全力で空気を読むこと
「……あー。そうだ、楠さん! 俺、実は書き直しの報告書持ってきただけなんで。それじゃ――」
「せっかくだし河井君も聞いていけば? それに、どうせその報告書も書き直しになるよ?」
直後、自分だけ逃走し様としていた河井はあっさりとそれに失敗したようで。
今や何やら机に広げた書面と睨めっこしているその姿を尻目に、卓郎君は緊張で湧き出る唾をゴクリと飲み込んだ。
(な、なんでこんな事に……!!)
始め自分は、畜産系の仕事場を探していたはずで。
そこにいる先輩達との交流により、今後の色々を教えて貰う予定だったわけで。
こんな怪しげな地下部屋で不機嫌な上司と対面する予定など、全く持ってなかったはずである。
「ちょっと河井君? さっきから言ってるけど君の報告書、私情にまみれすぎだよ?っていうか始めも言ったけどね、なんで直ってないのかな? 『とてもムカつきました』とかいらないからね、それ作文だからね?」
そして駄目だしされている先輩と、不機嫌なままの上司。
方や自分の救いの手となりえる存在だがいかんせん、彼は報告書とやらに掛かりっきりなので大した助力は望めそうにない。
「わ、分かりました、分かってるっす! 楠さんはどうぞ、卓郎君とお話しててください!!」
そして。
なんということだろうか、救世主は裏切り者へと華麗なる変貌を遂げた。
恐らく相手の自分に対する第一印象は最悪と思われたので、どうにか河井に間に入って欲しかったのに、と。
縋るよう河井の方に向けかけた卓郎君の視線は、それより先にじっと此方を見据えてくる楠の視線とバッチリ交差してしまう。
これはもうどうにも逃れられない、自分の力だけで会話を弾ませなければならない流れであった。
「……い、いやぁ。オレ、ほんとにこの研究所入ったばっかなんですよ。なのでその、出来れば基本的な事から教えて頂けたら嬉しいなぁ……とか?」
「ここのシステム? あはは、そんなの僕も知らないよ」
しかし、なんだかバッサリ切られてしまった。
かなりアバウトに広い意味を持つ質問を選んだつもりだったのだが、それではどうやら駄目らしい。
『そんなの僕も知らないよ』というのは、上司としてかなり問題のある発言のような気がするが、楠の気が乗らない質問ならば、するだけ全く時間の無駄である。
「ん、んじゃあホラ。楠、さん?は何か研究をしてるんですよね? それの事とか。……やっぱ、あの、ゾンビの研究とかしてるんですか?」
なので見るからにヒョロっこい・白衣・外出てなさそうという風貌の楠に、卓郎君は質問の幅を『研究』という一点にぐっと絞ってみる事にした。
この質問で駄目なら、次はどんな話題を出すべきか。
そんな事を真剣に考える卓郎君は、なんだか接待をしている気分だったが。それはこの際、気にしないことにする。
「『ゾンビ』、ね。ここじゃ『感染者』って呼ばれてるんだけどね? まぁ、大体はそれの研究をしてるよ……聞きたい?」
「はい、スゲー聞きたいです! 何も分かんないんで、初歩から出来れば分かりやすい感じでお願いします!!」
そうして二度目でバッチリ楠の気がのる質問を引き当てれた卓郎君は、心の中で大きくガッツポーズを作った。
既にその心は水商売のねーちゃんの如くそれだったが、それもこの際気にしないことにする。
なんだか流れ的にこの人に用事があるよ、質問があるよ、という雰囲気を作らなければならなくなっていたが。元々ゾンビについては色々聞いてみたい気もしていたので、今思えば万事OKというやつだろうと。
ちょっぴりワクワクしてきた卓郎君がじっと言葉の続きを待つ先。
しばし無言のままだった楠は、頭の中で説明を纏めていたらしい。
「そうだね、まず感染者――君たちがゾンビって呼んでるアレね? アレの大本が何なのかは知ってる?」
「え、わかんないです。謎の病原体とかじゃないんですか?」
「まぁ最初はそうとも思われてたみたいだけどね? 病原体、っていうのとはちょっと違うかな。君は『ゾンビ』が怪我してるところ、見た事ある?」
そうして本当に、初歩の初歩から始まったその説明に。卓郎君の中で“実はこの人、結構良い人説”が生まれた。
分かりやすいよう言葉を選んでくれているのが分かるし、質問を交えての説明によって聞く側の頭もきちんと動かしてくれている。
という事はこの人は案外、元々誰かに何かを教える立場だったんじゃないかなんて。
全く会話の内容とは関係ないことを考えつつも、卓郎君は過去遭遇したゾンビの姿を思い浮かべた。
「んー……なんか、腐ってるとこからボタボタ黒い汁みたいなのが垂れてるのは見た事ありますけど……あれって怪我、なんですかね?」
「ああ、それは怪我だね、案外良く見てるね? まぁ簡単に言うと、あいつらの本体はそれだよ」
それ、と。
具体的に指されているものが何なのか分からず卓郎君が首を傾げれば、理解が追いついていない事を察したのだろう。
「君が見た、ボタボタ垂れてた黒い液体。ちゃんとした名前もついてるんだけどね、此処じゃ『黒液』って単純に呼ばれてる……アレは一応、『生き物』なんだよ?」
「え!? あの、なんか腐った血みたいなのが!?」
「……君中々良い反応するね? ――そう、アレはあれでも生き物。ああ、アメーバとかがイメージとしては近いかもしれない」
と言われても、アメーバを肉眼で見た事がない卓郎君なのだが。
一応、イメージとして持っているそれを脳内で浮かべ回想した過去の記憶に照らしてみれば、それはなんだか途轍もなく気持ち悪いものに思えた。
そんな卓郎君の頭の中では、人の身体の中をうぞうぞと黒いアメーバが這い回っている様が妙にリアルに展開されている。
「そしてアレは――黒液は人にしか感染しない。言い方を変えれば人しか食べない、新しい生命体なんだよ、面白いよね?」
しかしプツプツと鳥肌の立った腕をさする卓郎君に反し、段々饒舌になり始める楠。
もしやこれは何だか自分にとってマズイ展開なんじゃないだろうか、と。
目を逸らしたくなる卓郎君だが今、目を逸らしたら何となく怒られそうなのでそれする事も出来ない。
「傷口か何かから人の体内に侵入した黒液は、人の血液をまず食べる。そして増殖して――これがまた面白い事に、黒液は食べた物の情報を全くの差分なく取り込んでコピー出来るんだよね。つまり黒液は人を細胞レベルまで解析…………まぁ、簡単に言うと人体の乗っ取りは実にスマート、脳信号を操るのもお手の物って事だよ分かる?」
「えーっと……その黒液ってのが、血の代わりをしてるってことは分かりました」
「まぁ……簡単に言うとそうだね? 極限まで自己消化が進んでても、感染者の胃ってちゃんと消化液出てるし。正確にはどっからどう見ても消化液な黒液なんだけどね?」
「え、えっと……じこしょうか?」
しかし。
なんだか話が難しい方向に行ったので、卓郎君の鳥肌がこれ以上仕事をする事はなかった。
楠のテンションの上昇に伴い、難しい単語が混ざってくるのは果たして幸いなのか否か。
身体の中に入ってきた黒液が血等の代わりをするという事は分かったが、続けられた言葉の意味が正直さっぱりわからない。
「ご飯が見つからなくなった感染者の最終手段だよ。黒液自体が血液の代わりをしてるからね、まずいらないのが心臓。それから肝臓とかの体内臓器――それが全部なくなったら最後は腕とか足まで、既に構築されている身体の組織を消化・吸収し始める。あ、でも黒液って皮膚は食べれないみたいなんだよね、だからさっき言ったように傷口とかから人の体内に入り込むしかないんだよ。つまり自己消化された後も皮膚だけは残って腐るから、見るからに『ゾンビ』になるわけだ。でもま、いくらボロボロになろうと黒液が脳を支配している限り、身体は動くからね。脳幹が破壊されたら活動停止せざる負えないけど、実はあれって不老なんだよね。ってかそういえば相当腐ってるやつでも胃が残ってるのはきっと、補給した食べ物を消化できなくなったらお終いだからなんだろうね?」
そう補足を吐いた楠は、きっときちんと説明したつもりなのだろう。
けれど実際良く分からない、ついていけない卓郎君は段々外国語を聞いているような気分になってきた。
先程、この人は説明が上手い!なんて思っていたのは一体何処のどいつだろうか。
「そしてそうだ、感染者の食事についてだけど……さっき言ったように、“黒液は”人しか食べないから。効率悪いよね?だから感染者はお腹の減りが異常に早い、まぁそれ以前に使ってるエネルギー量も相当多いだろうしね? けど食べた物は百パーセント近くきっちり人体に吸収させるから、そこは凄いよね?」
「・・・・・・・?」
「え、じゃあもしかして感染者の身体って……常に人体の構築と自己消化を行ってるってことっすか!?」
なので、ついに。
疑問符しか浮べていない卓郎君を見かねたのか、そのとき声を上げたのは報告書と向き合っていたはずの河井だった。
なんともナイスタイミングなところ、彼は書き直しを行いながらもキチンと二人の会話の様子を見守っていたのだろう。
そしてそれに反応した楠はチラリと河井の前にある報告書に視線を落とすも、とりあえずは良しとしたらしく。
「そうだね。人が食べ物に火を通すのと一緒のような……やっぱり違うかな? 人の身体っていう1クッションを置く事によって、黒液は食べ物を自らが消化・吸収出来るものへと変換させてるんだよ」
頷いた楠の視線が報告書に戻った河井の姿を見届けた後、卓郎君のほうへと戻ってくる。
そこでようやく、多大に浮べられている疑問符の様に気付いたらしく。
「だからまぁ黒液にとってはどんな栄養でも一旦、人の身体に吸収させないと栄養として得る事が出来ないって事。実に寄生生物らしいよね、結局は宿主に依存しているんだ。外気に晒されたら二十四時間で死滅しちゃうしね?」
少しばかり冷静になったらしい楠の補足に、卓郎君は漸く一つ、頷きを返せた。
感染者の本体は、黒液。
そしてその黒液は、人しか食べない。
なので感染者が食べた食べ物は、そのまま黒液に吸収されているわけではなく。
一度栄養を人体に吸収させその一部となった後に、あくまでも黒液は“人”を食べているのだと。
なのでその手間を考えれば、非常に効率が悪いのだと。
(えーっと……あってる?あってるの、か?)
なんとか説明を自分なりの思考で纏めた卓郎君だが、それが正しいのかは正直分からない。
けれどきっと、正しいだろう。
そう決め付けて卓郎君は、とりあえずふと気に掛かった相手の最後の言葉にだけ反応を返すことにした。
「え、でもそんな生き物……自然界で生きていけるんですか?」
『黒液は外気に24時間晒されると死滅する』という、楠が先程発した言葉。
それに対しての発言だったが、これは我ながらに的を射ていると。
瞬きと共に先を促す卓郎君に帰ってきたのは、楠のさも愉快そうな笑い声で。
「あはは、無理に決まってるよね? だから黒液っていうのは元々生物兵器だ」
「はぁ!?」
「え!?」
「え、なに驚いてんの? 外気に晒されたら死ぬ生き物が、自然界で自然発生するはずないよね?」
それは、確かに、その通りだが。
この世の中には分かっていても驚かずにはいられない、というものあると卓郎君は思う。同じように声を上げた河井だって、きっとそう思っているはずだ。
けれど卓郎君が瞠目したままに見つめた先、楠は何やら神妙な顔で一人こくこくと頷いていて。
「人から人に感染、あらゆる生き物を食べる生物兵器。食べ物がなくなったら死滅するからね、あとに残るのは建物だけっていう……核兵器より何倍も自然にやさしい兵器だね?あはは」
「・・・・・・。」
どうやらこの人とは、根本的に思考回路が違うらしいと。
顔を若干引き攣らせた卓郎君は「エコですね!」とでも言おうかと思ったが、流石に不謹慎な気がしたので止めておく事にした。
それにしても『生物兵器』とは、なんだか現実味のない単語である。
しかしそれならばまさか、日本は他国から生物兵器によって攻撃されたという事なのかと。
又は、まさかこの日本で、どこぞの怪しい研究所から生物兵器がうっかり広まってしまってまぁ大変!なんて事が起きてしまったのかと。
遅れてきた衝撃に目を見開いた卓郎君が率直に言葉を投げようとすれば、しかし、それは少しばかり遅かったらしく。
「それで今、はじめ爆発的に増えた感染者は減少の一途を辿ってる。まぁ人間っていう食べ物がかなり減ったからね? それでも此処みたいに何人か人が残ってたりはするわけでさ、だから一応黒液に感染しなくなる薬とか研究してみたりもしてる。人が一人もいなくなったら黒液の研究できなくなっちゃうしね?」
「……したり“も”って事は、他の研究もしてるんですか?」
「だってずっと同じ研究してたら飽きるよね?」
あはは、と軽く笑う楠の様子からして、恐らく先の言葉が黒液についての説明の纏めだったに違いない。
理解できたかと言われれば三割程度で、この先役立つかと聞かれればノーコメントで。
でもまぁ色々衝撃的ではあったし、面白かったといえば面白かった。そして先の攻撃orうっかりの質問も、良く考えれば聞いたって分からない事だったと卓郎君は人知れず小さなため息をついた。
それにしても。
確かに楠は、ゾンビに関してとても詳しいが。
聞く相手としては何だか間違っているような、そんな気がする卓郎君である。
「ってか前から思ってたんっすけど……」
そうして会話も終わり、後は適当な雑談になるかと思ったところ。
ポツリと落とされた声に卓郎君が顔を向ければ、そこには鉛筆をくるくる指の間で回転させている河井の姿。
頬杖をつき思考に視線を流したその姿はどうにも、真面目に報告書修正に取り込んでいるようには見えなかったが、その表情だけは至って真剣で。
「黒液の予防薬の研究って、そのうち人体実験とか必要になるんじゃないんすか?」
それは、その通りだと。
河井の言葉に頷きかけた卓郎君は直後、なんだか空寒くなるのを感じた。
『人体実験』という言葉の響きは先程の『生物兵器』と同じくらい現実から遠いところにあって、けれど今の現実にありえるもので。
そんな事実に漸く追いついた卓郎君の頭が、やがて来る現実を理解したのと同時。
けれど場に響いたのは、明るい笑い声だった。
「うん、そうだね。まぁ人間は貴重だから、そうホイホイ実験に使えないんだけどね? でも、もし“コイツいらねーな”って人間がいたら――」
こんな話題に笑える人なんて、この場には一人しかいない。
酷く愉快そうに言葉を紡ぐ楠のほうを、卓郎君は河井と一緒になって見つめた。
どうにも不穏な空気の中、卓郎君は己の顔が引き攣るのを感じる。
「是非とも僕に紹介してね?」
そう小首を傾げた楠の顔に浮かんでいたのは、どこか無邪気な笑みだった。
その瞬間顔を青くした卓郎君は、『用無し』の判を押されないよう精一杯働く事を誓った。