その50・自分の欠点に気がつくこと
両脇に松葉杖の横木カバーを挟んで。
最初はこんなオーバーな、等と思っていたものの、すっかりそれを使いこなし始めた奏は悠々と一段飛ばしに階段を下りていっていた。
やはり、大切なのは慣れという事か。おかげ様で片足しか使えない状態だというのに彼女は案外、自由自在に所内を歩き回る事が出来ている。
あのあと。
少し早めの夕食を取りに行った飯島と河井を見送った奏は、研究所地下にまで降りてきていた。普段と違って運動量が少ないので、まだお腹が空いていなかったのもあるし、日本刀に対する資料を早く閲覧したかったというのもある。
なので今の奏の目的地は、図書館――そう呼ばれる様々な資料が詰め込まれた、研究所地下にある一室。
「……。」
けれど、左右に伸びる分かれ道の真ん中で、奏の足はピタリと止まった。
「…………。」
右に行けば、図書館。
そして左に行けば――そこは楠の研究室。
「………………。」
なのでここは迷うことなく、右に向かうべき足先なのだが。
どうせ怪我の完治まで時間はあるし、と。どうにも言い訳臭い事を考えながら奏は曲がり角を左折した。
くるりと振り返った先、元来た道には誰の影もなく、蛍光灯の静けさにほっとした彼女の眉はしかし、直後ぐっと多大に寄せられる。
(……あー、くそ)
もしかして今、自分は何やらコソコソとしていなかっただろうか。
否、間違いなくコソコソしていた自分は一体、何をコソコソしているというのか。
自身の行動に不快を覚える奏は、どうにも怪我をしてからというものの、色々と本調子ではなかった。
まぁ怪我をしているのだから当然だが、身体的な面以外でも――主に精神的な部分で、ある対象に対して。
(……筋トレか鍛錬すれば、一発でスッキリするのに)
たとえば今にしても。意識した途端にモヤモヤモヤモヤと。
何かを訴え始める胸の奥に、理由をつけようと勝手に動き出す己の思考が、奏はどうにも好きになれない。
第一そもそも頭の中にある物思いの原因が気にくわない。自己邂逅など趣味ではない。
自分の事など一番自分が分からない奏は、沸き始めた不快感とフラストレーションを振り払うように舌打ちをする。
全く、いくらボコボコにされるとはいえ身体を思い切り動かせる河井が羨ましい、なんて。
完全な怪我人の妬み的なものを抱える奏は、使える左足も右足同様宙に浮かせ、せめてもの慰めに研究室までの道のりを松葉杖のみで進んでいくという修行に勤しんでみる事にした。
けれど、研究室までの距離はそう遠いものではなく。
直ぐにその扉の前まで辿り着いた奏は、しかし運動によって爽やかな汗をかいていた。
なので扉を叩いた際のノック音も、比較的軽やかに周囲に響くものだ。
「奏ですが」
「ああ、奏ちゃん、どうぞどうぞ?」
そうして中から数秒後。応答の声があったところこの部屋の主は、今日も今日とてしっかり引きこもっていたらしいと。
許可を確認した奏は一歩下がって右手でドアノブを回した直後、すぐドアノブを左手に持ち変えなければならなくなり地味に己の苛立ちメーターが上がるのを感じた。
全くこういう時、松葉杖というのは非常に不便だ。
まったく、なぜ何処もかしこもドアというものは左に向かって開くのか、と。
一見地味な、けれど普段との生活の変化に着実にストレスを募らせる奏は、そんな思いを煩わせながらもいそいそと室内に踏み込んでいく。
すると、そこにはいつもの定位置。
部屋の中心のデスクに向かっている楠の後姿が、妙に奏の視界に真っ直ぐ映る。
「……失礼します」
訪問者の挨拶に振り向く事もせず、一心不乱にデスクに向かっている楠は今日も今日とて何かの研究をしているのだろう。
その傍らの床に何故か落下しているパソコンにチラリと目をやりながら、奏は入室した部屋の扉をやはり少し不器用に静かに閉じた。
(……それにしても)
この研究室は、相変わらずだ。
右を向けば真っ黒な液体の詰まった試験管、左を向けばズラリと並んだカバーの掛けられた棚。そしてそこらかしこに、奏には到底用途の分からない機械類。
更に言えばその床のあちこちに散らばった、検体がどうのと走り書きされてあるレポート用紙達の内容が、見るたび変わっているのも相変わらずだと。
(本当に、この人は――)
感染者にしか興味がないのだろう。
そう思わせるブレない部屋の有様に、奏は床に散らばったレポート用紙を踏まないよう、楠の隣にまで足を進めた。
雨の日も風の日も雪の日も当然晴れの日も、まっすぐに机に向かい続けているその後ろ姿は、どうにも眩しいものに思える。それは当然、“引きこもってるから天気とか関係ない”とか“蛍光灯に白衣の白が反射しているから”とかそういった意味ではない。
「あの、楠さん……」
「ん、どうかしたの? 何か問題でもあったのかな?」
「えっとですね」
「んん? ほんとどうかしたの、奏ちゃん」
一行をかき終えた研究者が、漸く奏の方へと顔を上げる。
コトンと。
首を傾けた楠の、その前髪の下からの視線を感じて、自覚なく言い淀んでしまっていた奏は些か居心地が悪くなった。
「その……調子はどうですか。私が連れ帰った、感染者の」
しかし、何故。
この単純な一言が、喉からサラリと流れなかったのか。
具体的に問いを吐くまで自分の不振さに気付かなかった奏は、分からない事は基本的に放置する主義だったのでとりあえず今はモヤモヤを押さえ、只相手の答えを待つことにした。
幸いなことに、楠は感染者の話題となると全ての行動が異常に速やかになる。
「ああ、気になる? 様子見てみる?」
「……はい」
そして。
どうにもスッキリしない気持ちの奏の前で、楠の腰はやはり、速やかに上がった。スタスタと流れるような動きで白衣の後姿が向かいだしたのは研究室の更に奥、奏も最近になって存在を知った楠専用の実験室の一部だ。
そこに、何がいるのかなんて。
当然知っている奏は、なんだか大きくなったモヤモヤに数回自身の胸を数回叩く。
「楠さん……何か変なものを食べた場合、息苦しくなるんでしょうか」
「普通はお腹が痛くなると思うよ?」
「……ですよね」
それはそうだ、そもそも自分は変なものを食べた覚えも無い、と。
自分でも半ば分かっていながらに確認をした奏は、既にこのモヤモヤの原因を実は突き止めていた。
そう、それは間違いなく、この先の実験室に捉えられている存在のせいである。
(消しても消しても浮かんでくるって……)
まるで、タチの悪い汚れのようだと。
顔を見たら反射的に逃げ出したくなるほど忘れたい筈の存在に精神まで汚染される不愉快さに心中で悪態をつく奏だったが、前回の任務から帰った後からというものの、どうにもチラッチラと瞼の裏に浮かんでくるのだからどうしようもない。
非常に釈然としないが、どうしようもない。
(ん、ってか私なんでそもそも……直ぐに確認に行かなかったんだっけ?)
そうして今更になって研究室に来ている奏はそこでふと、河井や飯島といった自分に接触してくる人間からも、それのきっかけになる様な話題が--それ自体の話題が、全く出されていない事に気がついた。
しかし、それは何だかおかしくないか。奴のせいで彼らは大いに振り回されただろうし、研究所内も数日慌しかったというのにと。
関連的に不可解に気付いた奏はまた首を傾げるが、何故彼らが全くそれの話題を口にしなかったのかなど、当然到底分からない。
しかしそんな、同じような場所から抜け出せない思考回路に反し、楠に先導された足だけはちゃくちゃくと進んでおり。
いくつかの疑問符を内心で浮かべている間に、楠に先導された奏は目的の部屋に到着した。
「とりあえず今は落ち着いてるけどね? 一時期は拘束具を十五時間ごとに取り替えないと持たなくて、大変だったんだよ?」
「ああ……それは、なんというか。ご迷惑をおかけしました」
「あはは、なんか保護者みたいなセリフだね?」
パチリと。
真っ暗な部屋に明かりが灯れば、奏はしばし目が眩む。
それでも脇で杖を指させながら掌を目の上にかざしてみると、少しは目に優しくなった蛍光灯の光源の下、部屋の様子がチカチカしながらに何とか把握できるようになった。
まず、眼前に広がるのは壁のようなガラス窓。
その前には簡素な、机と椅子。
そしてやはり所狭しと並んだ、何やらゴチャゴチャとレバーなどがついた機械類。
全てはガラス窓の奥の存在を、監視するためにあるものだ。
「……。」
他のラボとは違う、明らかに楠が自分仕様に完成させている完全な実験室。
そのガラスは当然、相当の強度を有しているのだろう。
そしてそのガラスは、周りの機械類は、元々此処にあったものなのかそれとも運び込まれたものなのか、なんて。
考えるよりも先、奏の思考は一つの名前を呼んでいた。
「まぁ兎に角。今は時々接触を試みて、大人しくさせる方法を模索中ってとこかな? やっぱり協力的なほうが研究もやりやすいしね、まぁ協力的じゃなくても強引にやっちゃえばいいんだけどね? せっかく奇跡的に言葉が通じる検体なわけだし?」
そんな楠の言葉が奏の耳に入ってきたのは、およそ数秒後のこと。
ふらふらとガラスに近づいていた彼女が無心に零した名の主は、ガラス越しでなにやらゴテゴテとした塊のような姿と化している。
(鴉……?)
まず、その手と足と頭部には、真っ黒な袋状のものが被せられていた。
そしてそられを固定するのは、グルグルと巻きつく太いベルト。
更に、その上からは今度は見るからに頑丈そうな鉄のロープがぐるぐる巻きついており――この時点でかなり、巻きすぎの為フォルムが丸くなっていたのだが。
挙句の果てのはその上からまた、今度はガッチリとした銀の鎖でグルグル巻きにされているのでなんというか正直、彼女が疑問符着きでその名を呼んでしまうのも無理はないだろう……といった有様がそこにはゴロリと転がっていた。
「ま、僕としては新しい検体が入ってくれて嬉しいよ? ありがとうね、奏ちゃん?」
「いえ、私は……というかあれ、巻きすぎじゃないですか?」
「あはは、なに言ってるの? 捕まえた感染者はスマキが基本だよね?」
楠のサラリとした言葉に、あれをスマキと呼んで良いのか。まぁあえて言うなら『スーパー・スマキ』か『ゴールデンスマキ』といったところか、と。
(否、鎖だからゴールデンじゃなくてシルバー……それに『スーパー・すまき』とか、なんか……野菜とか特売してそう……)
などと一瞬妙な事に思考を流してしまっていた奏は、慌ててそんな場合ではないと頭を振った。
しかし、それならば一体どんな場合だったというのか。
ガラス越しの捕らえられた鴉(らしきもの)の光景にすっかり色々持ってかれた奏は、しばし何かがあったようなと自分の中で言葉を探る。
「えーっと。それでこれから、どんな研究を?」
そうして吐き出した言葉は、何だか自分の中でもちょっぴり違和感があったが。
他に聞くことも思い浮かばなかったので、恐らくこれが聞きたかったのだろうと奏は一人、納得した。
「そうだね、とりあえず新鮮なサンプルから。ほら、君達がもって帰って来てくれてるのって保存用容器に入れてるとは言っても、やっぱり鮮度が落ちてるし?というか死んでるし?」
「まぁ、それはそうですね」
そして、同じくガラス窓の前までやってきた楠と並んで。
ごてごてグルグル巻きの塊を眺める奏の中で、前々から思っていた素朴な疑問がいまアッサリと解決された。
そう。黒液は人体の外で二十四時間以上生きられないのに、自分らがサンプルを摂取する事に意味はあるのかという疑問。
けれどそれにはやはり意味があったらしく、けれど全く新鮮ではなかったらしいと。
ならば気を使って保存容器を守る意味もなかったような気がしつつ、ガラスの向こう側を眺める奏は『なんか、最初小さな塊が色々引っ付けながら転がって行くゲームあったよな。あのゲーム名前なんだっけ?』などと心底どうでも良い事を考えていた。
「だからまず、その辺りから見直して……とは言ってもやっぱ結果は同じだろうからとりあえず生かさず殺さず、解剖していきたいんだけど――っ!!?」
しかし、その時。
今後の展望を口にする楠の言葉にかぶさったのは、まるで工事現場でクレーンが物を落としたかのような爆音だった。
ガァン、というのかドカァン、というのか。
それをあらわす擬音がいかにチャチなものなのか、いま奏の目の前で振動に激しく揺れるガラスがその身をもって主張している。
「……まぁ、この調子って言うか。隙あらば暴れようとするから困るんだよね、あはははは」
「……。」
衝撃と振動を伴う音の正体は、部屋に転がる塊からだった。
奏が見ていたところ、ソレが突如飛び上がり壁に衝突したように見えるが、果たしてあの状態からそんな動作が可能なのか。
しかし実際可能であった事は、まだワンワンとなる己の耳朶の奥と、ガラス向こうの壁からパラパラ零れ落ちているコンクリートの残骸が証明している。
「……食事を、与えているんですか?」
「最低限ね、腐ってない状態で色々見たいところあるし? なんと言ってもコイツは特殊型だから……大人しくさせる方法、ってのをもうちょっと探してみても良いかなって」
聞けば答えるどうにも悠長な楠に、奏は一抹の不安を覚えた。
(いやもうコレ絶食した方がいいでしょ……ってかこのままだったらそのうちガラス割られるんじゃあ……)
そしてその時、この研究所に来たのは完全に鴉自身の意思ではあるが、なんとなくその身を売ったようなポジションになってしまっている自分は一体どうなってしまうのか、と。
大切な事なので繰り返すが、此処に来たのは間違いなく鴉の意思だが、と。
奴がもし拘束から逃れたとき、なんだか物凄くろくでもない目に会う気しかしない奏は今何故直ぐに鴉の様子を見に行かなかったのか、という己の行動の理由を理解する。
それはもう、単純に報復が怖かったのだ。
(で、でもアンタがこうなってるのは、私のせいじゃないからね!? ってか私、一応止めたし……!)
等と心の中でガラス越しに転がる塊に語りかける奏の背には、既にダラダラと冷や汗が伝っていた。
「……ねぇ奏ちゃん? 奏ちゃんは、こいつらの『性格』ってどこから来てるんだと思う?」
しかし、隣の楠からは緊張の片鱗も伺えない。
それどころか何故か唐突にそんな話をし始めた楠に、拘束の強化を申し出ようかとも思う奏だが。
(ん……まてよ?)
良く考えれば脱出できる状態ならば、奴はとっくに脱出しているだろうと。
ふと、気付いて納得した彼女はしかし、それでもやっぱり怖いのでガラス向こうから視線を外せない。
「……特殊型の場合は第二の欲求から、なのでは?」
そうして、鴉を内包する転がる塊を凝視したままに。奏がゆっくり紡いだそれは実に、マニュアル通りの答えだった。
そう、特殊型は食欲に加え、もう一つの欲求をもつ。
ならばそれが『性格』として表に表れる事は自然で、けれど性格というものが本当に感染者の中に存在するのかは中々に分かり難いものでもあって。
というかそもそも楠の質問である『性格』、それはなんだかとても不確かなものだ。
(鴉みたいに喋るか、ある程度一緒にいればまぁ……コイツ性格最悪だな、とか分かるけど)
殆どの感染者は、言葉を話せるような知能など無い。
只のゾンビのように「あー」とか「うー」とか言っているだけの奴らに、性格を見出す事は困難である。
しかし凡庸型も変異型も特殊型も、みんなみんな同じ黒液に感染した仲間なのだから、特殊型にあるものは只のゾンビにもあるのかもしれないと。だが、あったとしても認知は出来ないと。
奏が分かる範囲だけで返した答えに、しかし楠は小さくその頭を振る。
「ううん、そういう話じゃなくてね? ……黒液自体に色々性格があるのか、それとも感染者の脳にあるのかって話」
どうやら、楠は性格があるもの前提の話がしたかったらしい。
そんな思考の行き違いにちょっぴり遅れて気がついた奏は、そこまで深く考えていなかったのでしばしの間、返答に困った。
黒液自体に性格があるのか、感染者の脳に性格があるのか。
正直そんなどうでもいいこと――性格など在るものにはあるし、その在り処を知って何になるのか――というのが探求に興味がない彼女の本音である。
「……。」
「例えば感染者Aの体中の黒液を全て他の人に移し替えたら、その人はAになるのかな?」
けれど、ガラス窓を背にして凭れる楠にとってそれは非常に興味深いものらしく。
無言しか返せなかった奏は、口を開く前に投げられた次の質問に、またしばらく頭を悩ませた。
「どうでしょうね。でも確か黒液に種類はないと前、楠さん言ってませんでした?」
「まぁね……そうなんだよね」
そうなんだよね、とはどういう事か。
自分で質問しておきながら、自分の研究成果に納得する楠はなんだかとても不振だった。
しかしその時ふと、“自分で答えが分かっておきながら質問をする”という行為にデジャブを感じた奏は、答えを得るようチラリと相手の顔を盗み見る。
「それに、こいつらの『性格』の元になってる『欲求』って、感染者自身が生前最も強く抱いていた欲求だとされてるしね?まぁそれは脳の中では良く使われている回路ほど強化されるっていう所から来てて、つまり脳が黒液に乗っ取られた後も自然とその回路が使われやすいようになってるって事なんだけど……それはつまり、感染者の性格は脳に依存しているって事で――」
そこにあるのは、伏せ気味ながらにも真剣な表情。
ブツブツ、ブツブツと。態々確認しなくともその頭の出来を考えれば、間違いなく自分自身理解しているであろう事を繰り返している楠に、奏は彼女にしては聡く、もしや楠は鴉を拘束する手間で色々と疲れているのではないか、などと。若干失礼ながらにさもありんな推測を立てた結果、やはり鴉はその性格上、絶食にしたら逆に面倒な事になりそうだなんて改めて考えた。
「じゃあ感染者の脳だけを普通の人に移植することが出来たら、どうなるのかな? 気にならない?」
しかしなんだか、サラリとんでもない事を問われた気がして。
奏は一瞬固まった脳内で、相手の言葉を確かめた。
「感染者の脳を、普通の人間に……?」
それの、意味するところ。何故、それを行うのかという動機的な部分。
浮かんだ疑問の問いを求めるよう、じっと奏は楠を見つめるが、そんな彼女の耳に届いたのはただ無邪気ないつもの笑い声だった。
「感染者を、人間にしたいんですか?」
「あはは」
「……。」
「……仮定の話だよ。そもそも感染者の脳は黒液によって動かされてるから、黒液無しでは動かないしね?」
けれど。
明るく紡がれた楠の言葉に、別の何かが滲んでいたのは気のせいかと。
普段なら絶対に気がつかなかったであろうそれに奏が違和感を覚えたのは、恐らく楠という人物と知り合ってからの期間がそこにあったからだろう。
「……つまり、感染者を元に戻す事が無理だというのは」
「そう、そこから来てる。……感染した時点で、その人の身体は黒液にしか動かせないものになってるから。でも、なんとかならないかなって」
黒液に感染しなくなる薬なんかよりずっと、研究しがいのある課題だから、と。
軽く笑ってみせる楠の顔から、奏は静かに視線を逸らした。
全く、どこからが本気で、どこからが冗談なのか。
奇しくもそれはとある新入社員が抱いた感想と同じだったが、当然そんなことは知らない奏はただ心中で、重く長いため息を落とす。それはこの研究所に長い彼女であってさえも、やはり分からない事だった。
まぁもしこの場に河井がいたら「え、お前そもそも人の気持ちとかに敏感じゃねぇよな?」などというツッコミが入ったことだろうが。
(それにしても……)
もしや楠は、初めからそれを最終目的にしていたのではないか、と。
一つの可能性に気づきかける奏は、けれどそれを確信にまで持ち込むまでの自信が無い。
「……ああ、そういえば楠さん」
「ん?なに何?」
「……図書室に人外生命体が出るらしいんですけど、何か知ってます?」
「知らないよ? ……ってかなんで僕に聞くの?」
そりゃ知ってるかもしれないと思ったから、というのは自分の心だけに留めて。
とりあえず一応の確認をした奏は、もうこの部屋を後にする事にした。
そう。
モヤっと解消の為、研究室につい寄り道してしまったが。そもそも奏は、河井いわく『妖精さん』とかいう不思議生命体が出没するらしい、図書館に向かう途中だったのだ。
しかし。
(……くっそ)
楠に見送られ研究室を出た奏は、自分のモヤモヤが一向に改善されていないという不快な事実に眉を寄せた。
それどころか寧ろ、モヤっとが増しているような気すらするのは一体、全体どういう事かと。
「……あー」
ああ、こう言う時は何でもいいから身体を動かしたいと。
やはり筋トレに逃避しようとしてしまう彼女は、しかしそこで不意に、気付きたくなかった事実に気付かされた。
(―――もしかして、私昔から、こうだった……?)
筋トレをすると、スッキリする。
難しい問題を、忘れる事が出来る。
そうして放置してきた問題は、いずれどんな形にせよ自分の下に帰ってくるというのに。
「……っ」
結局人間は頭を使わなければならない生き物なのかと。
浮き彫りになってしまった自分の悪癖に奏は舌を打ち、何事かを誤魔化すように図書館への道を松葉杖で駆けぬけた。




