その34・考えるより動くこと
ごめん、タクロウ君。
後で迎えに行くから――多分。
そんな事を考えながら奏は全速力で走っていた。
恐らく残してきたタクロウ君が鴉に食われることは無い。何故なら腹が減っていたのならばそもそも、奴は時計塔に来るまでにその辺にいる人間を食っている筈だから。
(そういえば“三枚のお札”って話があったな)
駆ける勢いを殺さぬよう角を曲がった奏の脳裏が、現状にピッタリの昔話を思い出し始める。
確かそれは餌を逃がすまい追いかけてくる山姥を、なんにでもなれる万能お札を使ってなんとかしようとする話だ。
一枚目のお札は自分の身代わりに。
二枚目のお札は大きな川に。
三枚目のお札は火の海に。
結局そのどれもを山姥は乗り越え来るわけだが今、自分を追いかけてくる感染者も同じようなものだと奏は顔を青くする。
タクロウ君はスルーされ――別に身代わりにしようと思って置いてきたわけでは無いが。
引き倒した看板は蹴り飛ばされ――躓いてこければいいと思ったがそう上手く行く筈なく。
いくつもの曲がり角は直進によって突破される。
(き、器物破損!!!)
恐らく奴は一つ隣の通りから家一個分を突っ切ってきたのだろう。
すぐ後ろで上がった古い町並みの外壁が破壊される音に、奏は今の時代で通用するはずもない罪状を思い浮かべながら慌てて前方へと飛んだ。
その後頭部を掠めていくのは、土壁の欠片。
当たり所が悪ければ死んでいるであろうそれに冷や汗を流す間もなく、速やかに受け身を取った奏は転がりざまに刃を抜く。
感触は――浅い。
相手の頬を掠ったそれに、思ったよりも近い距離を理解する。
完全に此方を抑え込む形で乗り上げてくる鴉と視線を交差させたまま、即座抑え込まれた右手と武器に構わぬよう、奏が次に放った左手の武器は至近距離に迫る相手の手首を狙った。
「なんで追いかけてくんの!?」
「何故逃げる」
しかしそんな奏の左手が哀れ届かず、ガンっと地に縫い付けられると同時。
両者そろって開いた口に、数秒奇妙な沈黙が落ちる。
「捕まえようとしてくるから逃げてんの!」
「捕まえようとしているのに逃げるからだ」
そしてまた同時に開かれた口に。
一瞬頭がこんがらがったのは恐らく、奏だけではない。
キョトンという擬態語がピッタリの表情を浮かべる鴉に一拍後、我に返った奏が上に乗った体を蹴りあげようとするが同じく、我に返った鴉の足によって綺麗すっぱり抑え込まれる。
「ちょ……ッ!? ほんと、何がしたいのお前」
完璧に組み敷かれる体勢となった奏が多少声を揺らすが、全く気にした様子なくそれどころかご満悦に頷く鴉。
「うむ、やはりお前と遊ぶのは楽しい」
此方は遊んでいる気など皆無だが。
これが鬼ごっこだったというなら間違いなく己の敗北だと、奏は重い息をついた。
今更にバクバクと上昇してきた心拍は全力疾走のツケだろうか、ともかく現状を何とかしなければならない。
「とにかく、どけ。至近距離に来るな」
「何故だ」
「あんたが感染者だから」
しかし相手の身体を押し返そうにも、地面に縫い付けられてしまった両手。
もぞもぞと芋虫のごとく身を捻るしかない奏は悔しさ以上に今、色んな意味で身の危険を感じていた。
此方を見下ろして来る鴉の頬、浅く開いた傷口から黒い液体が伝い落ちている。
感染したくない、そしていつ喰われるか分かったもんじゃない。
けれど“感染者お断り”の標識で相手の頭をぶん殴りたい奏に反し、鴉は軽くその首を傾けるだけで。
「人なら良いのか」
嫌に決まってんだろ。
反射的に返しかけた奏はそこでふと、一旦思い止まった。
“どちらも嫌なら、どちらも良いだろう”くらいの超理論を言って来そうなこの相手を納得させるにはどうすればいいか、ここは考えどころだといえる。
「人なら、別にいい……でもお前は人じゃないし、人には絶対なれない」
だから、今すぐ退けと。
お前を受け入れる気なんか皆無だよアピールをしてみた奏に、鴉がその眉根を多大に寄せた。
「気にくわんな」
ならば、どうする?ここで殺すか?
どこかで聞いたようなセリフが奏の脳裏を過るが当然、殺されたくなどないその背にはやっちまった感により冷や汗が伝う。
名前を書くだけで人が殺せるノートがあればどれだけ良いか。
(あ、でもコイツの本名とかわかんない)
それ以前に鴉は生ける屍である。
そんなくだらない事を考えている奏は正直現実逃避気味であり、しかしそれでは駄目だと内心自分を叱咤できる程には現実主義だった。
「とりあえず、どいて。別にこの状態じゃないと出来ない事なんて無いでしょ」
無いと言ってくれ、頼むから。
じっと見下ろしてくる鴉に内心激しく動揺しながらも、奏が再度身を捩り解放を促せば、数秒後。
「この状態で見下ろすお前は中々に楽しいが」
「黙れクソ野郎」
不機嫌ながらにも納得したらしい鴉が身を起こした事により漸く、解放された奏の身体。そして繋がれたままの右手。
やっといつものお手て繋ぎ状態に戻った彼女は一先ず安堵したが直ぐ、それが“いつもの状態”だという事実に激しく絶望した。
いつの間にやら、“いつも”の基準が著しく低下してしまっている。
(……まぁ、ともかく)
ともかく。
そういえばこの癖もいつの間についたのかと、鴉に対する問題を放置してしまう自分に気付いた奏は、内心頭を抱えながらも“ともかく”身を起こした。
その際。
肩からズレていたナップサックを背負い直せばふと、指を掛けたそれが何時もより重い事になんだか嫌な予感を覚える。
何故、いつもより重いか。
それは、いつも入れていない重い何かがナップサックに入っているからで。
(――ッ!まずい!!)
隣にいる鴉の存在など吹き飛ぶ勢いで。
慌ててナップサックの口を開こうとした奏の手は、しかしその時、ピタリと止まった。
ピンッと神経を尖らせる彼女の耳が捉えたのは、ジャリっと砂と瓦礫を踏む足音。
「おー、いたいたー」
「え、マジ? ってか何このガレキ」
その先、出現した数人の姿に奏は小さく舌打ちをした。
(次から次へと……)
ぞろぞろと現れた人影は、五つ。
そのどれもがニヤニヤ笑いを浮かべた男性で、一見にしてガラが悪いと判断できる容姿だ。
そして俗に言うヤンキーの兄ちゃん的な(“兄ちゃん”と呼んで良いのか若干疑問な者もいるが)彼らは恐らく、この町に滞在している集団の一員だろうと。
出来れば見つかりたくなかったものだが、あれだけ騒がしくすれば音に誰かが引き寄せられるのも仕方のない事かもしれないと考える奏は、面倒事の予感に舌打ちをした。
大体。
彼らは何故飽きもせずにこうも、ニヤニヤと見定めるように見分の視線を向けてくるのか。
全く持って礼儀がなっていない、そういえば初めて会ったタクロウ君のお仲間らもガラは悪かったなと向き直った奏が無言で回想する前。
彼女を上から下まで眺めていた兄ちゃんらのうち、視線を逸らした一人が目を見開いた。
「え? あれ、お前久ぶりじゃん」
は?と。
当然、彼らと面識など無い奏は無遠慮な兄ちゃんが指差す先を面食らいながら辿った。
「誰だ、非常食」
「いや私に聞かないで」
しかし、指名された鴉は意味不明といった様子で不機嫌に眉を寄せていて。
取り繕う様子など欠片も見られないそれは嘘を言っているように全く見えず、本当に覚えがないのだろう、奏に向かって首を傾ける姿に兄ちゃんらがさも愉快そうに笑った。
「ちょ、おま。誰だってこたぁねぇだろー」
ケラケラと。
鴉の言葉を冗談と捉えたのか、何やら爆笑している兄ちゃんらにも嘘を言っている様子は見られない。
という事は鴉が一方的に忘れているだけか、それにしても二方はどういった関係なのか。
ガラの悪い兄ちゃんらと金髪の感染者の関連性は奏が見るに、一見にして分かるそのヤンキーな外見だけである。
しかしその時、内心疑問符を浮かべまくっていた奏と目が合った兄ちゃんらの一人が「あ」っと小さく上げた声によって。
「もしかしてそのねーちゃん、この前お前が連れてった子?」
「・・・・・・!」
謎はあっさり解明された。
何故なら“鴉に連れて行かれるところ”を、奏が民間に目撃されたのは只の一度だけだから。
(……成程)
すべての得心がいった奏の中、思い浮かぶのは鴉と初めて会った時の事だ。
それは老婆に連れられ“この先の駅に詳しい者”こと“案内人”に会うため向かった先、金網張り巡らされた廃墟。
つまりあの時、廃墟にいたガラの悪い集団は彼らだったのかと。
そう分かってしまえばタクロウ君とかわした会話にも節々、それを思わせる言葉が滲んでいたような気がする。
――オレ奏さんみたいな恰好の人、他にも見た事ある。
この前行った村では――
それを何処で見たのか、この前行った村とは何処だったのか。
聞いていれば今この事態は予測できていたものだったのかもしれないと、奏は己のコミュ障っぷりに嘆息した。
しかし、直ぐ。
思い直した彼女の中に浮かんだ思考は「それがどうした」というもの。
彼らと鴉が顔見知りだろうと、大した問題ではない。しかも鴉の方はすっかりそれを忘れていると来ている。
恐らくこの感染者にとって、人間とはパン屋に並んでいるパンと差異無いものなのかもしれず。奏自身「あ、このパン見覚えあるわー」などという感覚は持ち合わせていないので、“非常食”とは案外破格の扱いなのかもしれないと一応理解するもあまり嬉しくなかった。
(だって所詮モノ扱い……)
しかし感染者にとっての人とはあくまで、“食べ物”の一種。
けれど“特殊型”に限ってはそれ以外の目的を持っていたりもするわけで。
(ん? つまり私、なんだ……??)
なんだか自分で自分の考えている事が良く分からなくなってきた奏は、複数の疑問符を頭上に浮かべた。
「ちょうどいいや、今そのねーちゃんに用があってさ」
しかしウダウダと考える彼女の心境は決して表には出ておらず、それを緊張により表情が凍っていると取ったのか。
距離を詰め語りかけてくる兄ちゃんに奏が意識を戻すより先、反応したのは鴉だった。
「――っ!」
小さく息を飲んだのは、奏だ。
隣から息苦しくなるほどの圧迫感が伝わってくる。
鴉は今、何故かピリピリとした殺気を兄ちゃんらに向けて放っている。
(え、なんで――?)
なんだかこんな事が以前にもあった気がする奏だが、よく思い出せない。
そして殺気を向けられている兄ちゃんらはどうやら、身の危険に気づいていない。
なんと呑気な、もしや見知った相手だからと言って油断しているのか。
そんな無防備さに奏がいっそ恐怖すら覚えている事にも当然、彼らは気づいていないのだろう。
「ねーちゃん、あんたのお仲間? みたいなの今この町に来てるっしょー?」
「……。」
此方の緊張、其方知らず。
何でも良いからさっさと逃げろ、と言いかけていた奏は視認できないほど僅かに眉を寄せ、己の右手の中にある鴉の左手をぎゅっと握り留めた。
何やら兄ちゃんらが奏に関係する話をしようとしている以上、それを聞くより先に鴉に暴れだされては困る。
正直その内容には、嫌な予感しかしないが。
「今捕まえてっからさー。返して欲しかったらちょっと色々恵んでくんない?」
彼らの言う“お仲間”とは補給部隊の事か、そしてやはりもう町に到着してしまっていたか。
更に、彼らに捕まったというのか。
一気に全ての事実が確信できた奏は思わず眩暈を覚えたくなるが、健康状態の脳は至って元気である。
「申し訳ありませんが。人様に恵めるほど裕福ではないので」
「別にいいよ? そのカラダ一つでも」
下卑た笑いを浮かべる兄ちゃんらの顔面に“思いよ届け!”的な意味で拳をぶち込みたい。
そんな気分になる奏は今、過去の任務の全貌を理解していた。
(……そうか、こいつらが脅して、手に入れるものは――)
何も、食糧に限ったものではなかったのだ。
冷静な部分で分析した奏はなんとか、落ち着こうと深呼吸をしてみてはいる。
けれど、理解してしまった。
あの時、“案内人をつける”といったあの老婆は恐らく、この集団に脅されており。
“差し出すもの”として丁度、村にやってきた奏を選択し。
そのせいで奏は、鴉と出会う羽目になったのだという事を。
「そうか……お前らのせいか」
推測は当たらずとも遠からず、だろう。
おもわずボソリと漏らし、諸悪の根源を見据える奏の瞳はいっそどこまでも無色で。
「ん、何? なんか言った? なんでも良いから早く来いよ、ねーちゃん」
「ってかお前らが会ったのってジッサイ、俺らのおかげじゃね? でも一人占めはよくねーよなぁ?」
口々に何やらを言い。
にじり寄ってくる兄ちゃんらに対し、ピクリと鴉が反応するのを奏は軽く手を引くことによってひとまず留める。
「なんだ」
「……こちらは、一応人質を取られているんです」
静かに返し、隣に視線を流せば思った通り。
なんだか不満タラタラの鴉が目を細める様に、奏は内心で苦笑した。
「それがどうした。こいつらは俺のものに手を出そうとしている」
「お前のものになった覚えはないけど――」
臨戦態勢バッチリの鴉を止めたのはどうやら正解らしい。
けれど。
(正直、前半には同感――)
奏は深く吸い込んだ息を止めた。
「――っ!?」
一歩踏み込み、近づいて来ていた兄ちゃんらとの距離を縮めた奏は珍しく右手の先、引かれた鴉がバランスを崩しかけた事を悟る。
しかし、関係ない。
抉るような蹴りを繰り出し兄ちゃんらの一人に命中させれば、近くの二人が巻き込まれて倒れる。
まるでドミノ倒しだ。
そしてその頃には当然、崩れかけていたバランスを持ち直したらしい鴉が残り二人のうち一人をすっ転ばせており。
珍しくいい仕事をするなと。
地に倒れた男の背に鴉が足を乗せている様を横目にする奏は、最後の一人の首を掴みあげていた。
「お、俺らに手ぇ出したな!? お、お前人質がどうなっても――!!」
「だから、なんです? 伝わらなければバレない事でしょう」
人質とは、目の前にあるからこそ有効だ。
そんな事も分からなかったらしい残念な脳みその兄ちゃんの首を、奏は死なない程度に締め上げていく。
ポイントは、彼らを決して逃がさない事。
「幸い、この町には腹を空かせたゾンビがいるみたいですし――」
チラッと視線をやった先。
奏の目に映ったのは残りの四人が未だ倒れている姿――ではなく、いつの間にやら四人を積み上げその天辺に腰を下ろした鴉の姿。
「……!?」
なんだかツッコミ所満載の光景を見てしまった気がするが。
「あ、えーっと……そうだ、部下が五人ほど戻らなくても。それは至って自然な事ですよね?」
改めて視線を戻した奏は同意を求めるかのように、目の前の男の顔を覗き込んでみる。
しかし残念ながら、カクリと。
「・・・・・・・。」
既に頸動脈を締め上げられた事により気絶してしまっている兄ちゃんからは、純粋無垢な白目しか返って来なかった。