いすることには何の問題もないのだが。

 だが。

 サラリと人権を剥奪される衝撃というのは中々に大きい。


 奏がそんな衝撃の中なんとか次の言葉を探そうと考えあぐねていると、静かな起動音と共に駅構内へモノレールが滑り込んできた。しかし今の奏にとってモノレールなどどうでもいい。

 非常食という事は――この感染者はしばらく、襲い掛かってくる気はないのだろうか。

 そもそも感染者にとっての“非常事態”とは、いつどんな時のことを言うのか。


 そんな思考を脳内で乱立する奏の右腕を、感染者はまた強く引いた。


「行くぞ、非常食」


 いつの間にか開放されていた左手と、先ほどと同じように引かれる右手。

 急に崩された力の均衡に奏の足がたたらを踏むが、当の男はお構いなしでモノレールへと足を進める。


「いや、行くってどこに!?」

「行きたいところに決まっている」

「知るか! 放せ!」


 奏の必死の抵抗など意にも関せず。

 モノレールへと乗車する感染者はそれでも、多少のうっとおしさを感じたのだろう。

 掴まれた右腕に力がこめられたことを感じ取った奏は、反射的に左腕で己の右肩を強く抑えた。


「――っ、く…っ!」


 ガダンか、ドゴンッ、か。

 恐らく盛大に鳴ったであろう音は背中に走った衝撃により、奏の耳には届かない。

 勢いをつけて車内へと文字通り投げ込まれた中での幸いは、己の右肩が外れなかった事だろう。

 それを理解すると同時、奏は痛みを無視し投げ出された身体を起こそうと息を吸うが、盛大にむせ込む。

 背中の衝撃が肺にまで伝わったのだろう、纏っている服は耐衝撃用装備ではない。

 足からガクリと力が抜け、またその場に膝をついた彼女の耳がモノレールの閉扉音を捕らえた。


(くっ、そ……)


 極めつけに、絶望と共に上げた彼女の顔前にある、二本の足。

 それを辿るように視線を上げれば、仁王立ちのまま見下ろしてくる感染者の視線とかち合った。

 正直、生きた心地が無い。サァっと冷えていく己の体温に「蛇に睨まれた蛙とはきっと、こんな気持ちなんだろう」と。

 これまでの人生、一度たりとも使うことの無かった例えが、奏の思考にぼんやりと浮かんだ。


「おい、非常食」

「なんだ、汚泥」


 死を覚悟した今、奏に恐怖は存在しなかった。俗に言うやけっぱち、というやつである。

 対する感染者は“汚泥”という言葉の意味が分からなかったのか、僅かばかりに首を捻った。

 感染者全ての根源である、黒い液体のことを侮蔑をこめて“汚泥”と呼んだ奏だったが、相手に伝わらない悪態ほど意味の無いものはない。


(“汚泥”じゃなくて“ゲロ”にするべきだったか――)


 自嘲気味に笑みを浮かべそんな事を考える奏の前、感染者が一歩足を進める。


「言っておく」


 なんだ、「いただきます」とでも言うつもりか、と。

 すっかりやさぐれた思考の奏を見下ろし、ゆっくりと男は続く言葉を吐き出した。


「非常食と言っても足くらいは食べてもいいと思っている。だがそれをするとお前はたぶん、死ぬ」

「多分じゃなくて間違いなく出血多量で死ぬに決まってんでしょ」

「そうか、やはりか」


 やはりか、じゃねーよ!!!

 と、心中で返す奏を起き感染者である男は一つ間を置いた。


「腐った肉より新鮮な肉のほうが美味い、腐られると困るのでお前の足は食わない。分かったらありがたく歩け、非常食」

「……は?」


 ぽかんと。

 口を半開きにする奏の前から、感染者はやれやれとでも言わんばかりの調子で去っていく。

 そのまま一番近い座席に腰を下ろし、なにやらくつろぎ始めた相手に奏は開いた口が塞がらなかった。


(えー……とりあえず本当にこの感染者にとって私は“非常食”で、その時までは食べられない……って事?)


 自身が存命しているという事に放心する奏。

 信じられない、という感覚の中やがてじわじわと湧き上がってくるものがある。


(というかコイツ、なんでこんなに偉そうなの?)


 正直イラッとくる。

 出来ることなら今すぐ奴の脳幹を破壊して行動不能にしたい。

 その上で清々しい太陽光の元、二十四時間かけて死滅していくさまを眺めたい。

 否、やはり今すぐ燃やしたい。焼却炉に放り込みたい。


 奏は己の無力さを嘆いた。

 こんな感情はおよそ十年ぶりかもしれない。


「……今だけは、従う。だが最後に泣きを見るのはお前だ汚泥、私に振るった暴行・恐喝・悪事全般、十倍にした上のし付けて返してやるからありがたく思え」

「理解できる言葉を話せ、非常食」

「お前が勉強しろ!!!!」



 田村 奏、二十四歳の春先。

 “感染者相手に屈服”というこれ以上ない屈辱に顔を顰める彼女を、当の感染者はこれ以上無く満足気な瞳で眺めていた。





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