その97・立つ鳥跡を濁さないこと
「捨てるのか」
ぽとりと落ちた音に飯島が急ブレーキをかける。
その肩に担がれたまま上体を捻り振り返った楠は、進行方向にある灰色の影を見た。
白をくり抜いたかのような空間の中心、全ての喧騒を隔絶するかのように佇んでいる、それ。
二段飛ばしに下って来た階段の先、一階に到着した矢先に、それは姿を現した。
「俺の非常食はお前を探しに行った」
影はまた、ぽとりと言葉を落とした。
目深にフードを被っている灰色の頭が傾き、その隙間から金が零れる。
「だというのに何故、お前は此処にいる?」
鴉。
そう名付けられた感染者の視線は、どこかぼんやりとしていた。
だがその無機質な瞳は真っ直ぐに飯島を見据えており、肩の上に担がれたままの楠は、己を抱える白衣の裾を諌めるように握りしめた。
いつの間にか、全ての音が遠くなっている。
距離感を狂わされるような居心地の悪さの中、やがてゆったりと進み始めたのは飯島の足だ。
「……敬語も使えん、挨拶すら出来ん小僧に応える義理は無いな」
「お久しぶりです、とでも言って欲しいのか」
「“お久しぶりですお父様”だ! いや違う、貴様なんぞ知らん! 桜、塩だ。塩を用意しろ!」
「…………そんなの持ってないよ?」
軽い横目を送れば、あからさまに息を呑まれ。
態々一旦足を止めてまで飯島が向けてきたそれに、楠は泥のようなため息を吐く。
「ってか君、なんで当然のように塩が常備されてると思ってんの……?」
「私には“緊急の備えくらいしておけ”だとか言っておきながら……」
「……塩には汚れた場を清める効果があるとされている。しかしそれは簡単に言えば迷信、即ち気休めであり、緊急の何かというわけでは無い。断じて、無い」
実のところ、楠は体調が悪かった。
頭がぐらぐらする上に、意識が半分飛びかけているような浮遊感がある。
乗り物酔いだ。
なので飯島にはぜひ、下らない道草などせず出来れば自分を肩からおろしてさっさと一人で逃げて欲しかったのだが。
「うむ? そうなのか?」
「……塩でいなくなるのはナメクジくらいだよ」
「馬鹿め」
「……君が言える立場でもない気がするけどね?」
さらりと挑発の口を挟んできた鴉の様子からして、一筋縄ではいかなさそうだと。
とりあえず疲れてきた体勢を戻し、鴉のいない風景へと視線を流した楠は、進行方向で勃発しかけている何かから目だけは逸らした。
感染者とは、じぶんが納得するまで引かない生き物である。
「それで、何処へ行く気だ。お前を探しに行った俺の非常食を置いて」
白塗りの床に靴音が落ちる。
「何処へ行く気だ?」
向けられた疑問に一秒ほどの間もおかず、飯島がまたその足を進め始める。
先程までの雑さはなんだったのか、と言いたくなるような穏やかな歩みに炙られ、楠の心拍がじりじりと上昇していく。
「……小僧。貴様には関係のない事だ。そこを退け」
「やはり捨てるのか」
音も無く、飯島の足が止まる。
すぐそこにある鴉の存在を、楠は目で見ているかのように感じた。
じわりと。肌に浮かび上がるのは冷や汗か脂汗か。
伝い落ちるそれが冷やされていく不快感に、鳥肌を立てる楠の背を、雨音のような声が打ち続ける。
「不愉快だ……しかし、丁度良い」
鴉の声は淡泊だった。
本当にそう思っているのか、と聞きたくなる程に軽い声が、息をするように紡がれる。
「始めからあれは、お前のものじゃない」
張り上げられている訳でもなく、囁かれているわけでもないそれに対し、足を止めている癖に反応を返さない飯島に、楠の中で嫌な予感が湧き上がった。
否、予感ではない。
「……そっくりそのまま返そう」
確信だ。
「何?」
「丁度鬱憤が溜まっていたところなのだ、小僧。貴様だけは今ここで、排除させてもらう」
いやにハキハキと言い放った飯島が、踵を返した。
その際の遠心力でぐるんと脳を揺らされた楠は、やはりこうなったかと眉を寄せるも、今の感染者達に対し口を開くことなど出来ない。
無駄だからだ。
挙句の果てに数歩戻った先でひょいと肩から降ろされてしまえば、楠にはもう、背を向けた飯島を引き留めるすべなど無く。
「貴様なんぞに娘はやらん……否。貴様だけには、絶対にやらん!!」
それでも伸ばした指先から、白衣の裾がすり抜ける。
強く踏み込んだ飯島に、楠は反射的に目を瞑るが、瞬きの間に景色は変化していた。
睫毛を震わせる細かい塵と、つんと鼻孔を刺した焼けた靴底の臭い。
鴉の脳天へと。その存在を踏みつぶさんとするかのように落とされた飯島の踵が、床との間でノイズのような音を滑らせる。
「お前がそれを言うか」
鴉の身体は、後方へと逸らされていた。それがバネの様に戻って来たかと思えば気が抜ける程場違いな軽さでフードが落ち、零れた金髪がふっと高さを変える。
低く。
刈り取るような足払いを、飯島は読んでいたのだろう。しかし距離を取るべく地を蹴ったその足元へと、間髪入れず踏み込まれる鴉の一歩。
詰まる、距離。
それが再度広がったのは一瞬だった。
飛び込んできた鴉の腕を掴んだ飯島が、その腕を引き千切らんばかりの勢いで相手の身体を壁に叩き付けたからだ。
一体、どれだけの力を込めたのか。
激突の際の軋むような破裂音にしろ、それ以前に鴉の肩は確実に脱臼している。否、問題は脱臼なんて軽いものでは無いのか。
内臓破裂と複雑骨折、まぁ軽く背骨も折れているだろうなんて想像していた楠は、しかし、ゆっくりと壁から身体を起こした鴉に、意図せず感嘆の息を漏らすことになる。
「……。」
具合を確認するよう、おもむろに掲げられた鴉の腕。
垂直に衝撃を受けたのであろうそれは、捩じれた肉塊と化していた。内側から突き出た骨によって生まれた裂傷から、我先にと黒液が滴り落ちていく。
賢明な判断だった。壁に腕をつき、先程の衝撃をほぼ全てその一本に負わせたのだろう。背骨が損傷した際の実害と比べれば、その損害は感染者にとって些細なものである。
しかし、それにしたって容赦が無さすぎるんじゃあないかと。
楠が視線の向きを変えた先、手首を鳴らしている飯島は、壊した鴉の腕を前にホクホクと満面の笑みを浮かべていた。
ご満悦、とでもいうのか。
飯島の中の構築欲に付随する破壊行為への拒否感は、どうやら同族である感染者には適応されないらしく。
片や笑顔、片や無表情に見合う両者の視線は、等しく無機質だった。
そうして、次に地を蹴ったのはどちらだったのか。
長引く激突に両者の身体が軋むたび、飛び散る黒液がぽたぽたと、ぱたぱたと、研究所の白壁を染めていく。
肋骨、大腿骨、指骨。感染者らの間に言葉は無く、その破損個所はもう、楠の目には追いきれなくなっていた。
一体、いつまで続くのか。いつ、終わるのか。
逃走の時間なんて問題では無く、目の前の光景に戦慄を感じ始めていた楠は、少々時間間隔が狂っていた。
一瞬の重なりに、神経が削られる中。
けれど、彼女の周囲だけは、そこから完全に隔離されていた。
それに気がついた瞬間、喉を震わせたのはなんだったのか。
「……っ」
壁も床も感染者らの身体も、それらは黒くまだら模様を作っているというのに、一人の人間の周囲だけは、残酷なまでに真っ白だった。
きっかり、半径二メートル。
楠は、苦渋を噛んだ。
馬鹿である。意味を求めたくなるような事をしないで欲しい。何故そんな部分にだけ几帳面で細かくて気がまわるのか、と。
しかし奥歯を噛んだ口では声を漏らす事が出来ず、ついでに上げられた顔は少しばかり遅く、見開かれた視界の中、楠の唇が音にならない言葉を紡ぐ。
待て、と。
発音されなかった声をかき消すような、それ。
腕を掴み倒された飯島の関節が外れる音を、楠は確かに聞いた気がした。
振り上げられた鴉の足が、コマ送りのように落とされていく。
「!」
だが。
何故かそれは、途中で静止した。
足を止め、弾かれたように顔を上げた鴉が、その目を僅かに丸くしている。
泥遊びをした直後のようなそれは、楠の頭の更に向こう側へと向けられており、不思議とあどけなさを感じさせる鴉の瞳が、柔らかく瞬いた。
「――っ!!」
それは刹那と呼んでもいい、奇妙に静止した時間だった。
けれど地に引き倒されていた感染者にとって、それは充分過ぎる間だったらしく。
瞬間跳ね起きた飯島に首を掴まれた鴉の身体が、投げ捨てられるようにして壁へと叩きつけられた。
「――っ、飯島所長!!」
階段を何段飛ばしたのか。
飛び降りたそれの着地音に顔を向けるより先、楠の傍らを弾丸のような影が駆けていく。
声を裏返していたそれは、壁を背にした鴉と飯島との間に割って入った。
そして、飯島に向けて刃を抜いた。
「……奏、どきなさい」
「嫌です」
「どきなさい」
「嫌です」
二者の距離は近かった。
顔を上げ真っ直ぐな視線を送っているのであろう奏に、軽く腕を上げた飯島が、ピタリとその動きを止める。
不意に。思い当ったかのように彼が顔を傾けた先、そこにあった彼自身の手には、指が二本足りていなかった。
そうでなくともドロドロの指先は全て明後日の方を向いており、彷徨わされた黒液に濡れた掌はやがて、無理矢理に握り込まれ、力を失ったかのようにぱたりと落ちる。
「……どけと言っているだろう! っ、何故――!!」
「それは」
凛と佇む奏の声は、震えていた。
それでも相手を黙らせる力を持っている。
「それは、所長としての命令ですか? それとも……」
ぐっと息を呑むような間があった。
喘ぐように吸い込まれた息が、言葉を落とす唇を振るわせる。
「……親としての、願いですか?」
飯島は答えなかった。
感染者は、正直だ。命令であれば権利もあるというのに、とっさの嘘をつくことが出来ない。
もうどこから流出しているのかも分からない飯島の黒液が、身体の脇に垂らされた腕を伝い、その潰れた指先から床へと滴り落ちていく。
ぽたり、ぽたりと。
白い床に、黒い水たまりが広がっていく。
規則的に鼓膜を打つその音を、目と耳で感じていた楠は、緩慢に首を傾けた飯島と視線が合った。
それは、逡巡の一瞬だったのだろう。答えを乞いていたのかもしれない。
それでも決めるのは当人たちであると、楠はただその瞼を伏せて促した。