その41・気持ちはスッパリ切り替えること
“ああ、ケンタロウって、この犬のことですか――”
男の手にぶら下げられたケンタロウは、動かなかった。
何故か、なんてその意味を考える思考回路はなく、言葉を繰り返す唇は震えた。
じぶんの足は銃口を目にして以来全く力が入らず、けれどなんとか動いた手が拾い上げた包丁に、男は軽く眉を上げた。
“こらこら、包丁は、台所で持つものですよ。人に向けちゃいけないって、お母さんに、教わらなかったのかな?”
“返して、私にはケンタロウしかいない! ケンタロウさえいれば大丈夫だから、だから――ッ!!!”
言葉は全く噛み合っていなかった。
自分にとってはケンタロウを取り戻す事が第一で、けれど頭のどこかで、足に力が入らない以上それを成す事が不可能だと結論を出している自分もいた。
(駄目だ、どうしよう、どうすれば……っ)
ケンタロウがいたら、広い家でも寂しくなかった。
同級生の子と喧嘩した日も。怖い話を聞いて眠れなくなった夜も。人じゃないモノが家に入ってきた時も――
一人じゃなかったから、大丈夫だった。
でも。
(今は、一人だ)
手の中にはもう、ぬくもりが無い。
私はもう、何も出来ない。
それを理解したと同時、手にしていた包丁を衝撃が遅って、唯一の武器は体育館の床を転がっていった。
唐突にもう、ケンタロウは自分の手に届かない場所に行ってしまったんだと理解して、力の抜けきった身体が冷たい床に崩れ落ちた。
ケンタロウがいない。
大丈夫じゃない、大丈夫じゃない、だいじょうぶじゃない――。
“――――ッッ!!!!!!!!!!”
言葉にならない咆哮が、喉をひっきりなしに震わせる。
冷たいはずの床の温度は感じなくて、ボロボロと止め処なく落ちる涙のせいで体が熱かった。
涙と心臓と感情が軋む音に、世界全部が包まれて。
男の遠ざかっていく足音だけが、どこか別次元のもののように鳴っていても。
結局顔を上げられなかった自分は、遠ざかる背中をさも見ていたかのように、記憶の中に捏造し続けた。
(……見なくて、よかったかもしれない)
ゆっくりと西日が山の陰に隠れていく。
空の色が朱色から紫、そして紺へと移り変わる様を、奏は右足を伸ばして座り込んだままぼんやりと眺めた。
もうとっくに集団らは山の方へと去っていったというのに、彼女はその場から動けないでいる。
今度こそしっかりその目に焼き付けた男の後ろ姿は、奏の気持ちにただ重苦しいものだけを残した。
「・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
更に、いつもは無駄に無駄な事ばかり言ってくる鴉が、こんな時に限って何も言わない。
何ぼけっと座って見送ってんのダッセー等と言われたら脳みその血管が切れるくらい腹が立つとは思うが、どうせなら何でもいいから下らない事を言ってくれれば。
それに対する反論で、多少は気も紛れるだろうにと。
奏が意識を向けた先、視界の端でうっすらと夕焼けに染まった金髪が穏やかな風に揺れていた。
「・・・・・・ちょっと」
「なんだ」
「・・・・・・なんか、言う事ないの」
なんでも良いから話せと。
頭から取った黒子頭巾を手の内で遊ばせる奏はこの奇妙な無音がどうにも嫌だった。
穏やかな日暮れに時に田んぼの淵で、二人並んで座り込むなんて。更に両者無言だなんて、心に澱を積もらせる彼女にとっては、なんだか途轍もなく居心地が悪い。
と、いうか正直、何でも良いから気分転換させて欲しい。
「用事は終わったのか」
そして、短く。
返ってきた言葉に奏の中で不気味さが生まれた。
この口ぶりからしてまさか、こいつは用事が終わるのを大人しく待っていたとでもいうのか。
(あ、ありえない……)
“大人しい”やら“素直”やらと、間逆の位置に存在している筈の男の愁傷さに、奏は少なからず動揺する。
「あ、ああ……用事はまぁ、終わった。けど、終わってない……」
「どっちだ」
「私はさっきのやつを、殺さないと」
「何故だ」
短く。繰り返し疑問符を返してくる鴉の視線から、奏は無意識に顔を逸らした。
今すぐに、は無理だ。
けれど必ず捕まえる。
それは男の後姿を見送ってからずっとお経のように考え続けていた事であり、奏は今更に聞かれた理由を数秒かけて簡潔に纏めた。
「そうしないと、気がすまないから」
そう、気がすまない。
端的に言うと正にその通りな彼女の心中だが、隣の鴉からどうにも続きを催促するような気配が伝わってくるので。
また数秒悩んだ奏は、先程よりは少し具体的な言葉を落とすことにする。
「あいつは、私の一番大事なものをとった奴だから」
「非常食をとられたのか」
「は? 違――っ、え!? いや……」
一瞬自分の事を言われたのかと思う奏だが脈絡的にそうではない。
そしてなんだかとんでもない事を言われた気がして、それを具体的に考えないよう彼女は無理矢理言葉を続けた。
「えーっと。私、もともと殆ど両親が家にいない家庭で。お手伝いさんが時々来てはくれるんだけど……まぁ、ほとんど一人だった」
「ふむ」
「でもケンタロウがいたから寂しくはなくて。いや、本当に子供のころからずっと一緒にいたからまぁ、ある意味兄弟みたいな感じで」
つらつらと。
頭をまったく捻らず奏が吐き出していく言葉は、なんともストレートな昔話。
何故感染者なんか相手に、己の過去を語っているんだろうと。
思わなくもないが紡ぎ始めた言葉はやけにサラサラと流れていって、今更に“やっぱなんでもない”なんていえる雰囲気ではなくなっている。
「簡単に言えば、物凄く大事だったの。子供だったからってのもあるけど、ケンタロウがいたらそれだけで全部大丈夫だって思ってたくらい。寂しくても、怖くても、寒くても……ケンタロウさえいてくれれば、大丈夫だ、って……」
「で、それをさっきのに奪われたのか」
「……食べられた」
ぽつり、と。
物語の最後を完結に落とすと、情けなく自分の眉が下がる様がありありと分かって、奏は膝の間に顔を埋めた。
そう、ケンタロウは食べられた。
あの後、再度奪還しに行かなければ骨も残らなかっただろうと奏は事実に歯噛みする。
自分の大切なものを奪った上に、それを食い、骨も埋めさせてくれる気がなかったなんて。
やはりあの男許すまじ、とフツフツ感情を湧かせる奏の隣、鴉が小さく身じろぎをした。
「人は人を喰うのか?」
そんな感染者の言葉に、ピタリと奏の思考がとまった。
「いや、ごめん。これ犬の話」
「そうか」
そういえばケンタロウが犬だと説明していなかった。
そして、もしかすると意図してその説明を省いていたかもしれない、という事に気がついた奏は、胸のうちに湧き上がったモヤモヤを振り払うようにばっと伏せていた顔を上げる。
「……っ、いや、そりゃ私だって分かってる。他の人にとっては犬なんて只の犬だし、お腹が減ったら鳥とか魚みたいに犬だって“食べ物”になる」
「食べなければ死ぬからな」
「でも、私は……っ!!」
私は。
そう、結局のところ、それだ。
他の人にとってこの時代、犬が食料になり得るということくらい今の奏はしっかり分かっている。人が人を食べたわけでもないのに、オーバーだと言われる事くらい、彼女はしっかり承知だった。
(でも、私は――)
そう。
人にとってなんだろうと、結局世界は自分中心に回っているから。
「私は……大事だった。死ぬまで、一緒に……いたかった」
今。
ここで、吐き出して、漸く。
それこそが自分の願いだったのだと、奏は胸にストンと降りてきた思いを理解した。
(……なんて)
なんて、幼稚で単純な願い。
終わりは必ずやって来るし、一生一緒なんて、それこそ心中でもしない限り無理だ。
けれどそれはあの頃の自分にとって絶対の願いで、その思いを引きずる奏自身にとっても忘れられる筈のない願いだった。
「だからそれを奪ったあいつは絶対許せない、絶対。……頭に油かけて燃やしたい。爪の先から皮むきしてやりたい」
奏の手に自然と力が込められる。
恨み辛みは際限なく沸いてくるようで、あの男を捕らえたらどうしてやろうかと、考えれば何だか楽しくすらなってくる心境に奏は小さく苦笑した。
「一般的におかしいってのは分かってるし、理解されないのなんて分かってるけど。私にとって……あの子は只の“犬”じゃなかった」
「さっきから良く分からんが」
しかし、言いたい事を全て言い切った奏は間を開けず返ってきた問いにその首を傾けた。
言いたい事を言ってある程度スッキリしたので、後は正直理解なんてされなくていい。
そう思っていた矢先の鴉からの問いは、奏を数秒間瞠目させた。
「“人”と“犬”に違いがあるのか?」
開いた口が塞がらない。
という、なんともマヌケな表情を浮べてしまっていた自分に数秒後、気がついた奏は慌てて口を閉じる。
けれどその目は丸くなったまま、完全に不思議なものを見る目で鴉を凝視していた彼女に、返ってくるのもまた不思議そうな視線だった。
「なんだろうと“大事なもの”とは、大事なものだろう。自分の大事なものを奪った奴は万死に値する。それの何がおかしい」
何がおかしい。
(……そっか)
感染者は、平等だ。
何故なら彼らにとっては『人』も『犬』も、全て等しく“食べ物”だから。
だから。
思わず、背けてしまった顔を足の間に伏せた奏が、堪えても、どうしたって湧き上がって来てしまう思いは、完全に見当違いのもので。
でも、そう分かっていても。
「……おかしくない」
「? 何が言いたいのか分からん」
「おかしくない」
「……なら、何故笑っている」
堪えきれない思いが僅かに漏れ出し、奏は顔を伏せたままその首を左右に振った。
「おかしくないから、笑ってんの」
「意味がわからん」
隣で鴉が疑問符を大量に浮べている様が目に浮かぶ。
奏は静かにその右手を握り締めた。
いつもの手袋よりも薄い手袋越しの鴉の手は、いつもと同じく温度がない。
けれど今、始めてその手に意味を感じたような気がして、奏は繋がれた手に握りつぶさんばかりの力を込めた。
こんなのは、馬鹿みたいだと。
奏の中の冷静な部分がため息をつくが、今だけは気にしないでおく事にした。
「……あー。ってか、早いとこ行かなきゃな」
そうして、しばらくの後。
馬鹿みたいに晴れた心中に奏が顔を上げれば、微かにオレンジが残っただけの夕闇が辺りに広がっていて。
チリチリとして日が山の陰でい燻るだけの、やけに透き通った夜空に奏は放置してしまっていた現実問題を思い出した。
「次はどこに行く?」
「あー……まぁ、行く場所は決まってるんだけど」
けど。
現実問題にふうっと小さくため息を零した奏は、投げ出していた己の右足を動かし僅かに眉を寄せる。
「正直、さっき足ヘンに捻ったみたいでかなり痛い」
正直ちょっと今、歩けない。
その折を口にした奏は実は、中々にしてショックを受けてはいた。
怪我の原因は、あの男と対峙した時。唐突に巨漢が二人の間に出てきた時。
突如の乱入者との正面衝突、その後なんとか逃れようと身を捻った時にバランスを変に崩してしまっていたせいか、奏は右足首を手ひどく挫いてしまっていた。
大体、そうじゃなければ今頃あの男を追いかけていると。
(あー……ほんと、冷静じゃなかった……)
頭に血が上っていたせいで起こしてしまった失態に、奏は眉間にしわを寄せる。
完全に自業自得。だからこそ腹立たしい。
そんな思いに舌打ちしながらゆるゆると足の具合を確かめる彼女に、しばらく黙っていた鴉が同じく眉を寄せながら口を開いた。
「“イタイ”というのは良く分からん。何故歩けない」
「いやだから痛いからだって」
そういえば、感染者に痛覚はなかったか。
そんな脳内知識を呼び起こしながら、奏はなんとか刺激しないよう、己の右足を手繰り寄せる。
「“イタイ”と歩けなくなるのか」
「だからそう言ってんでしょうが」
「何処が痛い」
しかし、その間にも鴉の追求は止まず。
どうあがいても“痛み”を知る事が出来ない相手に続ける説明は、非常に非生産的なのだが。
「足ってさっき言った気がするんですけどね」
「両方痛いのか」
「……片方だけ。右足」
一応端的に言葉を返していた奏の足を、鴉は興味深気に覗き込んでいた。
どうやら“痛み”という死人には理解できないものに、感染者は興味がわいたらしい。
「おい非常食。お前の右足、色が変わっているぞ」
「ッ――!!!」
興味深げに覗きこんだかと思えばガシッと右足を掴みあげた鴉の手に、奏はすんでのところで悲鳴を飲み込んだ。
だからかなり痛いって言っただろうが人の話を聞けクソ野朗!!と叫びたい思いを必死に堪える奏の肩はプルプルと震えている。
(こ、堪えろ……堪えるんだ……!!)
右足をジロジロと観察していたかと思えば、今度は左足。
なにやら足首を観察しているらしい鴉の様子を痛みを堪えつつ眺めれば、奏自身、自分の足首の左右の大きさがなんだか変わっている事に気がついた。
(捻挫……かな)
骨折ではない事を祈る。
しかし何にしろ、返ったら飯島にどやされるであろう事は確実で。
なんだか最近怒られてばかりだと嘆息する奏は、バッと足首から視線を上げた鴉を胡乱気に見返した。
「喜べ、非常食。この俺がお前に策をやろう」
「・・・・・・何?」
なんだか期待出来ない。
否、全く期待出来ないながらも奏は一応聞き返した。
「見たところお前の右足首は変色しているが、左は何の変化も無い」
「え、うん。片方だけ痛めたって私さっき言ったよね」
「つまり、だ」
「つまり?」
なんだかもうこのやり取りの時点で。
解決策なんてものは宇宙の彼方ほどに遠い存在である事が奏の中で確定するも、鴉がその彼方まで行けるワープ装置を持っているという0.1割の可能性にかけて(否、正直流れ的に聞かなければならない様な気がしたので)先を促した。
「片足で歩け」
「無理」
しかし、やはり無理だった。
「何故だ」
「片足で歩けるもんならとっくに歩いてるに決まってんでしょ!」
こいつは馬鹿なのか、それともアホなのか。
間髪入れずに否定を返した奏が気に食わなかったのか、なんだか鴉は不機嫌そうだがそれは彼女の方も同じである。
「私だって早く行かなきゃいけないのにって、実は今更それなりに焦ってんの。そもそもの目的――回収物がある蔵に早いところ行かなきゃいけないし、お前そろそろお腹空いてきそうで怖いし、あとお土産もちょっと見ないといけないし! ……でもここで焦って怪我こじらせたら後でもっと困るから困ってんでしょうが!」
そんな事も分からないのかこの馬鹿が、と。
思わず八つ当たりしかける奏には当然、現在地から目的地までケンケンで歩ける体力などない。
さらに道中、感染者に襲われる可能性や、ケンケン歩きをしたことにより遅い来る全身疲労を思えばやはり鴉の提案には乗れない。
(そもそもなんだ、“片足で歩け”って)
人間に足が二本ついている理由。
それは間違っても片方使えなくなっても大丈夫!なんて理由ではなく、二本足で歩く為に二本ついているのである。
それを理解できないとは腐っても感染者、否、腐ってなくても感染者だと、奏は本気で釈然としないらしい鴉に心中で多大なため息を落とした。
「……仕方が無い」
しかし。
「ひょあっ!?」
胴に腕が回された、と思えばぐんっと高くなった視界。
鴉によって突如担ぎ上げられた奏の八つ当たりじみた思考は、今度こそ銀河の彼方に飛んでいった。
「ちょ、ちょちょちょっと待って! 下ろし――ッ痛った!!!!」
「なんだ」
「い、いったん……下ろして、頼むから!!!」
俗に言う俵担ぎをされた奏は反射的に暴れ、そして右足をしこたま打った。
俗に言う自業自得でもあり、そうでもないかもしれない状況。
ぐるんっと高くなった視界がまたぐるんっと元の位置に戻され、地面になんとか尻を落ち着け直した奏はバクバクとした動悸に冷や汗を流した。
「この俺が運んでやろうというのに、何が不満だ」
どの俺だ。何様だ。全て不満だ。
そんな悪態をつける元気は、残念ながら今の奏にはない。
「ど、どどどうせ運んでくれるなら、お、おんぶとかにしてよ……」
突然担ぎ上げられるのは何時ぶりか、なんて。
混乱した思考を何処かズレた部分に流していた奏は、一拍置いて自分の失言に気がついた。
「……おんぶ?」
「いや待った今の無し。取り消し」
「教えろ」
「嫌」
幸い鴉は“おんぶ”を知らなかったらしいが、それは実のところ特に幸いではない。
「引きずるぞ」
「待った、ストップ!! 教えればいいんでしょ!?」
そう、結局こうなるのだ。
拒否権なんてものはそう言えば初めからなく、詰め寄ってくる鴉に奏は蚊の鳴くような声で“おんぶ”を説明した。
そして、新しい知識を仕入れたとなれば早速に使ってみたくなる感染者様なようで。
「なるほど。両腕が使えなくなるわけか」
「おろして……頼むから下ろして……両腕使えなかったらふべんでしょ、困るでしょ……?」
「困らん」
「困れよ!!」
あああああ、と奏は奈落の底に落ちていくような低い呟きを落とすと共に、目の前にある背中に己の顔を埋めた。
そうしたところで顔は隠れても、状況は変わらないという悲しい現実である。
(今この状況誰かに見られたら羞恥で死ねる……)
しかし。
お陰様とは、到底思えなくとも。
多大な羞恥と引き換えに奏の中の陰鬱な気分は、欠片も残さず吹き飛んでいて。
ついでに。
とりあえずの移動手段が手に入った事は、足を使えない彼女にとって幸いだった。
……はずで、ある。