その11・使えるものはなんでも使うこと
奏を捉えていた巨大感染者の腕の上に降り立った男は、足元のそれの感触を確かめるよう踏みにじって見せた。
「自分の身体の味はどうだった?」
問いに答える筈もない巨大ゾンビの腕が、男の足元からぐちゃりと半固体的な音を立ながら引かれていく。
そのうちの数本の腐った腕は重みに耐えられなかったのだろう。ぶちぶちと彼の足元でちぎれ、僅かな痙攣とともに動きを止めた。
「見たところ、あまり美味そうにも見えんが――」
どうやら彼の「お前は喰わせない」、という言葉は本気のものだったらしい。
そんな事実を半信半疑のまま確認する奏の方へと、再度伸ばされたゾンビの腕達を男は右手で打ち払う。
「――好き嫌いしている場合ではなかった、ということか」
何やら一人でブツブツ言っている後ろ姿と、それを威嚇するよう揺れる巨大な腕の集合体。
奏は二体の感染者からなんとか距離を取ろうと身を後退させるが、どうにも腑に落ちない部分があった。
否、腑に落ちない部分は山のようにあったがそのうち、同行者である感染者に関する事を省けば一つ。
(なんでこの巨大感染者――私ばっか狙うの?)
いくら同族とはいえ、食事を邪魔されればその矛先が変化してもおかしくないものを、あくまでも巨大感染者の狙いは奏らしい。
男もそれを察したのだろう。軽く足に力を込めたかと思えば跳躍し、自分の隣に戻って来た感染者を奏はジロリと睨みあげた。
「隣に立たないで」
「何を言う非常食。お前一人放っておけば、喰われる」
「・・・・・・・私一人だったら喰われない」
寧ろこんな状況にも陥ってねぇよ!!!
と、喉元まで上がってきていた言葉を飲み込み奏は、また男から距離を取る。
同時、躍り掛かってきた巨大感染者の腕。
一本一本は腐敗していることもあり大した脅威でもないが、数がそろわれると困るなと。
執拗に向けられるゾンビの腕を数本切り落としながらも、一定の距離を保つべく奏は身体を移動させたのだが。
「――っ!! ちょ、ほんとお前邪魔っ!!!」
地形的にはあり得ない何かに体をぶつけバランスを崩す。
それはやはりというかなんというか、まったく空気を読まない感染者の身体で。
「非常食……ようやく理解したか」
「って、またかよちょっとほんとやめて!?」
「そう、お前一人では喰われる。ありがたく、大人しく守られろ」
言うや否や、男はその左腕で奏の身体を抱え込んだ。
「だから私一人だったらこんなことになってないんだってえええええええええええええ」
奏の身体を襲う急な重力。
それに伴い長く伸びた彼女の言葉の語尾は、絶叫のように洞窟内を反響する。
あろうことか男は奏の身体を小脇に抱え、常人にはあり得ない跳躍をして見せたのだ。
なんだか懐かしいこの感覚。幼少時乗ったジェットコースターのようなこの感覚。
二人分の衝撃とともに巨大感染者の身体に降りたった男は、その足場を固めるため崩れかかった肉に己の足先を食い込ませた。
さらっと気持ちの悪い事をやってのける男の腕の中、逃れようと暴れていた奏はぴたりとその動きを止める。
「え……お前、左手はえてない?」
引きはがそうと掴んだ男の左腕は、先ほど奏が切断した為その手首より先が存在していないはずだった。
しかし今、彼女をしっかりと抱え込んだ左手はなんの欠落もない形で存在している。
即座に確かめた自身の右手には未だやはり、彼の左手首が残っており。奏がそんな超常現象に目を白黒させる間にも、男は奏を狙い伸ばされる巨大感染者の腕から逃れ続けていた。
「ふむ。そんなにも腹が減っているか」
「あれ、いや聞いて? そんな人の言葉離せない相手に語りかけてないで私の話聞いて? なんで左手生えてるの?」
「羨ましいか、これをそんなに喰いたいか」
「ちょっと見せびらかさないで落ちる落ちる落ちる!!!」
全くもって酷い扱いだ。
奏の首根っこを掴み、巨大ゾンビを挑発するかのように“餌”を抱え上げる男は毎度ながら話を聞かない。
「だが、やらん」
人語を理解しているのかすら怪しい相手にとても楽しそうな顔で告げる男は、怒りを通り越して呆れる奏の視線など微塵も気にしていなかった。
「ほんと何なのお前、こいつに見せびらかす為に私をこんなところまで連れてきたの?」
もうやだお家にかえりたい。
そんな副音声を持った奏の言葉に、男は久々の反応をさらりと返す。
「そうだ」
「そうか――って……え!?」
そしてその反応に奏は、雷に打たれたかのような衝撃を覚えた。
開いた口が塞がらない、とはこの事である。
なんとも悪趣味な事に男は、“非常食”を見せびらかす為だけに奏をこんなところまで引っ張ってきたらしい。
更に。
「……腹が減ったな」
ポツリと呟いたかと思えば。
男は伸ばされた巨大感染者の腕に、かぶりついた。
「っ!?」
「やはり不味い」
己の身体を食うほどにまで空腹を覚えた同族に対し、“餌”を見せつけている時点でどうかと思ったが。
(な、ないわー……)
文句を言いながらも腐った腕を咀嚼する男に、奏は軽く引いた。
そして巨大感染者も今度こそ、男を“敵”と認めたのだろう。
今までどこか遠慮がちだったゾンビの行動からは迷いが消え、全身を駆使し男の“食事”を妨害する。
また、男の方も当然捕まってやる気などないらしく巨大ゾンビの身体の上を器用に跳ね回り――担がれている奏は何度目かの吐き気の波に耐える羽目になった。
「!」
と。
度重なる衝撃に、ついに耐えかねたのだろう。
今までずっと奏の右腕にくっついていた同行者の左手が漸くにしてポロリと落下する。
はぎ取る機会のなかった奏にとってそれは非常にラッキーであり、嬉々として伸びてきた巨大ゾンビの腕が瞬時にそれを捉えさらっていく様をどこか清々しい気持ちで眺めた……のだが。
「おい……俺の左手を……食ったな?」
密着した部分から伝わってくる、同行者の身体の震え。
巨大ゾンビはこの男の琴線に触れる何かをした、と理解した奏の背筋を悪寒が走った。
「非常食……お前はここで待っていろ。俺は奴を決して許さん」
奏を地に降ろし言うが否や、巨大ゾンビへと飛びかかっていく男。
そして当然、今や巨大ゾンビの方も彼を敵とみなしており、人外が織りなす超現実的な戦闘にしばし目を奪われていた奏はふと、我に返り狼狽した。
それは『これからどうしよう』という、超現実的な問題である。
兎も角、感染者二体が同士討ちしている間は安全なのだろうが、どうにも気にかかる部分がある。
「許さん、決して許さん。不味いし喰いきれないだろうから少しばかり食べ残してやろうと思っていたが―――もう、一片たりとも残さん」
「……。」
そう、それは話せない相手に向かって一方的に何やらを主張している男の声。
奏の耳に入ってくるそれは思わず耳を傾けてしまうほどに、激しく一方的である。
「そうか。俺を……俺を喰うほどにまで空腹か。俺はそんな『気の毒な同族の姿を肴に食事しよう』と思っていただけだというのに……非常食を見せびらかしながらな!」
「・・・・・・・・・。」
そして、最低である。
今度こそ、ドン引きである。
(ってか“好き嫌いはない”って言ってたけど……)
まさか腐った同族まで食べるとは、悪食にも程があるのではないだろうかと。
眼前に降ってきた腐った腕の欠片に奏は顔を顰め――ふと、閃いた。
(・・・・・・・・。)
ちらり、と。
見やった先、感染者共は火花散らす戦闘を続けている。
何やら怒り狂っているらしい同行者は当然として、尋常でない形状の腕を振るう感染者の意識も完全に今、奏から外れていた。
その時間、およそ5秒。
己のナップサックから何よりも頑丈に作られているインキュベーターを取り出し、奏は目の前に転がっている巨大ゾンビの腕から検体を採取する。
そして。
(焦らず、少しずつ、少しずつ……)
生物の“食事時”というのは得てして無防備なものだ。
そしてこの機会を逃せばもう、己にチャンスは来ない。
理解していた奏は無音のまま、争いを繰り広げ続けている感染者達から徐々に距離を置き――
――今、逃走に成功した。