その52・面倒事には関わらないこと
『なんだ、これまた不味そうな餌だな』
解放した途端、飛んできた鴉からの苦言に。
実験室内のスピーカーへと繋がるスタンドマイクのスイッチを入れた楠は、数秒キョトンと間を空けた後に思わず軽い苦笑を浮べた。
「うん、あのね? これ一応餌じゃなくてね?」
『まともな餌すら用意できんのなら、さっさと俺を解放することだ』
「君が此処に戻ってくる保障があればそうしてもいいんだけどね? ほら君、普段の行い悪いし?」
どうやらこの感染者はまだまだ元気が有り余っているようだ、と。
この一週間ちょっとの間にいつの間にやら『給仕係り』のポジションを手に入れていた楠は、一週間前から全く態度の変わらない実験対象の申し出を笑顔で却下した。
それにしても、最低限の食べ物しか与えていないと言うのにこの感染者はやけに元気である。
そして、サラリと暴言を吐いてくれるものである。
おかげ様でこの感染者様の視線の先、『餌』扱いをされた飯島の額には恐らく、くっきりとしわが刻みこまれてしまった事だろう。
「馬鹿を言うんじゃない。お前は全く……そんな事を言っているから検体を逃がすのだと」
しかし案外、鴉からの言葉に対し反応を示さなかった所長様はもしや、意外なところで大人なのか。
視線は実験室の感染者一点を睨み続けているものの、此方の言葉だけに反応を返してきた飯島に楠は軽く片眉を上げる。
「別にワザと逃がしてないし、あれは事故だよ? 大抵は誰かさんとの物の投げ合いによる、ね?」
「いや、それはお前のコントロールが異常に悪いからだろう。つまり結局は——」
「ああ、そういえばなんかさっき奏ちゃんが」
「なんだ!?」『何?』
しかし、ふと。
思い出した話題を口にしようとすれば途端に飛んできた二種類の声に、楠はちょっぴり辟易した。
「……いやいや、君達ちょっと落ち着いてくれる? 特に、えーっと、鴉君? 君には全く関係ない話題だから」
『俺の非常食の話が俺に関係が無いとは一体、どういう事だ』
ブチッと。
依然食いついてくる感染者の声を一旦中断するため、楠はマイクとスピーカーのスイッチを切り改めて飯島に向き直る。
するとそこにあったのは、当然と言うのかなんと言うのか。
話題の続きを渇望する飯島のキラキラとした視線に、楠は顔を背けたくなった。
こいつらは少し、いやかなり単純すぎるのでは無いだろうか。
「……えーっと。なんか奏ちゃん、さっき図書室に未知の生物が出るとか何とか言ってたけど、飯島は何か知ってる?」
「ああ。恐らくそれは、先ほど河井君が言っていた話だろう」
完全に、現在に関係の無い話題でも。
『奏』の文字が一文字でも入れば、飯島にとっては重要な話題なのだろうと。
神妙な顔で頷く相手の表情を、楠は微妙な気分で眺める。
「私自身も元々、その話は小耳に挟んでいたが——しかし、その程度だ。結局のところ噂話の域を出ないものとして、特に何も調べていない……というより、今の私にはそんな『研究所七不思議』などよりも遥かに重要な事がある」
しかし。
クソ真面目に答えたかと思えば、ガッとスタンドマイクを引っ手繰ってきた飯島の中での、優先順位は明確らしい。
そう。そこらに転がる噂話、なんて不確かなものよりもよっぽど現実的な“愛娘”の害。
今目の前に居るそれを見据える“父”の視線に、楠はしばし放っておくが吉だという事を瞬時に悟った。
なんにせよ説教の標的を上手く外せた楠としては、この二人が何を言い合っていようとどうでも良かったりするのである。
「おい、小僧。貴様は随分と私の奏に対し、度し難い無体を働いてくれたようだな」
マイクのスイッチを入れ、鴉相手に何やら話し始めた飯島を置いて楠は部屋の隅へと向かった。
元々雑多な機械類に埋め尽くされているスペースなので、一見分からないものの。そこに鎮座しているのは、至って平凡な小型冷蔵庫である。
かなり旧型のそれは黄ばみ、お世辞にも見目麗しいとはいえないが。動けばそれでいい楠としては、塗装の剥げた扉を開き、ただ用意しておいた一品が適温で保管されているかどうかだけをその掌で確かめる。
『貴様、頭は大丈夫か。あれは俺の非常食だ』
そして取り出した一品は、冷蔵庫の直ぐ隣にある四角い凹んだスペースの中へ。
何かに使うだろうと思っていた機械は今回非常に役に立っていて、楠は一人満足感を覚えながら一品を置いた小さな空間の直ぐ隣にあるスイッチを押した。
あとはその後を見届けるだけである。
「貴様の悪行は全て報告書に事細かく記載されている。無駄な言い訳はしてくれるな、私も時間に余裕があるわけでは無いのだよ」
『それにしても、そろそろ暇だ』
「はーい、ご飯の時間だよ?」
そうして何やら話している飯島の傍に戻り、楠がマイクをひったくれば。
ウィーン、と。
丁度良いタイミングでガラス越しの鴉の元へと、鉄製の板に乗った食事が届けられた。
「……。」
『おお、餌か』
「あはは、残さず食べるんだよ?」
後は食事中、そして食後の経過観察をするだけ。
食事が無事届く様を確認した楠は、マイクを置きルンルンで研究室に一旦戻ることにする。なんたってパソコンを壊してしまったので、直るまでの間は手書きでデータを取らなければならないのだ。
しかしその時。
スキップしかねないほどに浮かれ始めていた楠は、背後からガシリと腕を掴まれた。
「おい……君は、私が今とても大切な話をしているという事が分からんのかね?」
「こっちは大事な研究の時間だからね? あと君たち話をするなら、ちゃんと会話にした方がいいと思うよ?」
ニッコリと。
つまりは『お前らがグダグタ話してるのを待つのとか僕の時間の無駄』という思いを短く告げた楠は、眉根を寄せている飯島に軽く首を傾げてみせる。
ハッキリ言って、飯島と鴉両者の言葉の垂れ流しには全く益が見られない。百利あって一害なしの研究を少しは見習うべきである。
「餌など出せば、更に会話にならなくなるだろう!?」
「いやいや、だから最初から会話になんかなってなかったよ?」
しかし楠のマイペースの理由が、相手には納得できなかったらしく。
依然眉間にシワを寄せたままの飯島の口が、けれど反論に開きかけた瞬間。
『ふむ、今日の餌は中々美味そうだな。褒めてやろう』
「ん? ……お、おいアレはまさか私のC食では!?」
スイッチ入れっぱなしだったスピーカーから届いた、鴉の声に。
振り返ってそれを見てしまった飯島の中には新たな衝撃が生まれたようだったので、楠は軽く頷きを返した。
「君の、じゃないけどC食だよ?」
「何故あんな小僧にそんな上等なものを喰わせる!? 奴には裏の湖の水でも飲ませておけば十分だろう!?」
そんな無茶苦茶な、そしてその水は一体誰が汲んで来るのかと。
内心でため息をつきながらガラス前の機類の元まで戻った楠は、入れっぱなしだったスピーカーとマイクのスイッチを切った後、また改めて飯島に向き直った。
因みに、『C食』とは食堂で絶賛不人気の食品。
なので手に入れることが非常に容易かった、というのが今回じぶんが感染者の餌にC食を選んだ主な理由だったのだが。
恐らく飯島はそれでは納得しないだろうと、楠はもう一つの理由を説明する。
「水だと混入物がバレバレじゃない? 今ちょっと食事に毒物入れて反応見てるところだから、破滅的な味のものの方が——」
「グッジョブ!!」
その瞬間。
ぱあっと表情を輝かせた飯島が親指を立てる様に、楠は何だか色々と残念なものを見ている気分になった。
「……いや、別に致死量までは混入してないからね?」
「成程、じわじわと甚振るわけか……流石だな」
「いやそんなつもりもないけどね? ちょっとこの感染者の胃に興味が——って!?」
しかし。
チラリと確認したガラス越しの光景に、今度は楠が衝撃を覚えた。
「ちょっと何食べてんの?!」
慌てて切ったばかりの機類のスイッチを入れマイクに叫べば、スピーカーから聞こえてくるのは、食べ物を租借するにはあり得ない音。
『餌だ』
そうして顔を上げた感染者は、最後のプラスチックの欠片をしっかり飲み込んだところだった。
(あ、ありえない)
そして。
そんな現象を目撃した楠の中に沸いたのは、自身の認識を否定する言葉。
「あ、ありえない……ちょっと飯島これどうなってんの?!」
「何となく食べれる気がしたのだろう」
「いやいや。普通生き物って本能的に『食べれる物』と『食べれない物』くらい分かるよね? 一旦口に入れても『無理』って分かったら、吐き出すよね? 間違っても噛み砕いて……咀嚼、とか普通しない、よね……?」
告げられた言葉に違わず出されたものを『残さず食べた』感染者に、楠は軽い戦慄を覚える。
犬が、道に落ちている食べ物を拾い食いするのとは訳が違うのだ。
人並みの知能を持った生き物が、無機物をバリバリ間食しきったという事実は。
動揺する思考で楠が見つめる前、しかし口の周りの食べ滓をペロリと舐めた鴉は鼻を鳴らし、その口角を吊り上げる。
『俺に好き嫌いは無い』
「なんでドヤ顔? いや凄いけどね?! ……君、それ消化出来るの?」
『当分の暇潰しにはなる』
ひまつぶし。
その言葉の意味が一瞬分からなくなる楠だが、ともかくこの感染者は『問題ない』という事が言いたいらしかった。
(問題ない……? いや、そんな馬鹿な)
プラスチックを分解するバクテリアと言うものは確かにこの世に存在するが、それは間違っても通常人の体内にいるものではなかった筈である。
ならば、何故。
複数のスイッチが並ぶ基盤に手をつき己の中にある知識をグルグル手探る楠の中、直ぐさま浮かんだのはやけっぱちにも近い推測だった。
それは感染者だから、というもの。
しかし感染者とは言っても元は人間、けれどそれ以外に有機物を消化する事が出来る理由になるものが見つからない。
すなわち、黒液の変異。
(となれば進化……してるって事に)
ならば“黒液”とは良くいったものだと。
恐らくこの感染者自身、どのようにして自分が“それ”を行っているのかを明確に説明する事は出来ないに違いなく。楠は感染者の中にあるブラックボックスをこれ以上なく痛感した。
『そういえば、非常食は今なにをしている?』
「えーっと……奏、ちゃん?」
そして。
ふと思い出したように掛けられた声に、楠は気持ち半ば以下でおぼろげな確認を口から落とした。
正直、多大なショッキングに出会ってしまった脳内はそれどころではない状態である。
「私の娘に何か用か」
けれど、それに速やかに反応を返せる者が此処には居るのである。
『貴様の、だと?』
そうして始まった第二ラウンド――否、前回は会話になっていなかったのでこれが第一ラウンドかもしれない――に、楠はうつろな目を向けた。
『あれは俺の非常食だ。二度言わんと分からんとは、どうやら貴様の頭は腐っているらしい』
「脳腐れは貴様だ小僧、あれは私の娘……そう、ポッと出の小童風情が何を言おうと、奏を初めに拾い育て上げたのは私なのだからな!」
『だからどうした』
「この世は早い者勝ちだ」
『関係ないな』
ポンポン、ポンポンと。
あれだけの衝撃映像を見た後に よくもそう下らない争いが出来るものだと、少しばかり回復してきた思考回路で楠は嘆息した。
第三者からすれば間違いなく飯島は駄目な(というより残念な)父親で、鴉の方も色々やり方を間違えているとしか思えなくて。
(……暇人)
なんにしろ色々と残念な言葉の応酬に、なんだかアホらしい気持ちになってきた楠はそこでふと、己がこれ以上なく無駄に時間を使ってしまっている事に気がついた。
そう。
こんな会話をぼんやり聞いている暇があれば、その時間を研究に当てるべきである。というより、当てたい。
なので此処は終わりそうにない所有権争いなどはもう無視して、速やかに研究室に戻るべきである。時間は有限、努力は無限。この世で最も大切な存在をないがしろにして良い筈がない。
と、我に返った楠は早急に踵を返しかけたのだが。
『重要なのは誰が手に入れたかではない、最後に誰が喰うかだ』
スピーカー越しからの言葉に、楠の足はピタリと止まった。
「……っ」
チラリ、と視線をやってみれば、そこには苦虫を百匹以上噛み潰したかのような飯島の表情。
“拾った”という始まりの主張も“非常食”と言う終わりの主張も、傍から見れば間逆なだけに同じだけのベクトルを持っているように思うが。
(あ、こいつ負けたっぽい)
言い返せなかった飯島は、そう感じてしまったのだろう。
直ぐに顔が伏せられてしまったためその表情を読み取る事は叶わなくなったが、立ち上る怒気に尋常ならざるものを感じ、楠は反射的に機械の後方へと隠れた。
実はこの所長様、普段はアレだが怒らせると――
(ん? 怒らせると……どうなるっけ?)
そういえば飯島の“まじぎれ”というやつを見た事がないという事に気付いた楠は、怖いもの見たさと好奇心によってその場で観察を始める事に決めた。
激しい怒りを覚えた時にこいつがどんな行動に出るのか、というのは中々に見物である。
まず直接的暴力にでるのか、それとも尚口喧嘩を続行するのか、はたまた裏から陰湿な手段をとる方向へ移行するのか――そういえば『泣く』という選択肢もあるが、出来ればそれは勘弁願いたいものである、と。
「……貴様、今後奏に近づけると思うなよ」
しかし、やがて。
地の底から湧き出るかのような声色で告げた飯島は、只静かにその踵を返した。
その、ちょっぴり予想外な行動。
きっとガラスをぶち破らん勢いで鴉に掴みかかっていくんだろうと予測していた楠は、けれど慌てて依然怒気の滲む後姿へと機械の影から声をかける。
「あ、飯島!」
「……なんだ」
「帰るんなら、ちょっと壊れたPC直していってくれる?」
「……。」
僕研究あるし、面倒だし、と。
端折られた言葉はいつもの事なので、きっと飯島も理解している事だろう。
そして。
「……自分で壊したものくらい自分で直せ! と、言いたいところだが。分かった」
いつもの事に、いつもの様な態度を飯島が返してきたので。
兎に角何かいわねばと咄嗟に言葉を吐いてしまっていた楠は、ほっととりあえず一息をついた。ギギギ、っと錆びた機械のように緩慢に振り返った相手からの視線は、途轍もなくブラックに淀んでいたが。
(全く……)
普段より少し大きな足音を鳴らしながら、研究室へと消えていく飯島の後姿を見送り。その耳で閉じられた扉の向こう、きちんと落下したコンピューターが拾われる音を確認した楠は、改めて機械の影から体を出した。
なんというのか少しばかりモヤっとするのは恐らく、やはりどうにも付き合いが長い相手が落ち込んでいると、それとなく気に掛かってしまうからだろう。
などと軽く自己分析をしてみる楠は、まぁ研究に没頭すればそれも直ぐに忘れる自分を当然知っていたが。
スイッチ入れっぱなしのまま放置された機械の前まで戻った後、それでも今だけは恐らく傷心である腐れ縁を思い、軽く舌打ちまじりのため息を落としてやる事にした。
「君、駄目だねー? “お父さん”を敵に回すと面倒くさいんだよ?」
『知るか』
けれど当然というべきか、なんというべきか。
哀れなほど無残に跳ね除けられた言葉に、楠は軽い苦笑を漏らした。