その100・頼れる相棒を見つけること
「これからどうする」
鴉と腰を並べ、モノレールの振動に揺られていた奏は、ぽとりと落とされたそれに視線を上げた。
フードを被った彼の頬には、まだ一ヶ月前の傷が薄く残っている。
研究所での騒動から、約一ヶ月間。奏は超絶不機嫌な鴉に付き合い、魚やら熊やら木の実やらの採取に奮闘していのだが、それでもまだ、彼の身体は再生しきっていなかった。
恐ろしいものである。もう二度とあんな事態はごめんだと。
当初を脳裏に過ぎらせぎゅっと拳を握った奏は、心中で軽く頭を振る。じぶんは、もう選択をしたのだ。選ばなかった選択肢の事を考えるのは、不毛な上に見苦しすぎると。
瞼の裏に浮かんだそれを頭の中から叩き出し、首を傾けた鴉に意識を戻した奏は、軽く頷き、彼の酷く現実的な疑問に集中する事にする。
「……あんまりちゃんとは考えてないけど。その辺を転々としながら、生き残ってる人を見つけて。少人数で頑張ってる人達とかがいるなら、研究所を紹介しようかなと」
あの騒動により、研究所の職員はそれなりに減ってしまっているはずだった。
そして“外”には当然、ゾンビから生き残っている者もいるはずだと。
改めて己のふんわりとした計画を思う奏は、職員の補充は少なくとも、じぶんが成さねばならない事の一つであるように感じていた。
当然、誰彼構わず斡旋する気にはなれないが。せめてもの河井の助けになれば良いと思う。
「それが終われば、何処に帰る」
けれど。
横目に見下ろしてくる鴉が再度寄越してきた質問に、奏は眉根を寄せた。
こいつは一体、何を聞こうとしているのか。
そんな疑問を込めた眼差しに気付いたのだろう。まばたきをした鴉が、先のそれを具体的なものへと変える。
「“その他”のところに帰るのか」
「……。帰らない」
奏はじとっとその目を据わらせた。
こいつは、先程までの会話を聞いていなかったのか。
そんなどこか疲れた思いが彼女の中を過ぎるが、鴉が人の話を聞かないことは、まぁ毎度の事で。
「ならあの二匹のもとに帰るのか」
「帰らない」
「なら何処に帰る」
「……何。私にどっかに帰って欲しいの、あんた」
しかし。
執拗に重ねられる鴉の疑問の形に、奏は心の端っこで若干傷ついた。
恐らく彼に悪気は無いのだろうが、そこまで帰れ帰れ言わなくても良いじゃないかと思う。
けれど、眉を軽く上げその目を若干不機嫌に眇めた鴉には、鴉なりの理由があったようで。
「お前はいつも、何処かに帰っていただろう」
「…………。まぁね」
確かにその通りだった。奏はモゾモゾと無意味に腰を落ち着けなおす。そういえば、任務から帰るときには毎度、鴉との間に問題が生じていたことを思い出す。
一度目は、計画的にあっさりと見送られ。
二度目は研究所までついてきて、三度目はしぶしぶ帰って行ってくれた。
けれどこうして改めて確認されるということは、やはり三度目のあの時も、彼は納得なんてしていなかったのだなと。
それでも帰ってくれていた事に喜ぶべきかを悩んでいた奏の視界の端で、その時、鴉の眉がピクリと跳ね上がる。
「まぁね、だと? 俺は覚えている。お前はあのとき、“あそこが私の帰る場所だから”と言った。なので俺は“ならば俺の帰る場所もそこだ”、と言おうとした。しかし俺の決定を遮り、お前は“違う”と言った。“違う”と言った」
「今なんで二回言ったの」
「根に持っているからだ」
真顔に戻った鴉にキッパリと言いきられ、奏はその目をふよふよと泳がせた。
“あの時は状況が違った”、なんて言葉は彼に通じるだろうか。そして今は状況が違うのだと、彼は気付いているのだろうか。
是非とも気付いていて欲しかったが、“根に持っている”なんて馬鹿なことを言った上に“今度は何処に帰るつもりだ”と不快を露にしている鴉の様子からして、その答えは“否”である気がしてならず。
奏はゴクリと息を呑む。
ついに、もしかすると、地味に引き伸ばしていた時が来たのかも知れなかった。
今こそが、じぶんの気持ちを、きっちり伝えなければならない時である気がした。
それによりきっとこの感染者様は納得するだろうし、そもそもいつかちゃんと伝えようと思っていたことだし、と。
やってきたこの時に、尻込みしそうになる気持ちを奮い立たせ。
「……あのね、鴉」
「なんだ」
ぐっと気合を入れ視線を戻した奏は、フードの影から見下ろしてくる鴉の普段以上に悪い目つきに負けないよう、眉間と口の端にもがっつり力を込める。
「もう何処にも帰る場所、無いから!」
言ってやった、と思った。
ガッツポーズを作りたくなるような達成感に包まれる奏に、けれど。
鴉がこてんと首を傾ける。
「あるだろう」
「へ?」
「“その他”もあれも、お前のことを気に入っている」
「……。そりゃ確かに、追い返されはしないだろうけど……」
酷く他人事のような鴉の返しに、言葉を切った奏は眉をゆがめた。
こいつは、分かって言っているのだろうか。否、きっと何も分かっていないのだろう。
というか何で分からないんだと。
どっと来た疲労感に肩を落としたくなった奏は、しかし良く考えれば、じぶんの言い方も悪かったかもしれないと考え直すことにした。
こういう時は、恐らく前向きに考えなくてはならない。
きっと、遠まわしすぎたのだ。つまり、きっぱり言うのだ。そして、言わねば分からない。
そんな言葉を呪文のように頭の中でぐるぐると唱えながら、妙な息苦しさを感じる喉で、奏は静かに深呼吸をする。
「でも……ほら、あんたと一緒にいるのがほら、多分一番気楽だし?」
「…………。」
しかし、どうにも言葉が寄り道したがる。目を細めた鴉に、奏は奥歯を噛んだ。
きっぱり言うのだ。言わねば分からない。
「だから――っ、私が一緒にいたいのは、あんたなの!」
今度こそ言ってやった、と思った。
けれど何故かガッツポーズを作る気にはなれず、その拳を膝の上でぎゅっと握り締めた彼女は、これでも一応、一ヶ月間色々と考えていた。
あの二人について行くという選択肢は、やはり有り得ない。人の中で感染者は生きていけないからだ。やりきれなさを、繰り返す。それはきっと、楠にしか出来ない。
それを思えば所詮自分の中にあったのは、育てられた恩と情に過ぎなかったのだろうと奏は思う。
そして彼らの居ない研究所に戻る事は、河井には悪いが、奏にとっては苦行だった。感傷に浸りやすい場所にはいたくなかった。建物だけは、いつまでたっても変わらないからだ。
それでも鴉が言ったように、どちらの元にも、彼女は帰ろうと思えば帰れたことだろう。
ただそのどちらかを選ぶという事は、奏にとって、彼を捨てるという事だった。嫌だった。
御託ではないそれは、シンプルな感情だ。
「だから、その……ずっと一緒に、いてくれる?」
いつのまにか視線を落としていた奏は、その言葉が相手に届いたのかも分からなかった。
視界の端にある鴉の足は身じろぎ一つせず、只そのつま先だけが、モノレールの振動に合わせて揺れている。
となればもしや、言ったつもりでも言えていなかったのか。それより現実的に、声が小さすぎたと考えるべきか。
どちらにしろ中々に恥ずかしすぎる現状で――否、羞恥を覚えることすら正しいのか良く分からなくなってきた奏が、下げたままの視線をうろうろと彷徨わせる中。
「……やはりお前は、少しばかり頭が弱いらしい」
ゆったりと足を組みなおした鴉が落としたそれに、奏の顔は自然と上がった。
「今更だ」
呟くようにこぼした鴉は、奏の方を見ていなかった。
一体何処を見ているのか、フードの影で眉を潜めた視線は、誰も座っていない向かいの座席を睨み、その口をへの字に折り曲げている。
それは怒りにも似た表情だった。
しかしそんな一見“不快”にも似た鴉の表情の中に、奏は、ふっと別種のものを感じる。
「…………え。も、もしかしてあんた、照れてる?」
「てれる?」
「えーっと。こう、なんかムズムズしてその場から逃げ出したくなる感じ、かな」
瞬きと共に戻ってきた鴉の視線へと、奏は意味不明のジェスチャーを交えながら、若干早口に答える。
勘違いかもしれない。でももしそうなら、少し面白いし、嬉しい。
そんな疚しい気持ちがバレないよう、またその視線を逸らし口元に手を持っていこうとしていた奏は、その瞬間。息が止まるかと思った。
鴉は、いつだって唐突だ。そしてその唐突さに、彼女が慣れることなど無い。
伸びてきた鴉の手にがっしりと抱え込まれ引き寄せられた奏は、指先まで駆け抜けた衝撃に、中枢神経が焼ききれるのを感じた。
「お前に対し、俺が照れることは有り得ない」
「……!?」
「何故逃げなければならない。逃がす気もない」
眩暈がする。心臓が痛い。
それを意識すればしこたまぶつけた鼻先にも、遅れた痛みがやってくる。
じぶんの心臓が、ゆうに二人ぶんの鼓動を打っている気がして、またボフンと上がった熱に奏は溺れるかと思った。
「奏。お前の居場所は此処だ」
奏は目元が熱くなるのを感じた。
何故だかはわからない。きっと、それが求めていた言葉だったからだろうと思った。
ゆっくりと震える喉で息を吸い込めば、じぶんを包んでいる体温が酷く冷たいものだという事が分かり、奏は静かに目を閉じる。
間違っているか正しいかで言えば、きっと自分は間違っている。
それでもモノレールは規則的に身を揺らすだけで、車窓から差し込む光はじゅぶんに奏の身体を温める。
非常に最適な温度であるそれらの中で、かたい腕に包まれながら、彼女はこれからの事を考える。
当分の目的は、人を見つけること。
とは言ってもこの国は中々に広く、ある程度目星をつけなければならないだろう。
物資の多い都市部がやはり、拠点とされやすいだろうかとか。それとも山中の方が、建築物は作りやすいだろうかだとか。
それを言うなら文明は川の近くに栄えると言うし、大きめの川を辿って見るべきかとか。
流れを追うように可能性を脳裏で辿っていた奏は、辿り着いた青に、妙に惹かれた。
いっそ、海にまで出てみても良いかもしれない。食べ物も豊富だろうし、鴉は海を見た事があるだろうかと。
幾らでも浮かぶ行き先の中、するりと混ざりこんできたそれに、奏は苦笑した。モゾモゾと抱え込まれた頭を上げれば、当たり前のように鴉の視線が下りてくる。
「……なんだ」
「……手、繋いで良い?」
結局、それだけを聞いた奏に、鴉の右手が差し出される。帰る場所はもう、必要ないようだった。
徐々に速度を落としていくモノレールは山中の緑を抜け、やがて何処かの駅に到着するのだろう。