その1・敵を知ること
序章
ゾンビ――生ける屍。
つまりはそう言う事らしい。
『なんとか教による呪術』だとか、『とある民族の秘術』だとか。圧倒的オカルト記述があろうことか辞書に(しかもとっくりと!)綴られていたのには驚いたが、結局のところ、結論はどれも同じ。
“生きているけれど死んでいる”、という一見矛盾した現象――それに該当する生命体は全て『生ける屍』、すなわち『ゾンビ』の一言に収まるらしかった。
(生ける屍…か)
ふとした疑問に導かれるまま辞書を開いていた女は、納得を己に染み渡らせるよう、端の黄ばんだ辞書を音を立てずに閉じた。
項目内にあった『腐った死体が歩き回る』と言う、とても見覚えのあるワードは正にゾンビといえるだろう。
そして今回、新たに分かったのは死体が歩き回っている以上、腐っていようがいまいが『ゾンビ』という呼称に問題はないのだという事実。
辞書による定義は、中々に広い。
ピンポン パン ポン――。
「タムラ カナデ、田村 奏!至急8番ラボまで――」
突如鳴り響いたアナウンスに上がる視線は緩やかに、しかし放りっぱなしていたマスクとヘルメットをつかむ腕は敏速に。
俗に言う死んだ魚のような目をした女は膝の上の辞書を放り出し、切れかけの電球が点滅する真っ白な通路へと駆け出した。
・ ・ ・
「ああ、来たか奏。実は――」
「8番ラボの検体が暴走したんですね」
白衣をまとった中年の男が、元より細い目を更に細め、その通りだと頷く。
今、彼は前が見えているんだろうか――なんて度々思う疑問を口には出さず、フルフェイスマスクにヘルメット、加えてゴーグル越しの視線を相手に送っていた奏は、男が咳払いとともに視線を逸らす様をじっと観察した。
「まぁ……正確に言えば暴走ではなく脱走なのだが」
再度こちらに視線を戻し、満面の笑みで言い切る男は俗に言うドヤ顔であった。
しかし奏としては特に感心する部分は無い。
「それで、対象は現在?」
「あー……B-4区の廊下を逃走中だ」
「……。」
無言で頷いては見せたものの、実のところ奏としては個人的に物申したい部分が幾つかあった。
しかし今はそんなことをしている場合ではない、という事と。
目の前で細い目をふよふよと泳がせながら神妙な顔をして頷いてみせる男――飯島 哲哉がこの研究所の最高責任者である事と。
彼からの指令は迅速に処理するべきである事と、更に放っておけば対象が周囲に障害を与えかねないという事から。
了解、とつぶやく様な声を残し、奏はB-4区への最短経路を脳内で展開する。
と同時、その体は先の対象へと駆け出していた。
「ああ、そうだ奏。対象はもう遺棄してしまって構わん」
『ただのゾンビ』だ、と。
背後から届いた言葉にまた奏は了解、と上司には聞こえないであろう声量で呟いた。
遺棄とは楽で良かった。
そもそもラボから逃亡するような不安定な検体は必要ないだろうし、労力をかけてまで連れ戻したい検体がいた覚えもない。
そして研究所に“囚われる”様な愚鈍な『ゾンビ』など、奏にとっては全く持って敵ではなかった。
長いお話になりそうですが、お付き合いいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いします!