その32・被害は最小限にくいとめること
そう、これだ。
所詮銃は遠距離武器。
近距離のもみ合いになると当然、そちらに特化したものが勝るに決まっている。
振って沸いた鴉を、河井は歯噛みしながら睨みつけた。
全くなんだってコイツはこう、神出鬼没に背後を取ってくるのか。一応前回よりはかなり速やかに反応できた気がするが、押されている事には変わりない――どころか完全に抑え込まれている河井は秒速8ムカムカ(単位)で苛立ちを上昇させていた。
しかし、相手は依然ひょうひょうとしたまま問いの答えを待っており。その態度がまた、河井の苛立ちを加算させる。
けれど。
その時、先ほどまで話していた女がキョトンと首を傾けた。
「……どちらさま?」
鴉の視線が其方へすっと流れる様に、河井の肌が一気に鳥肌を立てる。
ぎゅっと銃を握る手に力を込めても、結果は先程と変わらない。当然だ、先ほども今もいつだって彼は全力である。
(やべぇ……)
チラと現在駅構内に残っている己を含めて七人の配置を脳裏に展開した河井は、ともかく目の前の感染者の挙動にのみ全神経を集中させることにした。
今のところ暴れだす様子の無い鴉だがもし、そうなった時全員を守りきれるか。
「よし鴉、ちょっとこっちで話そうか!」
幸い隣の女以外、今のところ鴉の出現に気付いたものはいないらしいので。
最悪のイメージを脳裏で展開させた河井は兎に角、幸いなことに言葉が通じる相手をなんとか部隊の皆から引き離すことを考える。もしここで大声でも上げようものなら、目の前の感染者がどういった行動を起こすかなんて分かったもんじゃない。
守れと言われたからには、否、守れと言われなくとも此処にいる全員の命を守りきることが河井の意思で、そのためには何よりも対象と対象の距離を引き離すことが必要だった。
「何故俺がお前の言うことなど聞かねばならん」
それに鴉はとりあえずチラッと視線を戻してきたが、しかし、河井としては全く持って気は抜けない。
なんてったって感染者様は物凄く不満そうである。それはもう、物凄く。
なので、どうすればこれの機嫌を回復させ、かつ言うことを聞かせる事が出来るのか。
その答えを探すよう河井が己の思考回路に網を投げれば、やはり緊張で手元がくるったのだか、そこに引っかかってきたのは一人の女の姿だった。
――落ち着いて下さい、河井さん。
落ち着けるか!、と。
自分の思考回路の中に言い返すのは、なんと虚しいことだろうか。
それにしても全く、何故奏はこんなのに対して冷静でいられたのかと。
一見無駄かのようにも思える先の任務を回想を行っていた河井は、しかし。そこでふと、以前彼女が言っていた言葉を思い出した。
――アレを信用しているんじゃありません。アレの“生態”を信用しているんです。
生態……感染者の生態。
目の前の男は特殊型と思われるが、全ての感染者の基礎は一つ。
それは研究所の人間なら、外の任務に出るものなら当然、頭に入っている知識で。
「こっち来たら美味いもんやるから!!」
そう、それは食欲だ。
感染者は己の欲求に釣られるはずだ、と。
持ちかけてみた河井の誘いに、鴉は一つ瞬きをした。
駅構内をつっきり、その出口である改札付近。
当然それはもう機能していないが、この位置であればとりあえず駅構内にいる部隊の者の安全は確保されている。
そう考える河井に素直についてきた鴉は、腐っても感染者。否、腐ってなくとも感染者という事なのか。
渡された携帯食料のパックを興味深そうに眺める姿に、一先ず銃をしまった(しまわされた、ともいう)河井は重く深い息をついた。
「で。非常食はどうした」
「え? ああ、奏のことか……多分どっかの任務に行ってる。場所は知らねぇ」
本当にコイツは一体なんなのか。
自分に危機を与えておきながら意図もたやすく食べ物に釣られ、お次は奏の話。否、彼女を“非常食”と呼ぶからには結局のところ“食べ物”の話なのかもしれないと。
ふうっと、又一つため息を吐き出す河井。
しかしいくらため息をつこうと彼の心中の不快感は消えず、そしてそんな心中を察するはずも無い鴉はいたってマイペースに視線を流す。
「この辺りから臭いがするが」
「臭い!? お前まさか臭いだけで奏の場所分かんの!?」
所内の規定で風呂は三日に一回、あとは身体を拭くだけと決められているが。
まさかそんな強烈な臭いを放っているわけ無いだろうと瞠目した河井は、とてつもなく冷めた目に見据えられた。
「なるほど、馬鹿か」
「なんでだよ!?」
相変わらず鴉とは会話にならない、そして河井の苛立ちが一方的につのる。
言っていることは相手が間違いなくおかしいというのに何故、自分がこんな理不尽な気持ちにならねばならないのかと。
じっとりとした視線を向ける河井に鴉は先の言葉を続けた。
「辿れる臭いの範囲は決まっている」
「……それ、どんぐらいの距離なんだ」
「あの山からお前らの巣までの半分程度の距離、といったところか」
「まじかよ……え、てか巣!?」
なんという高性能。
そんな思いに一瞬思考を持っていかれかけた河井は、聞き逃せる筈も無い言葉を復唱した。
鴉の言う“お前らの巣”とは即ち、研究所の事ではないのか。
つまり、それは自分らの本拠地の場所が何故かこの感染者にバレているということで。
「え、待てお前なんでそんな事知って――」
「馬鹿の相手をしてもつまらん」
しかし鴉の方は既に興味を失ったらしく、クルリとその場から踵を返した。
手にした携帯食料をポンポンと手投げるその背中は、随分と余裕である。
そして己に声をかけておきながら、余りにも自己中かつ自由すぎる態度である。
「同じ馬鹿の相手なら非常食の方が楽しいからな」
「――っ、待て!」
「……撃つか?」
そうして足を止めた鴉は、河井の銃が再度構えられた気配を察したのだろう。
けれど振り返らないままの相手からの疑問符に、河井は引き金に指をかけたままの無言で返した。
照準は既に相手の後頭部、脳幹から寸分たりとも違わない位置にすえられている。
しかし、問題が一つ。
「撃てば良い。先の事は知らん」
そう肩越しに振り返ってくる鴉の口元が弧を描く様に、河井は後先考えず発砲してしまいたくなる衝動を堪えた。
そう、その先には人がいる。
恐らく先行した部隊の者か。
(なんでこんな時に……っ!)
目の前の感染者は当然、それを知っていたのだろう。
まだ小さい人影だが、万が一にでも鴉に避けられてしまえば。河井の銃弾はその先の人の頭を打ち抜く。
そんなことはあってはならない。自分が撃ちぬきたいのはあくまでも感染者なのだ。
「“その他”、お前には本当に“人質”がきくな」
「……っ、当たり前だろ。俺は“人”だ」
「では人質がきかない相手は人ではないのか」
俗にそれを“人でなし”という、なんちゃって。
一瞬アホな返しを浮べてしまった河井だが、恐らくこの感染者は言葉遊びなどという器用な事が出来るタマではない。何にしろからかわれている様な気が何処と無くするものの、鴉は案外純粋に疑問を感じているようだった。
「人それぞれ、だろ」
「非常食はどうだろうな」
「……一応きくんじゃねぇの」
それに一々答えてやる自分は、もしやお人よしというやつなのか。
吐き出した河井の言葉は納得のいくものだったのか、ふむと鴉が一つ頷いた。
(まぁ俺、前“正直見捨てたい”って言われたけど)
だから一応、か。
自分で言った言葉に自分で納得をする河井はなんだか、無性にイライラするものがある。
何故奏は、と。
何故こいつに対して冷静でいられたのか、何故こいつを放置できるのか、何故許せるのか、何故普通に会話できるのか。
人と感染者がいれば間違いなく感染者が敵なはずで、鴉は敵であるはずなのに。
そんな思いを悶々と沸き上げる河井はそこでふと、奏と自分の間に感染者に対する認識のズレがあることを感じる。
簡単に言えば、奏は甘いのだ。
感染者に対して、非常に甘い。
“邪魔にならなければ良い”なんて、河井には何をどう間違ってもいえない言葉を彼女はサラリと口にする。
それは今現在の河井には特に、理解できるはずも無い。
「鴉……お前は、奏をどうするつもりだ」
そして奏は、コイツをどうするつもりなのか。
到底分かるはずもない河井の背筋を伝うのは間違いなく悪寒だった。
「お前にはわからん」
「……そうだろうな、分かりたくもねぇよ」
理解できないものは恐ろしい。
そして鴉は感染者としても、とてつもなく恐ろしい。
銃を構えたものの、引き金を引くか迷う河井は迷っている時点で既に敗北している。
それを分かっているからこそ河井が浮べている苦渋の表情に、鴉はとても満足そうに笑った。
「しかし“その他”、お前は嫌いじゃない」
「俺はお前なんぞ嫌いだ。今すぐ滅べ」
「そうか。まぁ好かれたいとも思わんから丁度良い」
それを最後に。
また歩き出した鴉は振り返ることをせず、河井も呼び止めることはしなかった。
数キロ離れてしまえばスナイパーライフルで撃ちぬけるんじゃないかなどと、勝てない相手への勝算をなんとかひねり出しながら。
(・・・・・・・・ん!? ってか奏、この近くにいんの!?)
なので河井が先の言葉を思い出し焦り始めるのはまた、しばらくしてからの事になる。