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ゾンビから生き残るための百のルール  作者:
第四章、応用編その1
54/109

その49・つかの間の休息を謳歌すること







 ヒュっと鳴ったのは風を切る音か、それとも衣同士の摩擦音か。

 自分自身が誰かと対峙している時には気にした事のなかった音を、奏は今始めて客観的に聞いていた。

 聴覚が捕らえた音に対し、身構えるよう反射的に力を入れてしまう彼女の膝の上には、先ほど河井から返された日本刀がある。


「……っぐ!」


 そしてそんな奏の視界の先、鈍い呻き声をもらすのは先ほど宙を舞う羽目になっていた河井だ。

 ものの見事に投げられたのだから、堪えようにも衝撃によって肺から空気が抜けるのは仕方のないことだろう。けれど落下時の衝撃がそこまで大きくないあたり、飯島もきちんと投げる際に衝撃を殺してやっているらしい。


(あー……痛そう)


 しかし、それでも多少は背に痛みは走るし、何よりも宙で一回転されるという感覚は体験した事のない者には恐ろしい。


(そういえば――自分も昔は、ああだったな……)


 地面に転がる敗者と、酷く軽やかに翻っていた勝者の白衣の裾を眺めながら、自身の過去を思い返す奏は今の河井の気持ちが良く分かった。

 彼が目を白黒させている理由も、何度投げられてもつい、向かっていってしまう理由も。


「もう終わりかね? 遠慮は要らない、好きなだけかかって来なさい」

「……っ」


 手を差し出してくる飯島の言葉を、挑発だと受け取ってしまうという事も。

 なので上体を起こしギリギリと歯噛みしている河井の様子は、本人からすればそれはもう苛立ちMAX状態なのだろうが。


(そうなんだよね……負け続けるとムカつくを通り越して、顔面殴りたくなるっていうか)


 奏はなんだか、ほのぼのと懐かしい気分である。

 そうれはもう、このままではつい、ガンバレー!などと応援の言葉を飛ばしてしまいそうな程に。

 けれど同時に彼女はこの勝負、どうあがこうが河井には勝ち目がない事を100パーセント近く確信していた。


 そう。

 例えば足が速いこと。

 例えば腕っ節が強いこと、又はスタミナがあること。

 そして、知恵や運や根性があること。

 個人によってそれぞれだが、研究所の者とは基本的に、一般より身体能力が高いことが多かった。何故ならそういった要因がなくてはこのご時世、そもそも弱肉強食の外で生き延びる事が出来ていないからである。

 そして。

 この研究所内で、“古株”と呼ばれる位置にいる者は特に、その傾向が強かった。


(あの災害の真っ只中を生き延びて。安全な場所(研究所)に辿り着いたかと思えば、それからまた感染者とわざわざ戦って……それでも今、まだ生きてる)


 なんたって場数が違うのだ、強くないわけがない。

 まぁその多くは今ではもう任務中に死亡し、昔前線に出ていた飯島に至っては少しばかり事情が違うのだが。

 なので本当のところ、戦闘的な意味で真に“古株”と呼べる人たちはもうほとんど残っていないんじゃないか――と、自分自身既に“古株”だという事に気付かない奏は、少しばかりずれ始めた己の思考回路に気づかず、頬杖の上で微かなため息を落とした。

 十年前と比べれば、確かに減っては来ている感染者の数。

 しかし同時に当然というかなんというか、人の数もやはり、減っている。


「っ……もっかい、お願いします」


 一方。

 奏がそんな思想をふけっている間に身体を起こし、相手から距離をとった河井は、これで七度目の敗北だというのにまだ闘志が残っているようだった。


(中々の根性……ってか打たれ強さ?)


 諦めの悪さは折り紙つき、とはこの事かもしれないと。

 目の前の二人へ意識を戻した奏は意外と逞しい河井の様子に好感を抱きながら、改めてこの『鍛錬』のいきさつを回想する。


――ルールは簡単、相手の背中を地面に着かせた方が勝ち。


 そんな簡単な取り決めのもと、飯島と対峙する事になった河井は初め、明らかに遠慮が先立っていた。

 それはそうだろう。なんたって相手は所長。

 なので一戦目ぎこちなく向かっていった彼が、瞬時に床に転がされるのはまぁ当然の結果というヤツで。

 けれどそこで、河井は接近戦ド素人ながらに相手の余裕を感じ取ったのか。


 二度目は一度目よりも、真剣に。

 三度目は二度目よりも、本気を出して。

 四度目は三度目より、相手の怪我を覚悟して。


 そうして続いていった先程の七度目の敗北の前。河井は少なくとも、本気を越えたやけっぱちになっていたように奏には見えた。

 けれど、結果は敗北。

 此処までくれば流石の河井も、心が折れる頃だろう――そう思っていたのに。


 まだまだやる気の彼の表情に少しばかり驚いた奏はそこで、一つだけ助言をしたくなった。


「河井さん」

「……なに」

「ちょっと力が入りすぎです。相手のバランスを崩すのに、そこまで力は要りません」


 なんたってこのままでは流石に、河井の背中が悲鳴を上げだしてしまいかねないと。

 先程から見ていた感想を伝えた奏から見て、彼にはかなり余計な部分に余計な力が入っていた。

 それはつまり硬くなっている、ということであり、硬いものほど崩しやすいものはない、という接近戦においての重要な感覚。更に言うならばそもそも接近戦とは反射の駆け引きなのだが、恐らく今の彼にはそこまで言っても理解出来ないだろうし、と。


「え、だって力いれないと倒せねぇだろ?! しかも力いれねぇと倒されるし!」

「現に今、力いれててもどっちも出来てないじゃないですか」

「……つまり俺が非力だって言いたいのか」


 けれど。

 何故そうなる、と突っ込みたくなってしまった奏は早々に彼への助言を諦めた。

 今の河井は、投げられすぎて頭に血が上っている可能性が高い。

 ならば何を言おうと全く無駄な事であり、好きにさせるのが一番である。


「うむ。まぁ、身を持って覚えるのが一番だという事だな」

「……しかし所長。このままでは彼は、今晩仰向けに寝る事が出来なくなります」

「そこまで強く投げていないが」

「ちりも積もれば山となるんです」


 しかし、どうにも己の実体験が脳裏を過ぎり。

 静止じみた事をつい吐き出してしまった奏は、飯島に稽古をつけてもらい始めた当初、今の河井のように投げられまくった挙句、夜あまりの背中の痛さに呻きまくっていた時期が実はあった。

 なので間違いなく、このあたりで止めておいた方がいいというボーダーラインが見えるのだが。


「いや、やる。やるっす、所長。お願いできますか」

「いくらでも」


 男二人は、止まらなかった。

 そして奏自身、口にはしてみたものの、本人の意志を押し切ってまで止める気など更々なかったので。


 ショックと痛みとちょっぴり嘔吐感によって河井が身体を起こせなくなるまで、彼女はそんな二人の『鍛錬』を延々と眺めるはめになった。





「ぅ……な、なんで勝てねぇんだ……」

「逆になんで勝てると思うんですか。貴方、銃以外触ってこなかったでしょう」

「いや、でも明らかに所長より俺のほうが筋肉あるだろ!? ……う、なんかきもちわるい」

「此処で吐かない下さいね――って、だから。河井さんは無駄な場所に無駄な力を入れすぎなんです」


 そうして、数分後。

 ぐったりと床に突っ伏した河井の後頭部に、奏はため息交じりの言葉を投げる。

 根性とその気力は認めるが、やはり彼はダメダメだった。


「なんだ、それ……わかんねぇ……ってか、なんで所長強いんすか……」

「当然、所長だからだ」

「いや意味わかんないっす」


 はぁ、と。

 多大なため息を落としながらも顔を上げない河井の中では、恐らく投げられすぎた痛み以上に完敗のショックが大きいのだろう。

 そしてそんな彼を見下ろしながら当然のように頷いた飯島は、いつもの如く汗一つかいていない有様で飄々とのたまう。


「単純な話、所長が弱くては威厳に関わるだろう?」

「いや……所長はただ椅子に座って、指示とかを出してる係りだと思うんすけど」

「それもそうだが。最初の頃はともかく、まともに感染者と対峙できる者が少なかったのでな……ある程度戦えるようになる必要性があったのだよ。所長として、な」


 言って床に寝そべったままの河井から顔を上げた飯島の、その視線の先にあるのは壁。

 その壁に特に目立った特長がない所、恐らく彼は過去を回想しているのだろうと奏は刀をいじくりながらに察した。


「え、じゃあ昔……所長も感染者と戦ってたんすか」

「そうだな、そんな時期もあった……しかしまぁ、昔の話だ」


 そう、昔の話。

 それを知っている奏はぼんやりと、その頃をの様子を回想する。

 その頃はまだ“研究所”という組織が全然完成しきっていなくて、食料はいつだって足りなくて、拳銃を民間に盗まれたりもして。

 なんだか散々な有様だったが、それが秩序を取り戻すのは案外早かった覚えがある。

 なので当初を知っている奏自身、飯島が任務を行っているところは二度か三度くらいしか知らなかった。なんたって、本当に当初は誰が何処で何をしているか、全て把握できていない状況だったのだ。

 と、なると即ちその二・三回とは、奏が彼の任務に同行した回数だったりするのだがしかし、なんといっても飯島はそんな彼女の師匠。

 つまり奏は飯島の腕を、嫌というほど知っていて。


「え、じゃあもしかして楠さんとかも昔は……!?」


 しかし。

 そんな事は知らない河井は余程、所長の腕が立つことに納得がいかなかったのだろう。

 結果『実は研究所の人間は……全員腕っ節が強いのである!』という結論にいたったのか、戦闘の文字から最も程遠い人物の名を上げた彼へと、飯島が小さく苦笑を零した。


「そんな訳がないだろう。あれは貴重だ、安全な場所で脳みそを働かしていればそれでいい……という事にしている」


 全く持ってその通り。

 とまでは思わなかったが、手元の刀を抜いたり指したり手遊ぶ奏は飯島に大体同意だった。

 そう、人にはやっぱり適材適所というものがある。

 楠の“脳みそ”の性能が完全に理解の外にある為、奏の中に今一しっくりとした感覚は沸かなかったが。


(でも所長がそう言うくらいだから……本当に相当凄いんだろうな)


 なんたって、所長がそう言うくらいなのだから。

 そんな曖昧ながらに、確かな感覚で一人心中で頷いていた奏は、いつの間にやら自分の方へと歩み寄って来ていた飯島の影に顔を上げた。


「それで。どうだね、奏」

「……どう、とは?」


 考え事をしていた上に、飯島の言葉が曖昧すぎて。

 きょとんと目を瞬かせた奏は相手が指差したその先に、直ぐ何を聞かれたのかを理解する。


「日本刀だ。君との相性は悪くなさそうだが」

「まぁ少なくとも、河井さんよりはまともに扱えるかと」


 ふむ、と小さく頷きなんだか探るような視線を向けてきた飯島に。

 奏は「何それどういう意味?」などと向こうで言っている河井を尻目に、もしやちょっぴりボーっとしていた事を見抜かれたのかと内心少し動揺した。

 なんというか怪我をしてからというものの、あまりの暇さに考え事をしてしまう時間が多くなってしまったようだと、奏はぽりぽり頭を掻く。


「まぁ、でも……やはりまだ慣れないですね。刀を抜くときに少し、引っかかってしまいますし。やはり知識もあったほうが慣れやすいかもしれません」

「ふむ、確かにそうかもしれないな。となれば」

「そうですね。やはり、後で図書館に行くことにします」


 けれど、ぽんぽんと。

 奏が会話を軽く返せば、飯島の中にあった『まさか見てるだけで暇すぎて眠りかけていたのではあるまいな』という疑惑もすんなり消えたのだろう。

 しかし頷いて松葉杖を手渡してくれる飯島の手際の良さに、やはり彼は此方の考えなど全てお見通しなのではないかと。見透かされる感覚に視線を伏せた奏が、無言で渡されたそれを受け取ると同時。


「あ、そういえば知ってるか」


 床に座れる位まで精神HPが回復したらしい河井が、突拍子もない話を口にした。


「その図書館だけどな、最近――妖精さんが出るらしいぞ」








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