その98・扉はしっかり閉めること
重く鈍い衝撃に、奏は弾かれたようにその顔を上げた。
天井だ。上で何かが暴れている。
一階の生活用品倉庫は少々建付けが悪いようで、橙色の豆電球の明かりの中、ぱらぱらと天井から落ちてきた埃が羽虫のように舞っていた。
「……検体、まだ暴れてくれてるみたいですね」
「……。」
幸いぐらついた棚がそのまま倒れてくる、なんて最悪の事態は免れたらしく、天井から視線を戻した奏はふっとその肩から力を抜く。
けれど隣で屈み込んでいる楠は、どうにも静かで。
ちらと目を向けてみた先、その顎を軽く上げ未だ天井を見つめている横顔に、数秒悩んだ奏の唇は結局、非常に無難な言葉を選んだ。
「……急いで戻りましょう。ここまで来て逃げ遅れるなんて事になったら――」
「自業自得な気もするけどね。……でもまさか、あそこまで殴り合われるとは思わなかった」
小さく零した楠の言葉に、奏は別々の部屋に押し込んできたばかりの二人の感染者の様子を思い出す。
確かにあれはお互いにやりすぎだった。
けれど今回の二人の感染者の殴り合いについての非は、自分にもかなりあると自覚していた彼女は、楠へと正直に謝った。
「……すみません。“見つけたら引き留めといてくれ”って言ってしまったんです」
「ん、鴉君に?」
「はい。何が起こっているのか分からない状況だったので。……警報が鳴っていたのでただ事ではないとは思ったんですけど、お二人が河井さんに見つかっているのかとか。そうでないのなら会わないよう、何処かに隠れて置いて貰おうとか……」
「……ああ。奏ちゃん、鴉君と一緒に戻って来たんだ」
そう言えばその辺りを伝える機会もなかったなと。
否、その辺りを伝える機会などあってはならないのだと、奏は倉庫から選別した荷物を手早くまとめる。
「はい……でもそれだけ、って問題でも無かった気がします。不注意でした。大前提として、あの二人を会わせるべきじゃなかった」
「混ぜるな危険、ってとこかな? ……あいつも“最期だ”って分かってたから、あそこまでやったのかもしれないけどね」
ため息のように落とされた楠の言葉に、荷物にかけた結び目を強く十字に引き絞っていた奏は、握り込まれた己の指先に視線を流す。
飯島の黒液でべったりと汚れてしまっていた手袋は、もう既に綺麗に拭われてあった。
それでも残滓のようにこびりつく何かが、まだ奏の指先を震わせる。
あのとき飯島は何故だ、と言った。
鴉との間に入った奏に対し、ただその言葉を繰り返したのだ。
「何故だ……っ、何故……?」
食いしばられた歯の隙間から細く漏れる、軋んだ声。
だというのに伏せられた飯島の顔には、何の色も浮かんでいなかった。
排除したいのであろう存在の前に立ち塞がった奏をその目に映し、握り込んだ拳から黒液を滴らせ、ただ疑問符を繰り返す。
どうすれば良いか分からない、と全身で言われているかのようで、そんな彼に何故と聞きたいのは、奏の方だった。けれど、彼女は答えを知っていた。
彼が“娘”を大切にしてくれていることは、自分でもじゅうぶんに分かっていた。
「……。」
なので奏は、己の防護服のポーチに手を伸ばした。そこから取り出したのは、幅広のテープだ。
その輪の部分を指先に軽く引っかけ、壊れ物を扱うかのように、奏はおろされたばかりの飯島の手を持ち上げる。
こしこしと、防護服の裾で未だ滴り続ける黒液を拭い。
折り返されたテープの先を数センチ伸ばした奏は、まだ開いたままの飯島の傷口に、それをぐるぐると巻きつけた。
どこぞに吹っ飛んでしまったらしい指の付け根や、骨を覗かせる裂けた肉の上。何をどうしたらこんなことになるんだ、と言いたくなるような傷口の数々。
それら全てに、奏は防水テープを巻いていく。
妙に懐かしかった。
ありとあらゆる液体を浸透させないそのテープは主に、彼女と飯島の鍛錬の日々の中で、大活躍していたものだったからだ。
肉弾戦ならまだしも、刃を振るえば当然、たまにはうっかり傷をつけてしまうこともある。「強くなった」と嬉しそうに笑う飯島の傷口に、「すみません」と言いながら防水テープを張る。そんな日々だ。
懐かしかった。
眉根を寄せ、唇を噛んだ奏は、その手を黙々と動かす。見る見るうちに、テープの残量が少なくなっていく。
このご時世物資は貴重なものだったが、奏は残り少なくなったテープを、全て使い切るつもりだった。
飯島の腕に幾重にも巻かれ、段々と薄っぺらくなっていくテープの束の擦れるような音以外、何も聞こえなかった。
「……娘は、貴様に預けてやる」
そうしてやがて、低くボソリとしたそれが落とされたのは、奏が使い切ったテープの端を小さく縛った時のことだった。
顔を上げた先、飯島は彼女を見ておらず。その逸らされた顔の先を追えば、慌てて立ち上がった様子の楠がいた。
「ただし! 交際を認めたわけでは無いからな!!」
それは捨て台詞だったのだろう。
面食らって対応に遅れてしまった奏の指の間を、飯島の手のひらがすり抜けていく。
たった今までそこにあった筈の感触の消失は、羽根がすり抜けるかのような、あっけない程に滑らかなものだった。
「その格好で逃げる気ですか」
けれど速やかに開いた距離を詰めた奏は、白衣の裾をがっしりと掴み直した。
研究所を抜け切れたとしても、人に会うたび一瞬で揉める。
そんな有様を引き留めた奏の上げた視線の先で、しかし振り返った顔は、今まで彼女が見た事も無い程に歪んでいた。
不快だったのかもしれない。言う事を聞かない娘など、もういらないという事なのかもしれない。
そんな悲観的な想像が見事なまでに脳裏を過ったが、それでも奏は改めて飯島の腕を掴み直し、先程見てきた上階の様子を思い出す。
大体の雑魚は一掃されていた。けれど残された大物と、感染疑惑の掛けあいによって、場の混乱はまだ収まりそうにもなかった。
ならば、今ならばまだ、あと少しだけ時間を望んでも良いんじゃないかと。
「ちょっと此処で待っていてください」
一人頷き飯島の腕を強く引いた奏は、そのまま適当に近くにあった部屋の扉を開き、中に彼を押し込んだ。
もの言いたげな様子と目を合わせないまま振り向けば、足先を悩ませるようにしている楠が佇んでいたので、もう一人の上司の方も、奏は同様に部屋の中へと押し込んだ。
そうして速やかに二人を隠せば、この場に残る問題は一人。
「鴉。ちょっとお願いがあるんだけど」
ちらと人影へと横目をやった奏は、ひっと息を呑んだ。
乱入した時点で大変な事になっているとは思っていたが、改めて視界に入れた鴉は、飯島に負けず劣らずホラーな有様と化している。
額の何処かが割れているのか、墨色に染まった金髪からだらだらと滴る黒液が、頬の横を通り顎のラインを流れていく。
それがまた、ぽたりと落ち。鎖骨を流れていく辺りまで見送っていた奏はハッと我に返り、そう言えば無言である鴉と目を合わせ、また一つ息を呑む。
怒っている。
何がどうかと言われれば返答に困るが、鴉の目は確実に怒っていた。
そんな様子になんだかデジャブを感じた奏は、数秒後、またもやハッとそれに思い当り慌てて口を動かした。
「いや、その。まず……引き留めてくれてて、ありがとう」
救出され、研究所に戻ったものの。鳴り響く警報に慌てた自分が言い捨てるようにして飛ばしていたそれを、もしかすると彼は聞き遂げていてくれたのかもしれない。
ならば結果がいくら微妙だろうと、確かに飯島らは引き留められていたのだから、礼は言っておかねばならないと。
非常に腑に落ちない部分がありながらも“言った責任”という意味で礼を言った奏は、ずいと詰め寄って来た鴉に後退りし、後頭部を壁にぶつけた。
「聞こえん」
「あ、ありがとうって言ってんの。寄るな、待て、マテ!!」
ステイ! くらい言ってしまいそうになっていた奏は、瞬いた鴉の目から気まずく視線を逸らした。
言い過ぎたかもしれない。
しかし鴉は全く気にしていない様子で真っ直ぐな視線を送ってくるので、奏は気を取り直すよう、軽い咳払いを落とす。
「その……ちょっと、私の部屋で待ってて欲しいの」
「何故だ」
「私の部屋だったら、鍵が掛かるから。私以外は入れない」
「俺だけが入れるということか」
「……まぁ、そういうこと」
「そういう事なら、入っておいてやらんでもない」
飯島と同様に、散々な有様の鴉を連れては歩けない。
なので誰も入れない部屋に押し込んでおく、というのはこれ以上なく合理的な策に思えたのだが。
鴉がホイホイ……否、素直に承諾してくれた辺りからしても完璧であるはずのそれに、ちょっぴり何かが引っ掛かり。
だが今はそれどころでは無いのだと奏が壁から背を離せば、すぐ近くでドアノブの回る音がした。
「……あー。なんか、手伝って来いって言われたから」
後ろ手にドアを閉めた楠が、小さな頷きを向けてくる。
助っ人は非常に有難いことだったが、タイミングを見計らったかのように出てきた楠と、奏は目が合わせられなかった。
そうして、今に至る。
必要最低限の荷物をかき集めたものの、その間中、楠はどうにも静かだった。
彼――否、彼女は鴉と飯島の衝突を“仕方ない事”のように言っていたが、本当は怒っているのではないだろうか。
一抹の気まずさが奏の中を過る。
彼女の中には鴉に対し、純粋な感謝を感じてしまう部分があったからだ。
確かに、鴉さえいなければ飯島は無傷で逃走しきる事が出来ていた。けれど鴉によって二人が引き止められていたおかげで、彼女は今、飯島と楠に最後まで付き合うことが出来ている。
身勝手な考えなのかも知れなかった。鴉のそれがうつったのかも知れない。
それでも彼らと最後までいたかった奏としては、どんな形にしろ、今それが叶えられていることが嬉しい。
「……行きましょうか、楠さん」
「……。」
「……あの、楠さん」
「……。」
「楠さん?」
けれど、どうにも楠の様子がおかしい。
奏が少々ぼんやりしている間、楠も同様にぼんやりしていたようで、膝の上で頬杖をついている横顔はまだ、その意識をどこかに飛ばしているらしかった。
真っ先に疑われたのは感染。
しかし、それは奏の中で即座に否定される。飯島が、楠に感染を許すはずがないからである。
「……ん。ああ、ごめんね」
「楠さん……大丈夫ですか?」
「……終わるのか。って思ってね」
やがて返された声に目を瞬かせた奏は、己の悲観的想像が完全なる想像でしか無かった事を悟った。
ぐしゃりとその長い前髪を掻き、口元に微かな笑みを浮べている楠は、怒っているのではない。
「研究」
乱れた前髪の隙間から覗いた瞳は、何処までも静かだった。
その上で、それでも行く当てを求めるよう。ゆっくりと流され始めた楠の視線に、奏の動悸が締め付けられる。
「これまで研究しかしてこなかったから。これからどうするんだろうね?」
こてんと首を傾けた研究者の中には、人間の行動の動機たり得る感情が、存在していなかった。
これから先、もう研究を続けることは出来ない。
楠にとって研究所を捨てるという事は、当然ながらそういう事だ。
「……結局、完成したんですか?」
「抗体なら」
「それは……黒液の? ワクチンですか?」
「あはは、他に何があるの? ……そうだ。机の上に説明書と一緒に置いといたから。あとで回収しといて。……服用薬だから。効果が出るまで時間かかる上に、約五時間度に効果は切れる。それも検体二十体分のデータだからね、実用可能なのかって判断は……君達に任せる」
思い出したようにぽつぽつと語る楠に、奏は改めてそれを実感する。
この研究者は、もう戻らない。いつだって電気がついていた地下研究室は、からっぽになる。
淡々とした指示に後のことは頼んだといわれた気がして、奏は首を振りたくなった。
引継ぎの言葉なんて欲しくなかった。受け取れない。
けれどそれは堪えられ、代わりのように奏の口から出たのは、最後だからこそ聞ける疑問だった。
「あの男も、それの検体にしたんですか?」
「あの男って、君が連れ帰ってきてくれた男? それだったら……うん。丁度怪我してたからね、新しいデータが取れた」
「……自分の研究には、使わなかったんですか?」
不意に楠からの視線が合わされ。
ほんの少し丸くなったその瞳に、奏の方が驚かされる。
「“感染者を元に戻す方法”が、どうとか。前に楠さん、“研究しがいがある”……とか。言っていませんでした?」
「君……案外余計なことを覚えてるね?」
まさか記憶違いかとも思ったが、どうやらそうではなかったらしい。
以前、一度だけ耳にしていたそれを確認した奏に、楠の口がへの字に曲がる。
「出来なかったよ」
「……。」
「……君たちも予防薬なんかよりそっちの方が有難かったよね?」
「……予防薬で十分だと思いますが」
感染者を、元に戻す方法。
確かにそんな万能薬のような方法があるなら、それに越したことはないのかもしれないが、奏としては抗体が生み出されただけでじゅうぶんだった。
五時間ぶっ通しで感染者と戦闘し続ける事など無いからだ。その前にこちらの体力が尽きる。
けれど。
楠の方は抗体の存在など、どうでも良いようだった。
黒液に感染しなくなる薬なんかよりずっと、研究しがいのある課題だから――と。軽く笑ってみせたあの時の彼女の表情が、奏の視線を膝の上へと落とさせる。
「楠さんは……なんで、予防薬の研究を優先させたんですか?」
「基礎は完成してたから。あと黒液のワクチンは僕が完成させなければならなかったから」
僕が、と強調してみせた楠に。
廃墟で見た写真をふと脳裏によぎらせた奏は、計り知れないながらにも、いつだって自分の好き勝手していた楠が結局、抗体の研究を選んだ理由をおぼろげに理解した。
それで良かったのか、なんて言葉は絶対に言ってはいけないのだろう。
言ったところで研究者は、瞳を隠して笑うからだ。
「……楠さんは、もし。もしも、感染者を元に戻す方法を見つけれたとしたら」
「ん?」
「誰を、元に戻したかったんですか?」
膝の上でつくった拳に、僅かに力を込め。
視線をそらしたまま問いかけた奏の耳に、鼻から抜けるような息の音が届く。
「奏ちゃん、分かってて聞いてる?」
「……はい」
「今の話、絶対あいつにはしないでね。……かっこわるいから」
控えめに上げた視線の先、いつものように笑っていた楠に、奏の眉尻が下がる。
「ずっと研究しかしてこなかった。それも、もう終わり。結局なにも作れなかった」
「楠さん……」
「僕だけ、なんで残ってるんだろう?」
内緒話をするかのように落とされた疑問符に、奏は答えを返せなかった。
言葉が出てこなかった。自分の望むものを残せなかった研究者に、自分の人生を形作っていたものを失った人間に、何を言えば良いというのか。分かるはずもなかったからだ。
戦うことしかしてこなかった奏は、それ以外の事を上手く出来ない。
研究しかしてこなかった楠もそうなのだろう。
それをなくせば、他には何もない。
「――っ!」
だからこそ奏は腕を伸ばし、楠の肩を掴んだ。
勢いあまって尻餅をつき、微かな声をあげた楠が向けてきた透明な眼差しを、否定しなければならなかった。
けれど、生きていかなければならないからだ。
「失礼しました。でも、しっかりしてください。……あなたが残されている理由は、ちゃんとある」
掴んだ楠の肩は細かった。奏のそれとは違う。
果たして外で生きていけるのか疑問に思ってしまうような肩を、奏は強く握り締める。
「あなたを必要としている存在がいるじゃないですか。あなたを代えのきかない一人として認めた上で、必要としている存在が」
「……。」
「あなたに価値が無いのなら、もうとっくに放り出している筈です。あれはそういう生き物だって、一番良く知っているのは楠さんじゃないですか。それに――」
小さく息をついた奏は、ぐっと唇をかみ締める。
こんなことを言っても無駄だと分かっていた。価値は自分が決めるものだ。
例えそれが自己満足だろうと、じぶんで納得できないものに価値は無い。
それでも奏は、どうしても分かって欲しいことがあった。
「あなたの作ったものが、ちゃんとあるんです。あなたが育てたものに私は救われた。救われたんです……そして、育てられた」
柔らかく瞼を伏せた奏は、くっきりとそれを思い出すことが出来る。
一番大切なものを失ったときのこと。すっかり無くなってしまったと思っていた、生への執着を思い出させられた時のこと。
閉じこもっていた部屋の扉を破壊された時のこと、好き勝手無理難題ばかりを押し付けられたこと、やけに楽しげな笑い声と、地獄のような特訓の日々のこと。
「確かにあなたの研究は完成しなかったかもしれないですけど……これじゃ、駄目ですか?」
そして、今ここにいること。
それを思えば少なくとも奏は、幸せだった。
飯島に拾われて良かったと思う。たいした事は返せなかったけど、この場にいられることを、誇らしく思う。
伏せていた視線を押し上げた奏は、目の前にある楠の瞳を真っ直ぐに見つめた。
それでも楠は何も残ってないというのか。なにも生み出せなかったというのか。
そんな悲しい事は言われたく無かった。積み重なった時間は、奏にとって大切だった。
いつか、流されていくものだとしても。
誰も寄り付かない地下研究室では心底楽しそうに飯島が笑っていて、その後ろには煩わしげに片眉を吊り上げながらも笑っている楠がいて、眉を寄せながらもそれを眺め続けているじぶんが居たことを。
頼むからそんな時間を否定しないで欲しいのだと。
圧し掛かる沈黙に頭を垂れかけていた奏は――その時、ぽんと。
「……あはははは、ごめんごめん」
弾かれたように顔を上げれば、更にぽんぽんと。
伸ばされた楠の手にまるで太鼓のようにヘルメット頭を叩かれ、奏はその目を白黒とさせた。
「……は? ちょ、な……!?」
「君はこれから、どうするの?」
「え、私は……」
手を止めた楠にいつものカラカラとした笑顔で問いかけられ、奏の言葉が詰まる。
その様子をまた数秒眺めていた楠は、やがて声のない笑みを零した。
きっと全てを分かっていて聞いたのだろう。非常に楠らしい、意地の悪い質問だった。
そうして「よっこらしょ」と小さな掛け声とともに腰を上げた相手に、ぼけっとしかけていた奏は慌てて続く。
これから、どうするのか。
立ち上がったという事は、楠はその答えを決めたのだろう。
安堵と同時に寂寥感を覚える奏の中でも、もう既にその答えは決まってしまっていた。
だからこそ隣で持ち上げられた荷物に奏は、己の中の選択を改めてぎゅっと握りなおす。
「頑張ってね」
「はい」
「応援してる」
「……。はい」
「……あと、ありがとう」
柔らかく微笑んだ楠に、奏は小さな頷きとぎこちない笑みを返した。じぶんの上司らはいつだって、決めたことに対しては一直線だ。その点に関しては、見習いたい。
だから楠から礼を言われるのもきっと、これで最後なのだろうと思った。
飯島を押し込んでおいた部屋に楠なりの全力疾走で戻った奏は、二人に続き裏口まで到着した。
そして足を止めた。
奏、と。
「娘は預ける」だとか何だとか、鴉に言っていたくせに。名前を呼んでくる飯島の奇妙に歪んだ表情を見ていると、じぶんの顔を見ているかのようで、奏は己の眉が震えるのを感じる。
言葉が詰まりすぎた喉に、痛みを感じるのも同じなのだろうか。
否、感染者は痛みを感じないのだと。今の飯島を見ていると嘘っぱちとしか思えないそれを頭の中に浮べながら、奏は静かに首を横に振った。
「……まだ、任務が残っているので。私は、残りの人の救出に向かいます」
だから此処で失礼します。
さようなら。
幾つかの言葉が浮かぶが結局、奏はそれらを口にしなかった。
余計なことは言わない方が良いのだろう。痛みを感じて欲しくなかった。
開きたがる唇を噛んだ奏は小さく会釈をし、その踵を返す。
「――っ、奏!」
けれどその足はあっさりと引きとめられた。
腕を掴まれ奏が振り向けば、僅かに開かれた飯島の口は、なにも言葉を発しないままに、閉じられる。
「……気をつけて」
それでも結局、ひとつの言葉を選択した飯島に、奏は溢れかけた何かを飲み込んだ。
彼女はその言葉を昔、言われた覚えがあった。
当初は具体的な意味が分からず、「何にでしょうか」と返した覚えがある。
感染者に、なのか。人に、なのか。そんなとんちんかんな事を考えた覚えがある。
でも今ならば、真っ直ぐな眼差しを向けてくる相手が、どんな言葉を望んでいるのかが分かる気がして。
「行ってきます」
それを吐き出した奏は今度こそ全てを振り切るよう、駆けだした。
飯島の手の感触が滑り落ちる。奏の頭の中に疑問が溢れる。
何処へ行くのか。何処へ帰るのか。
途端にぼろぼろと涙が零れ落ちていく。鼻水が出てくる。手袋を外しそれらを拭えば、頬がひりつくように熱かった。
まだ、一緒にいたかった。けれど、一緒には行けない。
待たせている存在があり、そして、初めから分かっていたことだった。
人の中で、感染者は生きていけない。
“いつか”が来ただけだ。ならば彼らは別に殺されたわけでもないのだから、望んだ展開に納得するべきなのだろう。
耳を澄ませば裏口の戸が開かれる音が聞こえた気がして、奏は無理矢理に息を吐く。
“自分の目で見送れただけ、良かったのだ。これ以上のことは無い”
定型文のような言葉が、頭に浮かんだ。
恐らく正解なのであろうそれを繰り返そうとして、けれどそんなものは一瞬で灰になった。
もう会えない。
錆びた切っ先のようなノイズが、思考を掻き乱す。
裂けた隙間からこぼれ落ち、無視しきれないほど大きく膨らんでいくそれが自分の嗚咽なのだと気づいても、奏はそれを吐き出し続けた。
・ ・ ・
促すように裏口の戸が開かれても、飯島は遠ざかっていく娘の後姿を見つめ続けていた。
そして、角を折れた人影の名残が何一つ無くなった廊下の直線に、ぽとりと言葉を落とす。
「いつもそうだ。人は勝手に、いつも……」
「……そうだね」
色の無い声に、感情を見つけることは叶わない。
「でも、一緒にいるよ。……最後まで」
戸口から差す光が、白い廊下の影を縁取る。
もたれていた扉から身体を起こした楠は、振り返った飯島に、軽く笑って肩を竦めた。