その10・足を止めないこと
咄嗟に反らした身体のバランスを整えた奏は、“それ”の歓喜の声を聞いた気がした。
もし今、攻撃をしかけられていなければ。
奏は今度こそ吐瀉してしまっていた事だろう。彼女を狙い乱雑に叩き付けられた“それ”の腕は地面に激突し、形をべちゃりと崩している。
(なに、これ)
洞窟の中に居たのは、到底理解し難い“巨大”だった。
恐らく、生物。
そして恐らく、を付けなければならない程に巨大なそれは、間違いなく、感染者であると奏は理解した。
何故なら自然界にこんな生物は、存在しないから。
(ってか感染者でもこんなの……見たことない……!!)
ただ、どうしてここまで醜悪な形に変化したのか。
到底分かるはずもない奏は今はただ、状況の把握に全力を努めた。
(しかもこれ……これが、この感染者――『ゾンビ』の、腕……?)
大小様々な大きさの腕が、絡まり合って一体化しているその形。
奏の視界に収まらないほどに巨大な“それ”の腕は、到底元人間のものとは思えない形状をしていた。 否、一応人の手の形はしているのだがそういう問題ではない。
ともかく、第一波はなんとかなったもののこのままではマズイ、と。
「放せ」
それから距離を取るべく奏は致命的な枷を一瞥した。
「……でかいな」
会話は成り立たなかった。
言葉のキャッチボールどころかドッジボールにすらなっていない。
闇に蠢く巨大な感染者を眺めているのだろう、呑気な感想をポツリと漏らす同行者である方の感染者はどこまでもマイペースである。
そう、彼女にとって彼は間違いなく枷だった。
「一体何のために私をこんなとこまで連れてきたのか知らないけど――」
あのあと俵担ぎからは解放されたものの、男によってしっかりと掴まれている奏の右腕。
命取りになりかねない現状を断ち切るため、彼女の左手は武器を抜いた。
「! ……おい」
巨大な『ゾンビ』を眉ひとつ動かすことなく眺めていた彼は、どうやら油断していたらしい。
「――死にたくないから」
鞭のようにしなるグロテスクなゾンビの腕が飛来すると同時、地を蹴る奏の右足。
左に飛んだ彼女に対し男は右へと飛んだらしく、ゾンビの腕は丁度二人の真ん中を割る。
切断したばかりの同行者の左手は未だ己の右腕にぶら下がっていたが、奏は気にすることもなく解放された利き腕で武器を抜いた。
「だから死なんと――ともかく俺の左手を返せ」
「……。」
やはり衝突と同時に形を崩す腕は相当に腐敗が進んでいるのだろう、飛び散る腐敗液に奏の思考は状況打破への展開を始める。
ある程度ひらかれた場所とはいえ洞窟内、巨大なゾンビに対し奏の逃げ場は少ない。
同行者がなにやら言っているが、当然無視である。
「おい、左手を返せと言っている」
「……。」
「おい、聞け。あとその武器はなんだ、おい、非常食、聞いているのか」
「・・・・・・・・・。」
しかし、どうにもうるさい汚泥だ。
会話などしている場合ではないというのに、こうも気を散らされると巨大感染者に集中できない。
「お前が私の手を離さないのが悪いんでしょ」
「答えになっていない」
「……この武器は何時まで経っても手を離さないクソ野郎の手首を切断するのに便利な武器――中華包丁」
痛みは感じていない様子だったが、彼は左手を切られたことを怒っているのだろうか。
だが奏としてはそんなこと、知ったこっちゃあない。手を離さない方が悪いのだ。
彼女が左手に構えた中華包丁は重量感があり、脳幹破壊には向かないものの何かを断ち切るに抜群の一品であった。
「包丁とは武器だったか……? ではその右手の武器は――」
「ちょっとお前ほんとうるさい――っと」
男がごちゃごちゃ言っている間にも。
当然巨大ゾンビの攻撃は続いており、鞭のようにしなる異形の腕はその巨躯に似合わないスピードを有して彼女を襲う。
が、奏にはかわせない事もない。問題は――。
「おい、」
「ああもう煩い、右手の武器!? これは刺身包丁! 感染者の脳幹を抉って行動不能にするのに便利な一品!!」
何故自分はこんな状況にも関わらず、律儀に同行者の質問に答えているのか。
情けなくなる奏だったがその答えは簡単、完全無視を貫くことによってこの男を怒らせては面倒だからだ。
流石にこの異常な感染者二匹対、奏一人などという状況になってしまえば瞬時デッドエンド間違いなしである。
(そもそも、問題といえば――)
この巨大な感染者をどう倒すか、と。
「――、ちょっ!!?」
思案する奏はバランスを崩した。
勢いよく引かれた右腕の感覚に、彼女は非常に覚えがある。
「何考えてんのほんと何考えてんの!?」
「ふむ、これが刺身包丁……」
いつのまに。
そんな隙を作った覚えなど欠片もなかった奏は今、同行者にまたしても右腕を取られ狼狽する。
彼女の抵抗は予想済みだったのだろう、密着した体をきっちホールドする男は興味深げに奏の武器を眺めていた。
奏はちょっぴり泣きたくなった。
そしてそれは、どこからどう見ても――
完璧な隙だ。
「! ――っぅ、ぐっ……!!」
ちょこまかと逃げ回っていた“餌”が動きを止めたのを、巨大ゾンビが見逃すはずもない。
風を切る音を聞いたかと思えば、洞窟の岩壁に叩き付けられる奏の身体。
勢いを殺しきれないゾンビの腕はその衝撃でまた腐敗した組織液を飛び散らせた。
(…っく、っそ……!!!)
常時の奏であれば。
顔面にまで散布したそれを気にも留めず、武器を振るい瞬時に相手の腕を切断していただろう。それが出来ないものはこの世界で生き残れないのだから。
だからこそ落ち着いて、冷静に、静かに、正確に――感情を殺していなければならなかったのに。
(あんの、クソ野郎……!!!)
同行者によって乱された心境。
任務の際は常に押し殺していたはずの人間性が今、彼女の顔を顰めさせた。
「っ、――!!」
その一秒足らずの間に、一体化していたゾンビの腕が分裂する。
大小様々な大きさの、形だけは人間の腕であるそれら。
その一本一本が意思を持ったかのように奏の身体に絡みつき更に、巨大ゾンビはもう一本の腕をも駆使し『死んでも逃がさん』とばかりの勢いで“餌”の動きを封じ込める。
(ああ、くそっ……私は……)
死ぬのだろうか、何故。
間違えたから、何処で。
動けない体を捩じれば思考ともいえない言葉が浮かんでは消え、ぎりぎりと圧迫される奏の胸部からは空気が抜けていく。ふわりと感じた浮遊感に、「ああ、今から食べられるのか」と、客観的に分析する自分がいた。この巨大感染者は相当に腹ペコのようだから、それも仕方がない。
でも出来る事ならば、と。
出来る事ならば、丸呑みにして欲しいと奏は微かな願いを思う。
丸呑みにされたなら、きっと――
「おい、そこの」
その時、衝撃が真上から降ってきた。
かと思えば臀部に走った衝撃。
鋭すぎる尾てい骨の痛みにう゛、っと尻に手をやりかけた彼女はふと、己の身体が解放されている事に気が付く。
「何を勝手に、人の非常食に手を出している」
びちびちと蠢くグロテスクな腕の塊を踏みつけ、仁王立ちになっているその後ろ姿。
ズキズキとした全身の痛みを堪えながら奏が見上げた先、男の背中からは何故か溢れんばかりの怒気が立ち上っていた。
え、何このタイミング。
え、ってかお前今まで何してたの?
え、ってか色々と遅くない?
え、ってか私が捕まった時お前一人で逃げたよね?
ともかく瞬時に様々な言葉が浮かんだ奏だったが、彼女には未だ肺が圧迫されたダメージが残っており中々口を開けない。
それでも、これだけはなんとしても言っておこうと。
「……おまえの……せいだろ……?」
奏の口から吐き出された言葉は、相手に届いたのか分からない。