ぬくもりを抱きしめること 下
「奏……」
ポロリと口から零れた言葉をそのままに。
河井は近づいてくる人物の姿を、呆気に捕られたままに見上げる。
「とりあえず河井さん――」
しかし、スタスタと。
早足で近寄ってきた奏が己の隣に当然とばかりに腰を下ろすので、とりあえず少し身を引き場所を空けた河井は、手にしていた懐中電灯を床に置き、なにやらゴソゴソし始めた彼女の姿をただ呆然と眺めた。
何故、奏がここにいるのか。
そんな驚愕にも近い驚きによって、河井は言葉を紡げなくなっている。因みに先程までの焦りと思考も、見事に吹っ飛ばされている。
しかし。
「――メアリーから手を放してください、嫌がっています」
ぺいっと。
メリーに回していた己の腕が、邪魔だと言わんばかりに彼女の手によって跳ね除けられ、流石の河井も何かを察しようやくにして我に返った。
「え、ちょ、おま……っ! お前こそ俺のメリーに何する気だ」
「何って。乳を頂こうかと」
ぐいっと体を押し返せばまた、ぐいっと体を押され。
地味な小競り合いの中ハッキリした相手の目的に、河井はその目を見開く。
良く見てみると確かに、奏はその手にしっかりとコップを握りしめている。
更に良く見てみると奏はその手に、メリーの乳を握っている。
「なっ!!?? や、やめろ! 俺のメリーに触るんじゃねぇ!!!」
「馬鹿言わないでください、私はお腹がすいてるんです。それにこの子は“メリー”ではなく“メアリー”です」
山羊を庇うよう身を乗り出した河井はじっとりとした視線に返され、反射的に眉根を寄せた。
奏は一体、何を言っているのか。
しかし今は兎も角、メリーを守らなければならない。
「ともかく止めろ! お前の握力で握られたらメリーの乳がもげる! ショック死する!!」
「何な馬鹿な……あと、メアリーです」
「馬鹿じゃねぇ、あとメリーっつったらメリーだ! ほら、ここにもメリーって書いてあんだろ!?」
びしっと。
必死にメリーを守りながらも、証拠を提示するよう。
家畜を仕切る柵にかかったプレートを指差してみせた河井は何故か、それを確認した奏からいつも以上に冷たい視線を向けられた。
「……それメアリーって読むんですよ」
「なん、だと……!?」
きっと呆れているのであろうそれに、河井は慌ててプレートを二度見した。
―――『Mary』
マリーとも読めそうだが、英語と言うものはそのままローマ字読みすると間違っている場合が多い。
なのでこれは完全に『メリー』だと思い込んでいた河井はしばしの逡巡の後、驚愕の事実に気がついた。
メリーとくれば羊が常識である。
何故そんな事を失念していたのかと。衝撃に打ちひしがれる河井は穴が開くほどにネームプレートを凝視するが、それによって綴られた文字が変化するはずも無く。
こうなったらいっそ書き換えてやろうかと、奏のほうにチラリと視線をやった河井はそこにあった光景にひっと短く息を呑んだ。
「あ゛ーーーー!!!!」
「さっきから何ですか。静かにしてください、河井さん」
視線を戻した先。
速やかにメリー改めメアリーの乳を手に入れた奏がゆうゆうとコップを傾ける様に、河井は思わず絶叫する。
しかし全ては後の祭りで。
自分が意識を逸らしている間に一体何があったのか、どうなったのか、メアリーは無事なのかと。奏の指摘など右から左に、河井は慌てて愛する羊へと向き直る。
「メェエェェエ」
しかしどうやらメアリーは元気そうだ。
ほっと胸を撫で下ろしながら頭を撫でてやれば、すりすりと擦り寄ってくるその愛らしい様子。
もう先程までの色々など瞬時に吹き飛ぶ可愛さである。
(――ってかコイツだよコイツ!!)
しかしとりあえず、彼女が来たことによって至福の時間が吹き飛んだことだけは間違いないと。
じとっと奏に怒りの矛先を向ければふと、彼女の冷たい表情が僅か緩んでいる事に河井は気がついた。
「……お前まさかメシ、食ってなかったの?」
「一応食べてましたが。……流石にもうC食は」
「そ、そうか」
食堂に顔を見せないとは思っていたが、まさかそんな事になっていたとは。
返してくる奏は真顔だが、ヤギ乳に和むほどその食生活は辛かったのだろう。察した河井は流石に同情を禁じえなかった。
なんたって彼は今日、そのC食と死闘を繰り広げてきたばかりであり、その苦しみは痛いほどに分かるのである。
そう、食事は只の栄養摂取などではない。
このご時勢、数少ない娯楽の一つであるというのに、C食を飽きるほど食べさせられるなど拷問ではないかと。
眉根を寄せ心を痛める河井はふと、そこで率直な疑問を思い出す。
「……ってか。お前最近見なかったけど、何してたの?」
「ちょっと崖登りを」
「マジで崖登ってたの!? え、修行……それ修行!?」
「はい、修行です」
そして、淡々と。
相変わらず奏の返事はそっけないものだったが、それでも流れ始めた会話に河井はメアリーへと視線を流した。
食堂での飯島の言葉は真実だったらしく、となればその理由も恐らく真実で。
「それは……鴉に負けたからか?」
「そうですね……私自身、全く歯が立たない相手に悔しい思いをしました」
河井が確認してみれば、ぽつぽつと奏の口から零れ落ちるその内心。
「けれどそれは最初だけで……二度目となったらそりゃ悔しい思いもありますが、それ以上になんというか―――次元の違い? のようなものを感じて。ある種、諦めてる節があったんですよね」
そしてその内容は非常に、河井の共感を呼ぶものだった。
なんたって彼自身もあの任務の後、圧倒的な実力差にしばしの落ち込んでいたからである。それはもう、どうすれば勝てるかのシュミレーションも上手くいかず、そんな自分に怒りすら覚え、恐らくあるのであればヤケ酒をしていた勢いで。
そう、あの常人の域をはるか超越している特殊体に対し出てくる本音は――正直どうすれば勝てるのか分からない、というもので。
けれど言いにくそうに、それでもそんな事実を認めた奏は案外大人なのかもしれないなと。
メアリーを撫でながら河井は彼女の言葉を静かに聞いていた。
「でもちょっと、その……飯島所長が」
「所長が?」
「その、以前伏せたものも含めて全て報告しきった後に――まぁその、怒られてしまって」
少々意外な言葉に引かれ、河井はメアリーから奏へと顔を向ける。
何となく、飯島は奏に物凄く甘いような気がしていた。その認識は間違っていたのだろうか。
「……あの人、お前に対して怒ったりすんの?」
「するに決まってるじゃないですか。……でもなんというか、そうですね。怒り以上に妙な対抗意識を燃やしているみたいで」
「誰に?」
「鴉に、ですよ。“負けるなど許さん”とばかりの勢いで――あっという間に強化メニューが組み立てられて」
「お、おう……」
「私自身強くなるのには肯定的なので。その時点では結構乗り気で楽しみだったんですが……歳ですかね、ちょっと疲れたので今サボりに来ました」
ふうっと。
吐き出したかと思えば肩を落として見せる奏の珍しい姿に、河井は内心意表を突かれながらもとりあえずの事項を確認する。
「……お前の師匠って飯島所長なんだよな?」
「はい」
「それにしても厳しいな、だって相手はアイツだろ? あんな規格外でも負けたら怒られんの?」
「あ、はい。あと、なんというか……一度目は体調不良で通っても二度目はそうもいかないと言うか」
「……。」
今はもう確信となっていた事を確認すれば予想は的中。
そして返って来た言葉に先程、己の中に生まれた驚きがまた上書きされ。
そういえば前の任務でもちょっと思ったんだっけと、ぼんやり回想しながら河井はポリポリと己の頭を掻いた。
「……お前って意外と人間的だよな」
「……? どういう意味ですか」
言えば向けられる奏の表情は、至って能面。
けれど修行をサボったり、負けに対する言い訳をしたり。
「んー、なんかよくわかんねぇけど。もっと機械的なヤツだと思ってた。正直疲れたりしねぇんじゃねえかとも思ってた」
あくまでも奏は、腕相撲で男を負かし勝ち誇ることも無く、「興味が無くなった」とばかりに踵を返していく女だ。当初を思い出せば未だに怒りが沸く。
けれど、なんだか今はそうではない。
“腕相撲大会”での出来事以降、河井がずっと持ち続けていた奏のイメージに、今隣に座っている彼女は重ならない。
「そうですか」
「あー、多分それだよ、それ」
クールを通り越してドライ。
冷徹無慈悲、身体の中にはオイルが流れているんじゃないかとまで一時期思っていた河井は、無表情に返してくる奏を見返し一つの確信をする。
「お前笑わねぇから。笑ったら普通に可愛いんじゃねぇの?」
そうしたらもっと人間的になるんじゃないかと。
(――って。……ん!?)
言いたかった河井が己の発言を省みて硬直するより先。
「……すみません、河井さん。貴方の顔はそこまで面白くないので」
「はぁ!? い、いや合ってる、合ってるけどなんかすげぇ釈然としねぇ」
やはり真顔で言い切られたので河井の中、沸きかけた羞恥は見事お空の彼方へと飛んでいった。
後に残るのは、妙な寂寥感である。
(にしてもなんだ、この釈然としねぇ気持ち……)
河井がむーんと唸りながら眺めてみれば、またメアリーの乳を搾りだす奏。
よほど普通の食事に飢えていたのだろう、いそいそと山羊乳をコップにためていく奏の様子に、河井は自然と柔らかな苦笑を漏らした。
淡々と返してくる奏は、もしかすると表現力が乏しいだけなのかもしれない。
こうして実際接してみるに、本当は少しばかり強いだけの、案外普通の女なのではないかと。
「にしても崖登りって……途中で感染者にでも襲われたらどうすんだ」
「問題ありません」
「まぁ無事なら良かっ――「とりあえず暗闇に特化した変異型だったようなので。先ほど楠さんのところまで頭部を持って行っておきました」
「……。」
河井は浮べていた笑みを凍らせた。
コイツを“女”などと称することは、世の女に対する冒涜である気がした。