その33・正しく道具を使うこと
「おっかえりー!」
「ただいま戻りました」
奏の何度目かになる帰還に、時計塔の中でおとなしく待っていたタクロウ君が元気良く挨拶を投げてくる。
恐らくこの辺りの感染者はあらかた狩っただろう。
昨日から双眼鏡で怪しい人影を見つけては狩り、見つけては狩りを繰り返していたのだ。
始めは一人置いていかれることをしぶっていたタクロウ君も、今ではこの調子。どうやら昨晩スマキにして転がした件についての怒りも、彼の中ではさっぱり収まったらしい。
「ってかさ、オレなりに推理してみたんだけど」
「なんでしょうか」
ヘルメットを机に置いた奏は、包丁に刃こぼれがないかを丹念に確認する。
狩った感染者は昨日から合わせて六体といったところ。
どれもこれも腐った“只のゾンビ”であり全く持って敵ではなかったが、流石に何人ものゾンビを相手にすれば包丁の具合が悪くなる場合もあり、それは死に直結する大問題になったりするのだ。
「奏さん、特殊部隊じゃなくてもどっかで働いてるヒトでしょ、服とか綺麗だし!!」
「……とある研究所らしき所で」
「研究所!? なにそれ、何処の!? アメリカ!?」
「一応日本です」
なので、正直。
奏にとっては包丁の手入れが第一であり、タクロウ君からの問いには適当に答えていたのだが。
「うっそ……マジで?」
これまでとは変わって呆然とした響きを持ったタクロウ君の声に、奏は包丁に落としていた視線を上げた。
そこにあるのは驚きに見開かれた瞳。
そしてじっと奏が視線をやっていると我に返ったよう、一つ瞬きをした彼の視線が床へと落ちる。
「いや正直ホラ、今ってこんなじゃん? だからフツーに日本でまともに動いてる組織?とか無いと思ってた」
言われてみれば、もっともかも知れない。
普段、彼の言う“日本でまともに動いている組織”の内側で暮らしている奏にとって、それが当たり前と化していたが。研究所の外は、十年前からずっと感染者によって荒らされるまま。変わっていないのだ。
「なぁ、奏さん……オレら、助かるの?」
なので次にタクロウ君が向けてきた希望を探るような視線も当然のもの。
それを一応理解は出来る奏は、幾度も見覚えのあるそれに僅かその眉根を寄せさせた。
「どうでしょうね」
希望に縋る視線というのはどうして、こんなにも弱弱しくみえるのだろうか。
「え、だって何か研究してんだろ? ゾンビ根絶やしにする殺戮兵器とか!」
「そういったものは開発していないと思います」
「え!? な、なんで……??」
そして縋る立場の癖に、期待と違う言葉を返せば一転絶望に陰る瞳。
人の弱さが露見するかのようなこの瞬間が、奏はどうにも苦手だった。
人の弱さ。
そんなものは人間である限りついて回るものであり、人というものが本当に弱いことくらい、奏はこの数年で嫌というほど分かっていた。
それは精神的にも、当然肉体的にも。どうしたって敵わない相手は存在するし、感染者に比べれば簡単に死ぬ、そんな存在が“人間”というやつだ。
けれど、それ以上に弱い存在もこの世には存在するのだから。
せめて人はある程度強く、自分自身を強化すべきだと考える奏はそれはもう、「シャッキリしろ男だろ!」くらいタクロウ君に言ってやりたかったが。男のプライドとかいうものは中々に繊細であると河井にならっていたので、とりあえず止めておくことにする。
「……あれの一番の問題は“人に感染する”という部分です。そして、人にさえ感染しなければ奴らは繁殖できません。なので奴らを焼き尽くすより“人が感染しなくなる”ものをつくった方が効率がいいでしょう」
「……インフルエンザの人を隔離するより、特効薬つくった方がいいって事?」
「まぁ……そんなもんですね」
インフルエンザとかなり違う部分も多々あるが。
そうして吐き出した奏の脳裏が、確かにタクロウ君のいう“殺戮兵器”とやらも見てはみたいものだと。想像の世界に飛び立つのを引き止めるよう、しばし唸っていたタクロウ君が妙案を思いついたかのようにパッとその顔を明るくした。
「あ、じゃあさじゃあさ。ゾンビになった人を元に戻す薬ってのは?」
ピシリ、と。
奏の表情が一瞬硬直したことを、恐らくタクロウ君は気付いていないだろう。
「それは……無理です」
「え!?」
「ほら、奴ら腐ってるじゃないですか」
内側の見えるぶよぶよした皮膚に濁った眼球を持ち、更に腐乱臭を漂わせる形だけは人型の存在がもし本当に“人”に戻ったとしても。
完全イジメの対象になること間違いなしである。
寧ろ苛められるだけ幸いかもしれない、間違いなく普通の人は寄り付かない。
そもそもそんな状態で、人間が生命活動を維持できる筈ないのだが。
「じゃあ腐る前だったら大丈夫?」
「それも無理です」
「え、なんでなんで??」
疑問符を繰り替えすタクロウ君は本当に子供のようだった。
しかしそれを知ったところで彼が今後の人生に知識を生かせるかというと、奏には甚だ疑問である。
中途半端な好奇心ほど人生の無駄になるものはない。
そして、不可能なことについて考えることも。
「ともかく。問題は山積みという事です」
「山積み……」
「そう、山積みなんです。手始めに――」
ふうっと細く息を吐いた奏は手入れしていた包丁をしまい、ガラッと話題を変えることにした。
役に立つのなら、非常によろしいものである好奇心。しかし付き合わされる方としては中々に疲れるものがあり、現在の話題は奏にとってあまり好ましいものではない。
(……もしかして所長もあの時、こんな気持ちだったのかな)
否、自分はちゃんと吸収したことは生かせているはずだと。
一瞬過去に飛びかかけた奏はともかく、現在の問題に集中することにした。
「タクロウ君、あなたのお仲間が移動する兆候が見られないんですが」
そう、現在の大問題。
感染者を狩るため何度か町へ乗り出していた奏だが、その辺りをうろつく人間が一向に減る様子を見せないのだ。
おかげで人から隠れながらゾンビを狩る、という何とも面倒臭いことを強いられていた奏は実は、ちょっぴりご機嫌ナナメだった。
「……」
「……あなた方のトップは何を考えているんですか?」
感染者のうろつく町に滞在するなど。
加えて奏が咲きに逃がした二人には「この町にはヤバイ感染者がうろついている」とボスに伝えるよう言ってあるはずである。
しかしなにやら黙り込んでしまったタクロウ君は、胡坐をかいたまま居心地悪そうに視線を伏せてしまい、問いに対する答えをどうやら濁しているらしく。
このままでは拉致があっかない。
奏が歩を進め少し空いていた距離を詰めて見下ろせば、ひっと短く息を呑む音が彼の口から僅かに漏れた。
「……私、まだ何もしてませんが」
「奏さんも怖いけどアニキも怖い!!!」
「は?」
彼は一体何を言っているのか。
確か“アニキ”とは彼らのトップの事だった筈だと、奏は以前の会話を思い返しながら依然タクロウ君を見下ろし続ける。
しかし、やはり彼はどうにもキョドキョドと視線をさ迷わせ口を開こうとしないので。
一つ息をついて屈み込んだ奏は、ガッと目の前にあるタクロウ君の顎を掴み強制的に視線を固定させた。
「何が怖いんですか」
「いいいい今は顎が砕かれそうで怖い!!!」
「そんな馬鹿な」
タクロウ君は顔を真っ青にして言うが、奏にはそんな一生ものの責任を負う気など更々無い。
けれど此方は問いに答えたと言うのに、其方からは答えを返さないつもりかと。
ぎゅっと顎を掴む手に奏が力を込め見据えれば、戦慄くタクロウ君の口からやがてポツポツと言葉が漏れ始めた。
「つまりアニキは……オレらの事なんかコマくらいにしか思ってないんだ」
彼らのボスの目的は、食べ物を集めることらしい。
それは至極真っ当な目的だが問題は手段にあるようであり、語った内容を集約したタクロウ君の声は、悲痛じみたものを帯びていた。
「だから食べ物さえ集まれば他はどうでもいいみたいで。オレらが二・三人死のうが……アニキにとっちゃ些細なことなんだよ」
「成程、だからまだ町をうろついているんですね……あとあなた方のトップは、頭が悪いんですね」
二・三人減ったことにより、途轍もない成果が手に入るのであれば別だが。
そうでない限り人命は保守すべきもので、一回につき二・三人だろうと当然、繰り返せば減りやがてゼロになるという事くらい真面な考えが出来るものにはわかる。
つまり生き残ることを考える上で最も大切な物資は間違いなく“人”であり、回避できる危険は回避するべきだというのに。それをしない彼らのトップは、少なくとも奏にとって“バカ”だった。
「でも、一応食料は集まってるし……ここにも、もしかしたら砂糖とかあるかもって」
けれど言うタクロウ君的には、ある程度の犠牲は仕方がないと納得しようとしている節があるのか。
人間と言う意味で兵糧攻めにされている現状を全く持って理解していないと、奏は双眼鏡を手に窓から見る観光地観察へと戻った。
「あなた方がそれで良いのなら良いんでしょうけど」
そう、全てはそのグループに属する人が決めること。
此方が何を言おうがどうしようもない問題であると、理解している奏は引っかかりは覚えるものの、関与できない事柄に首を突っ込む気など全く無い。
それこそ窓の外、観光地をうろつく感染者がいないかを観察し見つけ次第始末した方がずっと世の為人の為である。
「ホントは嫌に決まってんじゃん!……でも」
でも、と続けるタクロウ君を尻目に奏は町並みをじっと見つめていた。
今のところ人影はないが、人間の集団が移動を始める気配もしない。
そろそろ補給部隊が到着していてもおかしくない頃合い、どうしたものかと奏は首を唸らせる。
「でも……アニキ、銃持ってるし」
しかし、その時耳に届いたタクロウ君の言葉に。
視線は町に向けたまま、けれど奏は意識を引っ張られた。
「……銃」
「そう、拳銃。逆らえないじゃん」
短く繰り返した奏に、意識を向けられた事を悟ったのであろうタクロウ君が大きく頷く。
「つまり……銃を持っているのはその人だけなんですか?」
「うん。多分どっかで拾ったのか……」
奪ったか。
そのくらいの言葉の先は読める奏は成程、タクロウ君がはじめこの話題を渋っていた意味が驚くべき閃きによって理解できた。
研究所の者から奪った、という可能性があるからこそ彼は言葉を濁したのだろう。
実際今回彼らは研究所の者らを捕らえ何かを巻き上げようとしているし、そもそも奏自身、前例があると飯島が銃を持つものに口すっぱくして言っているのを目撃しているし、実際、所内のものは人に対して滅法弱いという事も知っている。
何故なら感染者に対して発砲できても、人に対しては出来ないから。
数人に囲まれてしまえば哀れ、一方的に身包みを剥がされてしまうというわけである。
(まったく、民間に銃を奪われるなんて)
なんともマヌケ、そしてはた迷惑なそれに奏の眉間がしわを寄せた。
「それにしても、銃ですか……」
「そうだよ、銃だよ!怖いじゃん!」
「なるほど……それであなた方は脅されていると」
事実を確認した奏が「死ねばいいのに」、とボソリと漏らした言葉はタクロウ君の耳に届かない。
奏はともかく銃が嫌いだった。
そしてそれを使って人を脅すような輩は、万死に値する。
「まぁでも、逆に銃が約に立つこともあるし……この前行った村ではそれで脅して食料もらったりとか」
しかし流れからして半ばこう来ると分かっていた奏は無感情に、ただ意味も無くじっと双眼鏡の先を凝視する。
もう何でもいいから好きにやってくれ、但し私の関係しないところで。
そんな事を考える奏の内心から滲み出る怒気を感じ取ったのだろう、視界の端でモゾモゾするタクロウ君の気配が酷く煩わしい。
「……ケイベツ、した?」
「特に。生きるためには仕方の無い事で――」
武器とは生きるための道具。
中でも銃は特にその使い方を、弱者にどうこう出来るものではないと知っている奏は、しかし。
その瞬間ひっと短く息を呑んだ。
「……? 奏さん?」
速やかに双眼鏡を下ろし己のナップサックへ手を伸ばした奏を、タクロウ君が不思議そうな目で見つめる。
しかし彼に構っているヒマはない。
奏は双眼鏡の先、目撃してしまったのである。
(やばい、やばいやばいヤバイ!!)
お昼の陽光をキラリと反射させる、金髪の頭を。
恐らく目はあっていないと思うが双眼鏡を下ろす直前、その顔は奏の方に向けられようとしていた。
(ってかアイツなんでこんな所にまで――ッ!!!)
何故、どうして。ともかく何にしても今すぐ逃げなければ。
タクロウ君との会話など瞬時にふっとび、奴に捕まれば任務に支障を来たすなどという冷静な思考すら無く。
只本能が出した“逃げろ”という言葉に従うよう、恐るべき追跡力を持つ感染者に内心若干恐慌状態になりつつも、奏の手は機械のように正確に動いた。
何といっても時間が無い。
それを証明するようナップサックから取り出したロープの準備を進めていた奏の耳、下から時計塔の扉を破られる重い音が届く。
「え!? な、なに!?」
なんという速さ。
となりでようやくにして異常に気付いたタクロウ君が声を上げているが、今の奏にとってそんなことは知ったこっちゃ無い。
ダダダダダダダと猛烈な勢いで時計塔の階段を駆け上がってくる足音に彼女の手はロープの先、フックを窓際へ引っ掛ける。
そうして全ての準備が整った瞬間。
「ここにいたか非常食!」
「さようなら」
バーンと部屋の扉を開け放った鴉の姿を目に、奏は時計塔の窓から飛び降りた。