その96・潔く決断すること
人の身体に入り込み、全ての体液を食い尽くした黒液は、人の持つ全ての体液に差分なく成り代わる事が出来る。
そうでなければ、そもそも人体を動かすことなどできない。
一例を挙げれば、取り込んだ食べ物を栄養素として分解する為、黒液はその身を消化液に転じさせる事ができる。
とくればもしや、ヘモグロビンの持つ赤色を生み出すことも可能なのではないのかと。
十年以上前、楠が趣味で行っていた実験の結果は、 “まぁやらないよりはマシ”程度の成果といえば成果に終わっていた。
だが、それ以前に。
感染者が完全に人に擬態する事は、初めから不可能であると楠は感じていた。
文献や聞きかじりで知識を仕入れようと、彼らには肉親もなければ兄弟も無ければ子供時代も無い。味覚だって、人とは違う。
どうあがいたって決定的な違和感は残るのだ。
けれどそんな危ういものと手を結んででも、楠は研究を続けていたかった。
しかし、そんな綱渡りのような状況がいつまでも続くわけがない。
一方で、飯島はこんな状況にでもならない限り、研究所を手放さなかっただろう。
終わらせ方を考えない、危機を呼ぶ不穏にすら疎い生き物は、非常に傲慢である。
人に紛れる事が出来ると本気で思っていたのか、それともただ“何とかなる”位にしか考えていなかったのか。
何となく後者であるような気がする楠は今――上階にある所長室に向け、走らされていた。
「なんだお前はナメクジか!? 寧ろお前は今、走って……いるのか?」
「せめてカタツムリって……っ、言って……欲しいんだけど……?」
「普段から身体を動かさないからこんな事になるのだ」
「運動、してたよ? 毎日、実験室まで……」
「成程。お前は確かにカタツムリだ」
短く舌打ちをした飯島に「寧ろお前が速すぎるんだ」と言ってやりたくなる楠だったが、今は無駄に酸素を使っている余裕はない。
さっさと逃げればいいものを、飯島はエネルギーを補給したいらしく、理不尽なまでに楠は連れ回されていた。
「ってか……君ね。緊急の備えくらい、しときなよ……」
「その発想は無かった」
「……感染者って、なんて言うか、アレだよね」
流石は食物連鎖の頂点に立つ生き物、という事なのか。
その危機感の無さは正に王者の怠慢であると、へろへろな楠が零した余りにもか細い皮肉は、警報や銃声や悲鳴やらによって掻き消され誰の耳にも届かない。
意味をなさない声を上げながら室内に立て籠もろうとしたり、明らかに研究所自体からの逃走を企てている者達は、そもそも飯島の白衣の汚れが目に入っていない様だった。
河井による多少の足止めを食らったのが、結果的には良かったのだろう。
こんな状況でもまともな思考回路を有せる者――すなわち対感染者要員達は検体の鎮静に揃って乗り出しているらしく、大袈裟なまでに狼狽え、無意味な喧嘩を始める事しか出来ない非戦闘員達の無力さを、楠はその前髪の隙間から何処か遠いものを見るかのように眺めていた。
「私とて、いつか来るとは思っていたとも。しかし今だとは--」
「そう? 僕はそろそろだと、思ってたけどね」
「ならば何故言わなかった」
「ちょうど良かったから。今が」
さしかかった階段を二段飛ばしに駆け上がっていた飯島の足が止まり、ジトッとした視線が肩越しに流される。楠は荒い息に上下する肩を、無理矢理に軽く竦めて見せた。
混乱した所内の有様は、いつだったかの惨劇を彷彿とさせる。
しかしあの時とは決定的に違い“終わり”がある事は、初めから分かっていた事だった。
「……つまり、待て楠。お前わざとか!? 不穏に気づいておきながらわざと言わなかったと!?」
「うん。だって君、教えたら絶対とめるし」
「とめるに決まっているだろう! お前は、お前は一体何を考えているのだ!?」
見事なまでに目を三角に釣り上げた飯島に、楠は酸欠気味で悪くなった目つきの上で眉を寄せる。
そこに他意はなかったのだが。
十年かけて築き上げた研究所への執着は中々に膨大なものらしく、ついでに睨み返されたと感じたらしい所長様が目を細める様に、楠はとりあえず登りきった壇上で一息をつき、改めて簡潔に理由を告げた。
「今は奏ちゃんがいる。そして事の発端は河井君だ。……だから、丁度いいんだよ」
だが目を眇めた飯島には、結論だけでは伝わらなかったらしい。
詳細を促して来る視線にそれを察した楠は、一旦相手から目を逸らし足を進めつつ、結局かいつまむのも面倒なので初めから説明をする事にした。
先を行く飯島が既に速度を諦めているらしい事は、既に体力が尽きかけている自室愛好家にとっては非常に幸いな事で、ついでに幸い、階段に対し垂直に伸びる廊下に人気は無いようだった。
「まず。いつ起こるかわかんない事にずっと気を回してるのって、効率悪いよね。気を回すなんて面倒な期間は、可能な限り絞り込みたい。……となると注目すべきは奏ちゃんを除く、最も研究所での勤務が長い人物だ」
「……お前が職歴の長い者を自分の研究室に呼ぶ理由は、それか」
飯島も一応、研究の事以外に時間を割いている自分に対し違和感は覚えていたようだ、と。
僅かな苦笑を零した楠は、物一つ置いていない空間に目を細めながら、ひとつ頷く。
「この研究所に、最も長く身を置いている人物……その中にどれだけの違和感がうまれているのか。何処まで真相に近づいているのか。その辺りを見る相手として、河井君は最適だった」
「適性があるのか?」
「あるね。河井は職歴が長いだけじゃなくて、人脈も広い。性格も単純、ほっといても勝手に雑談し始めるとくれば、これ以上なく好条件だ。まぁ彼の場合……ほんとに報告書かくのが下手だったから、ってのもあるけど」
苦笑を浮かべた楠の脳裏に過るのは、作文にしか見えない河井の報告書を初めて目にした際の衝撃だ。
あれには呆然や怒りを通り越し、戦慄を覚えたものだと。
今となっては良い思い出であるような気もしなくもない回想に逸れかけていた楠の意識は、けれど追ってきた飯島の疑問符にすぐさま元の位置へと戻される。
「お前はいつから警戒していた?」
「ある意味、初めからだよ。彼、凄く人のこと良く見てるんだよね。でも特に奏ちゃんや君と接触し始めてからは、気を付けるようにはしてた。君と奏ちゃんの関係、傍から見たら明らかに変だし」
「どこが変なのだ?」
「人様の子を無理やり娘にしてる時点で明らかにおかしいけど、とりあえずそれは置いといて。――まぁバレるなら河井君くらい単純な子にバレた方が、何かと動きやすいと思って。だからほっといたんだよ」
そうこうしているうち、到着した所長室。
自分にとっては驚異的な速さでの到着だと一種の感動を覚えた楠は、部屋の中心にあるソファへと一直線に向かう。飯島がエネルギー補給を行っている間に一息をつき、あわよくば一眠りをするためだ。
なにせ追っ手の接近に気をかける必要は、今のところ無い。強烈な異臭を放つ薬品でも嗅いだ直後で無い限り、感染者の嗅覚は非常に優秀なのである、と。
警戒を飯島に任せ、どっしりソファに腰を下ろしついでにゴロリと寝転がった楠は、馬鹿丁寧に整頓された本棚ぼんやりと眺める。
「……そしたら結局、想定外の部分からバレたみたいだけど。まぁ、どうせいつかはバレることだったしね」
「しかし、 やはりそれはつまり……お前が河井君の挙動不審を報告していたら、もう少しこの研究所はもったと言う話なのではないのか?」
「もう少しもたせたからって何も変わらないよ。ズルズル引き伸ばした挙句こっそり作戦練られて取り囲まれてハチの巣にされるより、いま単純な子にバレた方がトンズラをかましやすい」
けれど。
眠ろうにも結局疾走後の動悸と暑さに眠れず、パタパタと己に風を送り始めていた楠は、どうにも根本的に何かを飯島が理解していないらしい事にふと気が付き背後を仰いだ。
「……ってか僕がしてるのは研究所の存続を長引かせる方法の話じゃなくて、いかに安全に逃亡できるかっていう清算の話なんだけど。分かってる?」
「確かに、いつまでも続くとは思っていなかったが……河井君は見事に直球だったが……」
「……うん、まぁ、その。だから言ってるよね、いつかバレることになるなら今、そんな河井君にバレるのがいいって。ついでに足止め役に奏ちゃんが居ればもっといいって」
「しかし……」
「奏ちゃんが心配? でもやっぱりこの二条件がそろってる今が、べストなんだよ。戦闘能力がどれだけ高くても河井君には奏ちゃんを殺せないだろうし、そもそも彼は人を殺せる人間じゃないしね?」
「お前は撃たれかけていたが」
だがしかし肩を落としゴソゴソと戸棚を漁っていた飯島から突如鋭い突っ込みを飛ばされ、楠の口がピタリと止まる。
どうにも未練がましい接続詞を口にする割に、飯島はまともに現実を記憶しているらしく、楠は感染者のメンタルなんぞを気にしてしまった自分自身に重い息を落とした。
「あー、そうだね。あれは良く分からなかったよね」
「確か写真がどうだのと言っていたな。――確かにお前たちは非常に良く似ている」
「……。」
加えて。
取り出したパン片手に、どうにも余計なところにだけ突っ込みを入れてくる飯島に、楠の機嫌は急降下した。
石のように固くなっているのであろうパンの咀嚼音が、ぽとりと無言を落とした室内にばりぼりと響く。
「……とりあえず。つまりお前は、私の奏を壁にしようと考えたわけか」
「平たく言えば、そういう事。ほんと、奏ちゃんが味方してくれて良かったよ」
「ふっ、当然だろう!」
奇妙な間を埋めるよう。
また流れ出した会話は不自然なほどに滑らかで。
先の話題を頭から追い出し、珍しい事に空気を読んだ飯島に乗ることにした楠は、けれど堂々と胸を張っている感染者の姿に一拍おいて首を傾ける。
「……君の普段の行いを見ると、正直微妙なところだと思うけどね?」
奏が味方に付いたのは、楠にとって全くもって“当然”ではなかった。
過剰なスキンシップやら、寝室への侵入やら、みっちりと組まれた奏専用単独任務のスケジュールやら。
それらを回想すれば飯島は寧ろ、じゅうぶんに奏に背後から刺されうる可能性を有しているよう楠には思える。
しかし、何がどう転んだか彼に拾われた彼女は、非常に“良い子”に育っており。
「……あの子、あの下らないハウツー本が愛読書なんだってね」
「何が下らないものか」
「普通いらないよ、あんなの」
食べ終わるやいなや次のパンを口に放り込み、お次は速やかに黒液の付着した白衣を着替えだした飯島に、楠は遠い目のままヒラヒラと手を振って見せた。
そう。
--『目が合いましたね~そこから始まるコミュニケーション~』上下巻。
二十歳を超えた女子の手にあってはならない本である気がするそれを、けれど奏は大切に懐にしまい込んでいる。
一体、それは何故なのか。もしかすると奏はあれでも、この飯島を義父と認めているのかと。
到底理解できない部分を改めて反芻していた楠が、ふと視線を上げた先。
「“普通いらないもの”を、あの時お前は私に渡したのか」
着替えを終えた飯島が、腕を組み、思い切り眉間にしわを刻みながら吐き捨てた。
恐らく、何かしらの不愉快を感じたのだろう。
そんな、感染者の怒りどころ--
それは長年その観察を続けてきた研究者にとっても、時たま完全に理解不能である。
「まずは此処から始めて行こう、と言ったあの時のお前の真意はなんだ。ああ、ただの研究の一貫か」
「……違う。君の場合、まずはそこから始める必要性があったから。あんな下らない本でも、必要だった」
「ならば私も同じだ」
眉を寄せながらも視線を流した飯島は、恐らくいつだったかの日の自分を眺めているのだろう。
「私も築き上げてみたかった。“まずはそこから始めよう”と。そう思って、奏にあれを渡したよ」
構築欲。
馴染みすぎて思い出すことすら少なくなった情報が、楠の脳裏に浮かび上がる。それは飯島の、特殊型としての欲求である。
しかし、それにしても、なんとも下らないことを気にする感染者だと。
すぐさま上書きのように楠の思考に広がったのは、呆れにも似た、悪くない感情だった。
愛娘へのプレゼントに一般的な価値があるのかどうか……だなんて、と。
飯島からそっと視線を外した楠は、目の前の感染者がずっと昔から、作れる筈もない娘を欲しがっていた事を知っていた。
そして、彼が行った彼なりの構築作業をずっと傍で見てきた。
だからこそ楠の唇の端には、苦笑が浮かぶ。
本当は、真の馬鹿正直は河井では無い事も知っていた。
欲求に正直で、無責任で、楽観的で、傲慢で、そして人間よりずっと純粋で。
ほんとうにこいつは、傍迷惑な一人の男だと。
「それで? おまえは、ここで作り上げたものを速やかに全て捨てろと提案しているのか」
飯島の苦々しげな声は、楠の思考を現実に引き戻した。
「この研究所を捨てるのか?」
楠は黙って睫毛を伏せた。
そう。答えるまでもない。
飯島は終わりを引き伸ばしたいようだが、終わりはもう既にそこにあるのだ。
けれど、それを自らの口で、言葉には変えたく無いのだと。
鈍る言葉より先に視線を上げようとした楠は、その瞬間、唐突な浮遊感に目を瞬いた。
ぐいと白衣の後ろ襟を掴みあげられ、そのまま猫のようにぶら下げられ、そんな己の体勢に気付くのと同時に、楠は隣に軽い視線を流す。
「一つ、疑問があるのだが」
「……何?」
いつの間にか隣にきていた飯島は、現在見事なまでに無表情だった。
何を考えているのかは分からない。
研究所設立前に交わした取り決めからして、もう用無しとばかりに頭からぼりぼり喰われるのが妥当かもしれない。
しかし案外、支度が終わったらしい今、詳細は移動しながら聞くという事なのかもしれないだなんて、どちらも十分に可能性のある二択を脳裏に展開する楠だったが、そもそも問題点は別にあるのだろうと感じていた。
じぶんの足には初めから、研究の無い場所に向かう気力など無かった。
「お前は此処で、何がしたかったのだ?」
「……。」
「……以前、黒液の抗体を作るのは容易だと言ったな。だが、お前が容易なことに時間を費やすとは考えにくい」
そして飯島は本当に、本当に余計なことにだけ、気が付く。
「桜。お前はずっと、一体何の研究を行っていたのだ?」
鋭く飯島の手を払い床に降り立った楠は、苦々しさの塊を舌打ちとして零した。
「桜って呼ぶな」
「今更もう良いだろう。お前を女だからと言って馬鹿にする人間はもういない」
けれど無表情に睨み上げた先、軽く肩を竦めて見せた飯島に楠の目は見事に丸くなる。
まさか、そんな下らないことを覚えていたとは。
というか、自分が兄のふりをしていたのは、別にそれが主な理由ではないのだがと。
「即ち、その元から貧しい乳を潰す必要ももう無いという事だ」
「うるさいよ」
本当に。
本当に余計な事しか言わない飯島に、頭痛を感じ始めた楠は再度舌打ちを落とすも、先程とは違う色を帯びたそれを残念ながら相手は全く気にもしていないだろう。
そのくせ、速力の差と浪費した時間だけは気にしていたようで、少しばかり屈んだ飯島に楠はまるで荷物の如くひょいと担ぎあげられる。
「……ちょっと。何担いでんの君?」
「カタツムリが文句を言うな。私とて以前、お前に背中に吐かれたことはよくよく覚えているが……致し方ないだろう」
しかし苦々しく落とされた返答に、ふと口の動きを止め数秒後、いつだったかの最悪の記憶を思い出してしまった楠はサッとその顔を青くした。
十年前のあの日も、まさにこんな風だった。担ぎ上げられるという体勢は、決して快適なものでは無く寧ろ、地獄である。
そうして元来車酔いしやすい体質である楠が、既に想像で若干気持ち悪くなり始めている間に。
「で、お前は一体、何を成そうとしていたのだ? ――何だろうと私には関係ないが」
さらりと話を戻した飯島のそれには、やはり余計なひと言が見事なまでに添付されていた。
対し、ピクリと眉を跳ね上げた楠の中には、当然言いたいことが山のようにあったのだが。
「……君には絶対、教えてやんない」
結局、己の中の断固とした意地だけを、そのアルトの声で吐き出した。