その46・全力で空気を読むこと 上
白く長い廊下が、奥へ奥へとポッカリ抜けて行っている。
そんな風に感じるのはきっと、物一つ置かれていない廊下を歩いている人がいないからだろう。時々ちかちか点滅する蛍光灯が、何だか真っ白な視界に痛い。
歩いている場所が悪いのか、それともそういう時間帯なのか。
寂れすぎて薄気味悪さすら感じる廊下で、卓郎君は一人、ぶるりとその身を震わせた。
なんたって、この『研究所』と呼ばれる建物は広い。
建物自体は二階建て・プラス地下といったところだが、恐らく山奥という事で惜しみなく土地が使われているのだろう。
立ち入り禁止がされていない扉を開けたり閉めたり、歩いた感覚からしてこの建物はいくつか増設がしてあるんだろうなぁなんて考えたり。
そんな事をしているうちに、卓郎君は自分の居場所を見失った。
つまり、迷子になったのである。
「だ、だれかー……?」
登ったり、降りたり。
加えて階段の長さもそれぞれに差があったので、今や卓郎君は自分が何階にいるのかすら分からなくなってきていた。
兎も角、このままでは研究所の端っこで人知れず白骨死体化するのではないかと。
脳裏を過った自分の末路にゾッ鳥肌を立てながら、卓郎君は早足に周囲への呼びかけを続ける。
(そもそも畜産関系の場所探してたはずが、なんでこんな事に……!)
誰かいませんか、なんて。
一見して誰もいない事は明らかな廊下で、無意味な彼の問いかけは妙な寂寥感を持って反響していた。
「……!」
しかし、その時。
聞き間違えではないだろう、通り過ぎたばかりの部屋の中から、少なくとも耳に届くほどの物音がした。
何かを倒したような、それなりに壮大な音。
(だ、だれか……いる、のか?)
音は一つしたきりで、それ以降はもとの静寂のまま。
研究所とはそういえばホラーゲームの定番と言える場所だったなぁとか、考えなくていい事まで考え出してしまう卓郎君は、もう何でも良いから人に会いたかった。
物音イコール人というのは、何だかそれこそホラーゲーム定番のフラグのような気がしてならないが。
怖いからこそ見てしまうのか、それとも人がいるかもしれないという事に過剰期待をしてしまっているのか。
そこまで瞬時に考える頭もなくただ己自身の衝動に従い、卓郎君は音のした部屋のドアノブをぎゅっと握りしめた。
「おい」
「っーーーぎゃあああああああああああああ!!!」
しかし恐らくその瞬間、卓郎君は20センチほどジャンプした。
ドンピシャで掛けられた声に、手足の先まで走った衝撃。
そらに総毛立つ鳥肌を意識するよりも先、口から飛び出しそうな勢いで跳ねた心音が、鼓膜の奥から聞こえてくる。
ドアノブなどからはとっくに離された手が意識の外で無意味な動きをし、それでも唯一、首だけは彼にとって有益な方向に動いていた。
それは、つまり、振り返るという動作。
まぁそこにオバケ等がいた場合、その反射的行為は只の墓穴というヤツだが。
「え、ちょ!? お前、何!?」
「か……か、かか河井さああああああああああああああああん!!!!」
そこにいたのは、正に面食らった様子の河井だったので。
ぐわしっと相手に掴みかかった卓郎君は、項垂れたフリをして涙目を隠した。
そしてそんな、深呼吸を繰り返し今にもへたり込みそうな卓郎君に、しかし河井自身も何だかかなり動揺している。
「お、落ち着け。俺が悪かった、悪かったからとりあえず落ち着け!」
「ひどいっすよ、ひ……ひどっ……!!」
「分かった、分かったから静かにしろ!!」
しーっ、と。
河井がともかく静かにさせようと躍起になる反面、半狂乱状態の卓郎君は中々落ち着きを取り戻せない。
何故ここに河井がいるのか。
何故こんなタイミングで出てくるのか。
それは先程、卓郎君自身が「誰かいませんか」なんて呼びかけていたせいでもあるのだが。そんな事にまで頭がおっつかない、それどころか正常な思考回路もない彼の中は、河井への八つ当たり染みた感情が8割方を占めていて。
たどたどしく、しかし声の調節を忘れたように慌てふためき続ける卓郎君の背後。
その時、物凄い勢いで扉が開け放たれた。
「ぐぇふッ――!?」
「た、卓郎ーーーっ!!!」
それがある程度予測できていたのだろう。
速やかに扉の開閉ゾーンから身を翻した河井の姿を最後に、目の前に星を飛ばした卓郎君は後頭部を襲った凄まじい衝撃に悶絶する。
「……あはは、いい音がしたね?」
後頭部を、こん棒で叩かれ続けているかのような痛みに。
いつのまにか屈み込んでいた卓郎君は頭上からの声に、目の前の河井の足が一歩後退した事だけを視認した。
「でも何なの?五月蠅いよ、馬鹿なの死ぬの? ――ああ、死にたいの?」
「ち、違います楠さん!!」
慌てたような、河井の声。
それが敬語であるところ、彼が相手をしている――自分の背後にいるドアを開けた人物は恐らく上司なのだろうと、卓郎君は鈍痛を訴える思考ながらに考察していた。
そして河井の慌てふためきようからして、何やらまずいことを仕出かしてしまった事だけは明らかであると。
「こ、コイツ研究所に入ったばっかで! 何も知らないんっすよ、だから間違っても楠さんの研究を邪魔しようとしたとかではなくてですね……!」
「あはは、そうなの? でも邪魔されたよ? というかつまり君達、意味無く僕の部屋の前で騒いでたって事かな?そうだよね、その事実は消えないよね……ねぇ?」
直ぐ近くで落とされた、最後の一言に。
ひっと息を飲んだ卓郎君はすぐ背後に屈み込んできた気配へと、到底なめらかとは言えない動きで首を回した。
「……。」
「……。」
「ほ、ほら固まっちゃってるじゃないすか、あんま苛めないであげて下さい!」
恐らくこの楠と呼ばれた人物は、部屋の外で騒いでいた事を怒っていて。
それを必死に河井はフォローしてくれていて。
少なくとも身だしなみに気を使っているとは言えない、もっさりとした前髪の下から注がれる楠の猫のような瞳を卓郎君はじっと見返すしかなかった。
獲物を見据える捕食者のようなそれは、なんだかどうにも恐ろしい。
けれど。
「・・・・・・美形」
「は?」
河井の間抜けた声を尻目に、卓郎君はすぐ近くの相手の顔の造形にぽつりと率直な感想を漏らした。
通った鼻筋に、パッチリとした猫目。その顔自体、十分に小顔と言っていい大きさであり、縁取る黒髪はかなり無造作に跳ねていたがそんなものは気にならない。
そして、その少し病的に白い肌も。
男としては少々頼りなさげにも見えるが、前に同じく大した問題ではない。
「び、美形がいる……美形がいますよ、河井さん!! むしろアレ、美人って言うべき!?」
「ちょ!!?? 何言ってんのお前!?」
「ヤバイっすよ、これが噂に聞く顔面偏差値ってヤツ!? どうなってんすか、もうこれ髭とか生えてないんじゃ!?」
「どっちかと言うと顔面格差社会――って懐かしいな! じゃなかった、お、お前もう黙れ、ほんと黙ってろ!!!」
慌てた河井が止めに入ってくるが、卓郎君は目の前の衝撃という名の感動から中々抜け出しきれずにいた。
眼鏡を外したらミラクル美人、という奇跡的現象なんて信じていなかったが。
目の前にあるモッサリした髪の毛の下は、間違いなく美形と言っていい造形をしている。
それはそもそもがきっと、中性的なのだろう。
ガン見していると嫌そうに顔を背けられたが、それでも卓郎君は『~の下は美形!』というミラクル現象によって視線を奪われ続けていた。
「……それで、この子、何しに来たの? 僕に……何か用?」
そうして、男として物凄く馬鹿にされた楠はしばし沈黙を守っていたが。
なんとか言葉が紡げるほどにまでは回復したのだろう、立ち上がった楠のこれ以上なく苦々しい声に、卓郎君は漸く我に返った。
相手は自分ではなく河井の方を見て問いかけているが、そのあたりは余り気にしない方が良いとする。
「いや……実はここには、単純に迷ってきてしまって。あ、一応オレここで今日から働くことになった者で、近江 卓郎っていいます」
「ああ……そう。で、何? 研究の助手か何か?」
「いえ、畜産系になったんですけど……ちょっとあんまり説明されてなくて。どこに仕事場があるのかも分からないし、そもそもこの研究所自体の仕組みとかも分かってなくて」
そうして、ポツポツと。
卓郎君が己も立ち上がりながら此処に来るまでの経歴を話せば、楠の口元がみるみる不快そうに歪んでいく様が見て取れた。その目元はもう距離が開いてしまったため前髪に阻まれ視認できないがおそらく、口元と同じように多大に歪められていることだろう。
それは、何故か。
正直、会って間もない人物の内面など読み取れる筈もなく。
卓郎君が疑問符を浮べる間にも、すぐさま一歩踏み出し何やらのフォローを吐き出し始めるのが河井である。
「あ、それだったら丁度いいじゃないすか、楠さん。色々教えてあげてたらどうすか?」
「え? やだよ何で僕が? そういうのは河井君の方が向いてるんじゃないかな、っていうかそもそも飯島がやるべきじゃないかな? なんで僕、迷子なんかのせいで今研究中断する羽目になってるのかな、あははは」
「きっと卓郎君はそうやって今までたらい回しにされて来たんすよ……それに、アレっすよ。ほら、多分彼がここに来たのは天の啓示的な何かに『楠さんに教えを乞え!』って言われて来たんすよ、きっと!」
成程、この楠という人物はとにかく研究の邪魔をされた事を怒っている。
そして別に訪問者でも何でもない、“何の用事もないヤツ”に邪魔されている事こそが、きっとこの人の逆鱗に触れかけているのだろうと。
脈絡なく紡がれた河井の言葉から理解した卓郎君は正に、楠に用事など欠片もなかったが。
横から『空気読め!』とばかりにせっつかれ、合わせるようにこくこくと数回首を縦に振った。
「そ、そうです! それに何か所長さん、徹夜なのか何かでテンションがちょっとおかしかったんで」
「何言ってんの? あいつが徹夜なんかでへばるわけないよね? どうせ奏ちゃん禁断症状とかでしょ?」
なんだそれは。
と、思わず突っ込みそうになる卓郎君だが確かに、先程の光景を思い出したら楠の言っている言葉も分からなくはない。というか、凄く良く分かる。
「……それで、つまり? 河井君はこの子が単に、僕の研究の邪魔をしに来たわけではないって言いたいの?」
「そうです、そうっす! 研究所のことっつったら感染者の事っすし! 感染者の事は楠さんに聞くのが一番っすからね、効率的っすね、なぁ卓郎!?」
「は、はい!?」
そうして卓郎君が言葉に詰まっている間にも、なんだか話が纏まり始め。
ため息を落とした楠からかなり胡乱な視線を寄越されたが、それでも扉を開けてくれたので引き返すという選択肢などもなくなり。
足を踏み入れた研究室で、卓郎君の視線が真っ先に捕らえたのは床に落下したコンピューターだった。
「……。」
「……。」
さっきの音はこれか、と理解するのと同時。
破損確定のコンピューターを無視し、デスク前の椅子にどっかり腰掛けた楠の姿に、この人は実は今相当機嫌が悪いんじゃないかと。
何となく悟ってしまった卓郎君は、チラリと隣に救いの視線を向けては見るが残念、河井もその頬をなんだか青白く引き攣らせている。
「それで? 君はどんな面白い事を聞いてくれるのかな、タクロウ君?」
そうして、にっこりと。
掌を腰の前で軽く組み完全に口元だけで笑う楠に、卓郎君は今日何度目かの冷や汗をその背中に大量に垂れ流した。