その28・無駄な疲労感とは無縁でいること
本日は任務出発の日。
車窓を通り過ぎていく風景は、緑。
山中を行く線路の左右を取り囲む木々たちは花を散らせ、代わりに新緑を芽吹かせ始めている。
もうすぐ、春もおわるのだろう。
モノレールの中からチラリとそれを確認した奏は次に、仕留めたばかりのゾンビへと目をやった。
(それにしても――)
皮膚が変色し、眼球すら腐れ落ちているそれの体内器官は恐らく全て駄目になっている筈。
楠から感染者の臓器収集を頼まれてはいるが、流石にこれのは無理だろうと。
判断した奏は動かなくなったゾンビを降車側のドアの前まで転がし、安全の確保された状況に一つ頷いた。
(――“春は変態が増える”って昔聞いたことあるけど)
感染者達もそれは同じらしく、暖かくなると奴らは活性化した。
なのでこの先の季節は特に注意が必要である――とは言っても、もうこのモノレール内に脅威はいないので。
(・・・・・・・。)
手持ち無沙汰になった奏は出発前、飯島から渡された小型の機械をナップサックから取り出してみた。それは少々不安のある代物だが、そもそも出発地点である研究所自体が中々の山奥。
つまり、今回の目的地である観光地までは乗り継ぎも含め、まだまだ時間が余っていると。
時間の余裕を確認した奏は教わったとおりスイッチを入れ、機械を耳に当ててみる。
「……もしもし奏です。聞こえますか、どうぞ」
『奏!!! ふむ、聞こえる。聞こえるぞ完璧のようだ、どうぞ!』
驚いた。
まさかこの胡散臭い無線機が本当に使用できるとは、そして飯島が直ぐに応答しようとは。
「こちらも通話は良好なようです。それでは、また」
『待て!!』
しかし動作確認を終えた奏がスイッチを切ろうとすれば、慌てた飯島の声に引き止められた。
『奏……奏、君には感動が足りない。離れている場所でも声が聞こえるという喜びをかみ締める気はないのかね?』
「充電が心配なので」
確かに飯島の言わんとする事も、分からなくはないが。
奏は座席に腰掛けながら端的に返す。
なんたって機械というものは電気がないと動かない。そしてこの無線機は説明によると、完全充電状態で10分しか通話できないのだ。
『何を言っているのだ、その為の手回し式だろう』
「……確か、一分の充電の為に六百回転ですよね」
『私は奏の為なら何万回でも回転させられるが』
「申し訳ありません。私は流石に無理です」
一応、奏は任務中。充電器を回していたのでゾンビの対処に遅れました、など全く持って笑えない。
加えて無線機はティッシュ箱程度の大きさがあり、耳に当て続けるには少々重い代物で。加えて通話距離を伸ばすためには仕方が無い構造なのかもしれないが、一分間の通話の為に手回し式のハンドルを六百回も回さなければならないというのも中々にして地味に辛かった。
なので、携帯電話とは違うのだという事をぜひとも飯島には分かっていただきたいと。
「常に手回し式充電器を稼動させ続けられる状況にいられるとは思えないので。もしもの時の為に、切ります……あ、楠さんにお礼を伝えておいてください。では」
短く意を伝えた奏は、飯島が何か言う前にぶちっとそのスイッチをオフにした。
少々失礼なことをした自覚はある彼女だが、飯島の話に付き合っていると任務の前に腕の筋肉疲労が大変なことになってしまうので仕方がないと己を納得させる。
(それにしても凄いな、楠さん)
電波塔なしの長距離通話機能を持った無線機を作るなど、その辺りの知識がさっぱりな自分からみても相当難しいことだと思う。
ナップサックの中に無線機を大切にしまい込みながらそんな事を考えていた奏はしかし、そこでふと素朴な疑問を浮べた。
(あれ?ってかあの人って黒液の研究してるんじゃあ……)
車窓の淵に肘をつき、奏は手に顎を乗せたまま数秒固まる。
だが確かに彼女は飯島から無線機を渡される際、「 楠が作った(一応)安心できるものだ 」と言われていて。
つまり楠は黒液の研究に加え、無線機の開発まで行っていることになる。
「…………てんさい?」
ぽつりと落とした声が、奏自身の耳に漠然と響く。
他に称しようのない言葉は余りにも計り知れなかった為、彼女の理解とは程遠いところにあった。
それはもう、『天才』という言葉の意味を辞書で引きたいくらいで。
(……そういえば私、あの人のことあんまり知らないな)
そして、ふと。
研究所で過ごしてきた八年間、考えもしなかった事に思い当たった奏は、思考を数年前にぼんやりと飛ばした。
確かあれは、寒い時期のこと。
という事はおそらく季節は冬だったのだろう、そうでなくとも真っ白な研究室は、更に周囲も白銀に囲まれていた。
そして、これからはここに身を置くのかと。
その距離感が来る狂いそうな光景に眉をひそめた自分が、所内に一歩踏み入れた瞬間から、恐らく楠は施設の一角に引きこもっていた。
災害の発端が十年前である以上、その時点で楠がかなりの古株であることは間違いなく、きっと所長とも長い付き合いなんだろうなと。
(なんだろうなー、と……)
漠然と理解したことは覚えている奏だが、それ以外のことは全く分からない。
兄弟がいるという話を聞いた様な気もするが、曖昧だ。
(……我ながらなんという適当な記憶)
しかしこうしてみると、実に。
己の普段のコミュニケーション不足を突きつけられているような気がして、奏は居心地の悪さに眉を寄せた。
そして八年来の付き合いにしては知っている情報が少なすぎる、という事くらい理解できる彼女の懐には、『目が合いましたね~そこから始まるコミュニケーション~下巻』があり。
「・・・・・・。」
おもむろにそれを取り出した奏は、到着までまだしばらくある時間を読書で潰す事にした。
なんたって先は長いのだ。
モノレールの振動は心地よく、何もしないのは手持ち無沙汰で。
(帰ったら楠さんに……普段何してますか、とか聞いてみようかな)
一応心に決めてはみるが。
帰るころにはすっかり忘れる奏であった。
・ ・ ・
バタン、と。
研究施設に無断で立ち入る、などという恐れ多い事をやってのける人物は間違いなく一人しかいないので。
確認するまでも無く正体の分かった来訪者へと、楠は腰掛けていた椅子をくるりと回転させる。
「やっほー飯島。なになに、どうかした? 何か問題でも起きた? それともまた何かの開発の注文?」
「そうだな……奏が私に懐く装置を開発して欲しい」
スタスタと。
室内に歩を進めてくる飯島が手にしているのは開発したばかりの無線機。
その充電用ハンドルが凄い勢いでくるくる回されている様に、楠は軽く肩眉を上げた。
「やだなー、そういうのは機械に頼らないから楽しいんじゃないの? そもそも僕、機械系専門じゃないし。それ作るのにも6年かかったんだよ?ありえないよね?」
己が組み上げた機械はどうやら無事作動したらしい。
飯島の言動からとりあえずそれを確認した楠は足を組み、軽く肩をすくめて見せる。
「それに十分奏ちゃんは飯島に懐いてると思うよ? 誘えばキャッチボールくらいしてくれるんじゃないの?」
「……キャッチボール?」
「親子の定番といえばキャッチボールじゃないかな? まぁ僕はしたことないから分かんないけどね、あはははは」
「また適当なことを……しかし、今度誘ってみる事にしよう」
楠が己の想像を口にすれば飯島は一つ頷き。
しかし出て行く様子がないところを見ると、恐らく所長様は暇なのだろう。臓器の保管されているケースに歩み寄り、ガラス越しにある眼球をじっと眺めている姿はちょっぴり悪趣味だ。
しかしそんな彼の手は、絶えずくるくると無線機を充電し続けているので。
書類を手に取るもどうにもうるさい稼動音に、楠は一つため息をついた。
「はぁ……まったく。充電したからって奏ちゃんから掛かってくるわけじゃないからね? っていうか聞きたいんだけど」
「なんだね?」
「飯島は奏ちゃんと、どうなりたいの? 最近よくわかんないんだけど」
書類を机に置いた楠はくるんっと椅子を回し、改めて相手へと向き直る。
それに対し飯島は、振り返ることも無く言葉だけを投げ返す。
「今更なんだ、始めに言っただろう“親子になりたい”と」
「はぁ。あの時は状況が状況だったから、建前で言ったんだと思ってたんだけど。やっぱそれ本気なんだ?」
あの時。
飯島が奏を所内へと迎え入れた当初。
一応選別はしたものの、ゾンビから逃げてきた人々で飽和した所内は日々の食事もギリギリという状態だった。
それでもまだやっていけたのは食料という名の遺産が、まだ各地に残っていたからで。
しかしこれ以上人を増やすなど愚の骨頂、有り得ないという状況で飯島は強引にも「これは私の娘だ!」と言い張り奏を迎え入れたのである。
「当然だろう、私の最終目標は常に“仲の良い親子関係を築き上げる事”だ。そして“仲の良い”という事が重要なのだよ、間違っても無線をブチ切られるような仲ではないという事だ」
「あははは、ブチ切られたんだ――でも君達、血つながってないし。結局他人扱いなのはどうしようも無いんじゃない?」
「……日本には“義父”という言葉があるだろう」
くるりと。
振り返り、臓器ショーケースから楠へと視線を移した飯島の眉はぐっと寄せられている。
「それにこの8年間、築き上げた関係もある。私にはそろそろ奏に“お父さん”と呼んでもらえる権利があると思わないかね?」
「飯島が8年なら僕も8年。飯島がお義父さんなら僕はお母さんだよ……まぁいいや、そんな事より。つまり具体的に飯島は“仲の良い親子”ってどんなだと思ってんの?」
「そうだな。まず誰より先に私を頼り、悩み相談をしてきたり、暇な時間があれば“一緒に~しようよ!”などと言ってきたり……ともかくあの他人行儀な態度を何とかしたいのだ。お父さんと呼ばれたい、もしくはパパでもいい“パパ一緒に寝よう”もしくは“パパ一緒にお風呂入ろう”などと言われた日には死んでもいいと思っている」
「なんか君、色々と重症だね?」
ずらずらと吐き出された飯島の言葉に楠はあからさまなため息をついてみせる。
ぎしっと椅子の背にもたれて見た先、不可解そうに眉を寄せた男は色々と“お父さん”の認識を誤っているとしか思えない。
「奏ちゃん今年でいくつになると思うの25歳だよ? そんな年頃の子が異性と一緒に寝ると思う? お風呂とか入るわけないよね?」
「お父さんとは入るだろう」
「入らないよ」
なんだと、と詰め寄ってくる飯島は楠から見て親馬鹿――というより馬鹿だ。
そしてこの男の言動を許している奏はかなり寛容なのではないかと。
なんだかアホらしくなった楠は手にした書類をヒラつかせ、くるんっと机に向き直る。
「飯島、親子関係に夢見すぎ」
「……最近奏だけではなくお前まで私に冷たくないか」
「あはは、現実ってのは冷たいもんなんだよ?」
軽く返し、なんかお腹すいたなと。
覚えた空腹感をそのまま口にしてみた楠は直後、背後から飛来したパンによってタンコブをつくる羽目になった。
どうにも、今日の研究ははかどりそうにない。