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ゾンビから生き残るための百のルール  作者:
第七章、継続編
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その99・競争すること

 










 真っ白な陽光を浮かせる空は、見事なまでの蒼穹だ。じりじりとした真昼間の陽光をやわらげるよう、少し強めの風が吹き抜けていく。

 それに含まれた僅かな砂利に目を眇めた河井は、新緑の木々が波のようにざわめいていく様を、手すりフェンスの上に肘をついて眺めていた。

 研究所、二階。

 そこには外側へ大きく張り出した部分がある。バルコニーと呼ぶには粗野すぎる、ついでに天井も無いその場所は、胸下位の高さの柵が張り巡らされているだけの、非常にシンプルな空間だ。

 それでも、じゅうぶん広々としたそこがわりかし気に入っていた河井は、落下防止用には頼りなさ過ぎるフェンスに肘をつきなおし、あくびと共に視線を下方へと落とす。草に夢中になっている畜産の家畜たちの、呑気な背中がひしめき合っている。

 もしゃもしゃと、昼食をおこなっているのだろう。

 これ以上無くのどかな風景であると細く長い息を吐き出した河井は、緩やかに重たい瞼を下ろした。

 山の匂いをたっぷり含んだ風が心地良い。

 当然、こんな場所で寝るつもりなど無いが、少しばかり息抜きをしたかった。


 研究所の中、全ての檻が開け放たれた、あの惨劇から一ヶ月。

 あの後から今にまでわたり、彼は大量の事後処理に追われていた。

 研究員の遺体の埋葬から、建物の破損箇所の修繕。そして飛び散った黒液のふき取り作業。

 その裏側で何を考えているのか、感染した人間をかくまう人間まで出てくるものだから、作業は一朝一夕で終わるものではなかった。

 そして、その作業のさなかに、奏の姿は無かった。

「後で手伝いに行く」なんて言っておきながら、彼女はあの地下で別れた以降、河井の前に姿を現さなかったのだ。


 河井の口から重過ぎる溜息が落ちる。

 姿を現さなかった、というなら彼の元上司二人にしてもそうだった。

 幾ら探しても死体すら見つからないという事は、恐らく生きているのだろう。

 河井はあの二人の真実を、他の所員には言っていない。

 おかげで場を取り仕切る者もおらず、「最高責任者が突如消えた!」なんて散々なことになってしまい、恐らく事後処理に異常に時間が掛かったのには、その辺りがかなり関係しているのだろうが。河井は真実を口にする気にはなれなかった。

 かわりに、ほんの僅かな後ろめたさと責任感と古株だからという理由で、なるべく場を取り仕切ることに勤めていたた河井は――今。

 想像以上の忙しさからこっそり抜け出し、マイナスイオンをその身に補給していた。


 こういうときは、研究所が山中にあって良かったと思う。

 緑は非常に目に優しい。加えて、夏毛に生え変わった山羊達の背がひしめき合う様は、見ているだけで時間を忘れる長閑のどかさに満ち満ち溢れている。

 けれど、こんな時間は長くは続かないのだろう。

 そんな感傷に既に浸りかけている河井の耳に、その時、思い切りの良すぎる勢いで扉が開かれる音が飛び込んでくる。


「河井さん! ちょ、河井さん河井さん! 探したんすよ、こんなとこで何してるんすか!!」

「……。」


 これである。

 それは当然、物事の発端がじぶんである自覚は河井にもある。けれど正直ここまで滅茶苦茶になるとは思っていなかった部分もあるわけで、研究所の再生には勿論全力で尽くさせて頂きたい所存ではあるが、それにしたって、ちょっとくらい休ませてくれたって良いんじゃないかと。

 内心肩を落としながらも顔を引き締め踵を返した河井の視界に、まず入ってきたのは、扉を開け放った卓郎の興奮した様子だった。

 そしてその影からひょっこりと姿を現した涼しげな表情が、見開かれた河井の目に写りこむ。


「お前……!」

「……。」


 離れる身体の反動を受けたフェンスが、鈍く軋む。


「――っ、生きてたのかよ!!」

「失礼な」


 むっと眉根を寄せた奏がふと思い出したように、卓郎に向かって会釈をした。

 そして、礼を言えばもう用は無いとでも言わんばかりに、その歩みを静かに進めてくる。


「河井さんこそ良く生きてましたね。まぁ生きてるだろうとは思ってましたけど」


 防護服のズボンにブーツ、そしてTシャツといった、武器すら身につけていない彼女の非常にラフな格好を、河井は穴が開かんばかりに見つめた。

 そりゃあ、此方だって生きているとは思っていた。

 だけれどそういう問題じゃあないんだと、反射的に言ってしまっていた第一声なんてすっぽり忘れ、河井は酸欠の金魚のようにその口をぱくつかせる。


「お前何してたんだ今まで、お前……!!」

「何をしていたかと言われると、色々と忙しかったんですけど。魚獲りとか」

「魚!?」

「……まぁ、気にしないで下さい」


 場違いに能天気な言葉に軽く声を裏返らせた河井は、横目を流しながら自分を通り過ぎて行った奏の姿を慌てて追う。

 その際、視界の端で親指を立てた卓郎がすすすっと去っていったが。今はそれどころではない。

 フェンスの際まで来た奏がその上腕を手すりに預け、一息をつくようにした様子に、河井はハッと重大な確認事項を思い出した。


「お前……一人か?」

「一人ですよ。今は」


 彼女と同様にその腕を手すりに引っ掛けながら、河井は僅かな緊張と共に問いかける。


「……あの二人は?」

「逃げましたよ。……何処かに」

「一緒じゃねぇのか?」


 奏は無言で頷いた。

 視線を下げた彼女は、家畜の背中でも眺めているのだろうか。

 あの惨劇に巻き込まれ、畜産の家畜は数体死んだ。そして数体は研究所から脱走し、また数体はまだ此処で、呑気に草を食べている。

 その中にちゃんとメアリーもいるのだという事を、奏に伝えるべきか否か。

 彼女と共通の知人である山羊のことを脳裏に浮べた河井は、けれど今はそれを口にしない事にした。


「……正直、一緒に行ったのかと」


 河井がぼそり、と落としたそれは素直な疑問だった。

 あれから一ヶ月間、彼も何も考えていなかったわけではない。

 奏は、飯島に拾われ、育てられてきた。そこにはきっと、情という一言では表せない感情あっただろう。

 ともなれば、河井の中ではありえない選択肢も、彼女の中にはじゅうぶんに現実的なものとして存在していた筈で。

 けれど奏は山羊の背中を見下ろしたまま、やはりその首を横に振る。


「やりきれないんです」


 正面から風を受けた奏の前髪が、顎のラインで涼しげに毛先を揺らしている。


「悩みましたよ。離れる理由は無いし、まだ一緒にいたかった。でも……一緒に行きたいかと言われると、違ったんです」

「……。」

「あの二人と一緒に行っても、また同じことが繰り返される……そんなのは、やりきれない」


 繰り返される。

 確かに、それはそうかもしれなかった。

 飯島には人と関わる積極性がある。研究所はもう無理でも、あの感染者が村だとか集団的なものをまた作るという事は、じゅうぶんに有り得そうなことだった。

 河井は眉を寄せた。人の中に感染者が混ざる事は、やはりどう考えても有り得ない。

 けれど静かに視線を上げた奏の中には、それとはまた別の理由があるのだろう。


「それに嘘も苦手ですしね」

「……嘘?」

「人に嘘をつかれるのも、自分が嘘をつくのも、苦手なんですよ」

「ああ……まぁお前は確かに、顔と態度に出るよな」

「だから人の中で嘘をつきながら生きていくのはちょっと、厳しいかなと。上手くやっていける自信も無いです」


 無表情に、まるで人事のように言ってのける奏の横顔から、河井はそっと視線を逸らした。

 確かに彼女は無表情ではあるものの、正直だ。機械のように愚直で、けれど機械ではない。

 馬鹿ですか、と。あの時じぶんの上に乗りあがった奏が、刃を抜きながらも泣きそうな声で零したそれを、河井は鮮烈に覚えている。

 育ての親と常識の間で、彼女も悩みぬいたのだろう。

 そして前者を放棄した。

 今となってはそれを全く感じさせない、どこかスッキリとした奏の横顔へと、河井はちらりと視線を戻す。


「じゃあ――」

「今回ここに来たのは……ちょっと、お休みを頂こうと思いまして」



 これからは此処で暮らすのか、と聞こうとした矢先に。

 奏にきっぱりと結論を落とされ、河井は口を半開きにしたまま固まった。


「研究所は、正しい形になりました」

「……。」

「色々考えて、気づいたんです。私にはもう、何もない」


 手すりからゆったりと上体を起こした奏が、軽く伸びをするよう、その背筋を伸ばす。


「研究所に戻る理由も、あの二人を探す理由も……。もしかしたらあるのかもしれないけど、自分の中ではもう、全部清算されちゃってるみたいなんです」


 くるりとその身体を反転させ。

 手すりに軽く背を預け、晴天の空を振り仰いだ奏は、眩しそうに目を細めていた。

 真昼の陽光は、直視するものじゃない。目に痛すぎる白を浮かべる空は、秋のそれのように高い。当然、手を伸ばしても何処にも届くはずがない。

 そんな当たり前を自覚させられる青色の中を、強めに吹き抜けた風に黒髪が舞う。

 乱れる髪を耳の上で押さえつけた奏は吸い込まれそうな青空を眺めているようで、逆光気味の無表情な横顔は何一つ変わっていないのに、河井は何故か彼女が遠く感じた。

 こうして肩を並べられても、彼女と向き合える事は無いのだろう。どこか遠くを眺めている彼女に、そう今更に実感させられる。

 それでも、河井は手を伸ばすには足りない距離を一歩詰めた。ゆるやかに戻ってきた彼女の視線に、堪えていた息を吐くよう、喉を震わせる。


「……ここで暮らせばいいじゃねぇか」

「……河井さん」

「行くなよ」


 軋む喉から出された声は、微かに掠れていた。

 どうして行ってしまうのか。

 理由が無いというのなら、じぶんが望めば彼女はそれを叶えてくれるのか。

 無様な慕情だった。視線を落とした奏に、河井も行き場の無い視線を逸らす。

 やっぱり言うんじゃなかった、と。手すりの方に向き直った河井は、奏の眼差しがまた上げられた事に気付かない。


「……河井さんのこと、好きですよ」

「っは!?」

「嫌いじゃないです」

「え?」


 河井が慌てて向き直った先。

 その瞠目の中で、奏はとても変な顔をしていた。

 怒っているのか、泣いているのか。良く分からない形に歪んだ眉の下で、言葉を悩ますよう薄く噛まれていた唇が、やがて口角を上げる。


「楽しかったです……一緒にいると。感謝もしてます、腹も立ちますけどね」


 彼女のそれは、向けられても全く嬉しくない、作られ慣れていない、変な笑顔だった。

 また少し眉間のしわを濃くさせて目を逸らした奏に、数秒静止していた河井の口が、やがてその隙間からぽとりと言葉を落とす。


「……俺もお前のこと、好きだよ」

「……長生きしてください」


 軽く勢いをつけるようにして身を起こした奏が、そのまま真っ直ぐに歩き出す。

 これで最後なのだと思った。

 目の前でひるがえっていく黒髪を見送った河井は、瞬間、その一歩を踏み出した。


「っ!」


 捉えた腕の感触。

 強く引き寄せれば丸くなっていた奏の瞳が、更に大きく見開かれる。この目が好きだと思った。

 無表情の中に時たま宿る感情に、いつだって彼は気持ちをくすぐられる。

 初めはただ気に触る奴だと思った。到底仲良くなんぞなれないと思った。けれどいつしかその腕を掴み、抱き潰してやりたいと思うようになっていた。


「“その他”……お前はまた性懲りも無く。まだ俺の非常食を諦めていなかったのか」


 しかし。


「……。」

「……。」


 その時河井は肩を、背後からギシリと掴まれた。

 ちなみに、此処は二階だ。

 ついでに言うなら、フェンスの向こうにはついさっきまで何もいなかった筈だ。

 しかしそこに“それ”がいるのは、気まずそうに逸れていった奏の視線からみても明らかで。

 その首をギギギッと背後へ回した河井は、ナップサックを持ちフードを目深に被った不審者が、影になった金の下で目を眇める様を見た。


「気持ちは分からんでもない、これより美味そうな人間はいないからな。しかしこれは俺のだ」

「……お前の基準で話すんじゃねぇよ。ってかお前なにそれ、もしかして荷物持ちさせられ」

「今食おうとしていただろう」


 河井は絶句した。

 さらりと奏のナップサックを担いでいる鴉に対する地味な嫌味を、見事なまでに遮られたからだけではない。

 大いなる誤解だった。

 しかし何故かそれを反射的に公言できなかった河井は、生まれてしまった奇妙な無言の間に居た堪れなくなる。

 繰り返すが、誤解である。別にじぶんは何かをしようとして、彼女に手を伸ばしたわけではないのだと。

 誰にも聞こえない言い訳をぐるぐると頭の中で巡らせていた河井はふと、奏の腕を掴みっぱなしだった己の手に、そっと乗せられた手のひらに気がついた。

 振り返ってみればそこでは、己の腕を掴む手に手を重ねた奏が、けれど何とも絶妙にその目を泳がせている。


「えー……まぁ、こんな感じなので。研究所の安全の為にも、私は此処に居ない方が良いかと」

「お前……それは違うだろ」

「違うかもしれませんけど……もう」


 先の言葉は聞けなかった。


「行くぞ非常食」

「え? ひ、ちょちょっと待っ――!!」


 彼女の手の感触が、するりと消失する。

 進み出てきた鴉に瞬く間に俵担ぎにされた奏の指先が、河井のそれをすり抜ける。

 まさしく電光石火の如く速さだった。

 ひるがえっていったフードの端は視線でしか追えず、さらりとフェンスを飛び越えた後姿と、これから己を襲うであろう衝撃に引き攣った奏の表情が――河井の目の前から、消えた。












「奏!」


 まだ心臓をバクバクさせながら。

 モノレール乗り場のライン際で一息をついていた奏は、飛んできたそれに弾かれたように振り返った。

 二階から全力疾走してきたのだろう。肩口で汗を拭っている河井は、武器を取ってくる間すら惜しんだようで。

 動かない改札を煩わしげに通り抜け、大きく肩で息をしながらも距離を詰めてくる相手の姿に、奏は僅かにその目を細めた。全てを伝えきれたとは思っていなかったが、まさか此処まで追ってくるとは思わなかったからだ。

 鴉が、小さく舌打ちを落としている。

 それをきっちり睨み返しながら上がりきった息を整えている河井はきっと、結末に納得していないのだろうと思った。


 確かに。

 鴉がいる限り、奏は河井の元にも飯島の元にも行けない。しかしそれは彼女が、彼と一緒にいたいと望むからだ。

 けれど、河井の中の問題は、恐らくそれだけではないのだろう。

 もし、鴉のみが問題だと思っているのなら。その上で、自分らを追いかけてきたというのなら、彼は銃を携帯しているはずだからだ。


「……。」

「……。」


 もう話せる程度には呼吸も整っている筈なのに、どうにも視線を合わせようとしない河井を、奏は改めてじっと見つめる。

 眉間にくっきりとしわを寄せているくせに、その裏で情けなく下げられている眉尻に、奏は直感的に思う。

 もしかすると彼は、後味の悪さを感じているのかもしれない。じぶんが住処を奪ってしまった、なんて考えているのかもしれない。

 思いついてみればそれは、じゅうぶんに有り得そうなことだった。


「……河井さん、勝負しましょうか」


 だからこそ奏は、それを口にした。

 瞬きと共に戻された河井の視線が、虚をつかれたかのように丸くなる。


「は?」

「勝負ですよ。ルールは簡単です」


 その面持ちに僅かな緊張を走らせた河井に、腕を組み首を傾けた奏は、わざと口角を持ち上げた。


「長く生き残れた方が、勝ち」


 敵を知ること。

 落ち着きを持つこと。弱点を正確に突くこと。

 生き残るための方法なんて、奏は幾らでも知っていた。

 外で生きていくと決めたからといって、それを忘れるつもりなどない。ころりと死ぬつもりもない。

 口を半開きにした河井に心配されるほど、やわには出来ていないのであると。


「言っておきますけど。私、負ける気ありませんよ」


 きっぱり断言した奏は、耳を付いたそれに軽く横目を流した。

 揺れる木々のざわめきの合間から、微かにモノレールの駆動音が届いてくる。


「研究所の立て直しも一から。古株ってだけで周りから指示仰がれて……出て来た問題解決しようと椅子の上で慣れない頭脳労働やってる間に、あなたの身体中の筋肉は脂肪へ変わる事でしょう」

「おい待てお前。なにその予言」

「河井さんも、もう三十路手前なんですから……ああ、でも感染者は脂肪と筋肉のバランスにうるさいので。案外平気かもしれませんね」

「……!!」


 静かに視線を戻した奏は、眉をわななかせ絶句した河井に非常に満足した。

 これだから彼は好ましい。馬鹿正直なところも、それを偽らない率直な表情も。

 しかしそれにしたって、ピシリと一瞬表情を凍らせた彼は分かりやす過ぎるんじゃあないかと。

 けれどそこは男性、女より脂肪のつきにくい体質をしているのだから、頑張って欲しいところだと。

 小さく奏の鼻からもれた息は、けれど構内に滑り込んできたモノレールの車輪が軋む音によってかき消される。

 吹き込んできた風に、柔らかな河井の毛がふわりとなびく。

 奏は、視界にひるがえった己の髪を軽く抑えた。

 甲高いブレーキ音が耳につき、数秒の無音の後、僅かに車体を揺らしたモノレールの扉がガタリと開く。


「……そこまで言うなら、やってやろうじゃねぇか」

「精々頑張ってください」


 眉を吊り上げたままの河井が零した言葉に。

 じとっとまだ河井を睨んでいた鴉を促し、さっさとモノレールに乗り込んだ奏は、踵をくるりと返して鼻を鳴らした。

 そして、目の前の扉が閉まる瞬間、それを見た。

 泣くんじゃないかと思った。大の男の表情が、奏にそんな心配をさせるほどに、歪んだ。

 けれどそれは一瞬で、閉じきった扉のガラス向こうにはもう、その名残と言えるものは何一つ無い。


「――――。」


 何かを紡ごうとしたのか。

 開かれた彼の唇が、結局何も形作らないままに閉じられる。

 奏は、何かを言うべきかを迷った。

 けれどそれより先に、河井がくしゃりと破顔した。

 それなりの付き合いをしてきたつもりだったが、彼の子供のようなそれを見るのは初めてで、奏はその目を瞠目させる。そして情けなくハの字に折れ曲がってしまいそうになる眉に、力を込める。

 きっと、彼とじぶんは似ている。

 皮肉じゃない笑みを零されると、まいってしまう。

 だからこそ、少々悪戯じみた気持ちで、奏はその口元をほころばせた。すると負けじと相手も口角を持ち上げて来るので、奏は思わずふき出した。

 きっと彼は長生きするだろうと思う。

 そう思える。

 負けず嫌いも意地っ張りも筋金入りで、お互い、流れ出した風景に追いすがるような事はしなかった。


 車窓が、緑に染まり始める。走り出したモノレールの中、奏は扉に背を向け、規則正しく刻まれ始めた振動に身を預けた。

 車体の無機質な冷たさは、真昼の陽光を受けていた頭に心地良い。ゆっくりと瞼を下ろした奏は、しばらくの間そうして、遠ざかっていく風景を眺め続けていた。






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