その2・落ち着きを持つこと(※挿絵あり)
「流石だな、奏。仕事が速い」
「……。」
「そして私が見るに……君は現在、怒っているようだ」
「いえ特に」
飯島の目から見る田村 奏は、非常に優秀な部下だった。
10分もしないうちに戻ってきた彼女の額には、汗しずくひとつとして伝っておらず。ゴーグルにマスクにヘルメットと言った保護装備の下は、いつだって無機物のように涼やかだ。
只のゾンビ相手とはいえ、捕食者を前にしたその瞳が、みじんも揺れなくなったのは一体いつ頃からの事だったかと。
感慨のような満足感を抱く飯島はしかし、所長室の中央で今、どうにも形容しがたい気分に襲われていた。
「『只のゾンビ』に逃走を許す、この施設のセキュリティについて考察していただけです」
「いやそれは……普通に怒ってもらった方がありがたいのだが」
淡々とした言葉に返せば一ミクロン程度、奏が寄せた眉の意味は『不可解』。
それを長年の付き合いで知っていた飯島は、ついに長いため息を落とした。
全く、どうしてこうなってしまったのか。
脱力するも彼女に対しては、『言わねば伝わらない』が基本。
それを重々承知していた飯島はグッタリ落ちていた肩を持ち上げ、景気づけにその場でクルリと一転し、相手に指先をズビシッと突きつける。
「認めよう。奏、君は非常に優秀な人材だ。この研究所に来るまでの2年間、廃退した世界で生き抜いてきたという事実が君を強くしているのだろう、だがしかし! 君は人として大切な部分が欠落している、この前私があげた本をちゃんと読んでいるかね?」
「はい、あれは私の愛読書です」
「ならば理解できるだろう、私のこの、冷静に分析するくらいなら『何やってんだこのマヌケ!』くらい言ってほしいという気分が」
「それは分かりませんが『目が合いましたね~そこから始まるコミュニケーション~上下巻』には、人を指差すのはあまりよろしく無いと記述されていました」
百二十三ページ第四項です、と。
まるで憲法を読み上げるような調子で内容を語りだした奏へと、飯島の内心で盛大なため息が落ちた。
そう、言わねば伝わらない、そして言っても伝わらないのが彼女である。
「……人を指差す事については、時と場合による、と付け加えておいてくれたまえ」
「了解しました、飯島所長。……書き加えますので“時と場合”の詳細をお願いします」
コクリと頷き、真顔のままの奏が戦闘服の内から取り出したのは『目が合いましたね~そこから始まるコミュニケーション~上巻』。
愛読書というだけあって彼女はそれを常に携帯しているらしく、そこは与えた身として嬉しい飯島だが、しかし。
しかし、だ。
「…………。」
非難をこめて流してみた視線に、奏は何を感じたのか。
そそくさと取り出したばかりの本をまたしまい込むその所作は速やかなもので、やはり一切の無駄がない。
それはいつ何時といえども、きっちりカッチリ。
研究所に来て以来、恐らくもっとも長い時間を共有した自分にすら、砕けた調子を見せない奏に、飯島はちょっぴり寂しさのようなものを感じていた。
そもそも、所内の者達と仲良くしているところも見ないので、彼女の対応は誰に対しても同じなのだろうが。
でも自分にくらい、自分にくらい少しくらいフレンドリーに接してくれたっていいのに――なんて。
以前口にしてみた時、見事に無視された心の声を抑えながら、飯島は彼女と出会ってからの年月を回想する。
出会いは奏、17歳の冬。
そして彼女が“ターミネー○ー”というあだ名で呼ばれているということを知り、その意味に一瞬首を傾げつつも、やはり女性につけられるべきあだ名ではないのだという理解と共に心の交流教育を始めた、奏19歳の春。
そして今、彼女は24歳。
未だ未来の最凶兵器の名は払拭されておらず、己の教育方針に問題があったのだろうかと、飯島は軽く頭を抱えた。
「あとな、奏……前にも言ったが、私のことは“お父さん”と呼んでもいいのだぞ」
「いえ、貴方は私の父ではないので」
「今、君は全国の義父の心に会心の一撃を放った!」
今、この日本にどれだけの“お義父さん”が生き残っているのかは分からないが。
そんな飯島の心の呟きは、奏の思考と奇跡的に微量、一致したのだろう。
「そういえば……次の任務で際訪問させて頂く村は、どの程度の規模のものなのでしょうか」
「そうだな、前回の調査では30人前後だったか。お義父さんも1人2人生き残っているかもしれん」
指差し続けるのに飽きてきた腕を下ろしながら、飯島は数年前の“外”での調査結果を思い返した。
次の任務で奏が訪れるであろう村の人口はそう、確か30人前後。しかしそれはあくまでも数年前の数字であって、今となっては正直、何人残っているのかなんて分からない。
この研究所の外は、今でも廃退の一途を辿っている。
なので、それこそ村一つくらい滅んでいてもおかしくはないと。
「では元来の任務『サンプル用検体5本』に加え、お義父さんの集計をして参ります」
「ああ、そうだな。しかし出来ればお義父さんのみではなく、村人全体の集計を頼みたい。あと、『特殊型』の検体が必要らしい」
「了解しました」
飯島が頭の中で勝手に村を滅ぼしている間にも、言って一礼した奏は速やかにきびすを返し、扉へとその手をかけていた。
この調子からして恐らく、5分もしないうちに用意をすませ現地に赴いて行くのだろう。
(……それにしても)
テキパキしていると言うのか、淡白というのか。
ハッキリいうと“素っ気無さすぎる”奏の背中を見送る飯島は、『気をつけて』などという言葉を今回もかける事をしなかった。出来なかったと言ってもいい。以前それを口にしたとき、真顔で『何にでしょうか』と返されたからだ。
本当はそんな彼女の態度に、地味に傷ついたのだが。
本当はちょっと笑いながら、『はい、行ってきます』と言って欲しかったのだが。
なんたって彼女は、ずっとこの調子だ。
しかし結局のところ現場の事は現場の者にしか分からないし、奏が『気を付けずに失態をする』という愚行を犯すことも考え難い、と。落ち込みかけていた飯島は、尤もらしい理由で自分を慰める。
そう、ちょっとした事故が起きようとも、この研究所は間違いなく安全で平穏な空間。
白磁の施設から一歩をふみだせば、そこは死者が闊歩する過酷な灰色の現実なのだから……。
などと飯島が脳内で仰々しいナレーションを行う中、奏は特に何も考えていなかった。
彼女にとって“外”は通いなれた場所であり、一瞬たりとも緊張を解けない状況すらも日常に近い。
しかし、それは慢心だったのかもしれない。
けれど、油断などしていなかった。
後の奏は幾度もその日を振り返り、そのたびに確信する。
結局、自分が辿るべき結末は一つだったのだろうと。
つまりそれは避けようも無い災害――――俗に言う天災のような野郎だった。