第一話
【1話】
「いらっしゃい――仮入部?」
美術室の扉を開けると柔和な笑みを浮かべた男性が一人。元はカンバスに向かっていたであろう手を休めて私を見ていた。
眼鏡の度がきついのか瞳の奥はボヤけている。
けれど、その視線はひどく優しかった。
窓の隙間から風が入り、ゆらりとカーテンが揺れて温かなオレンジが波打っている。
まるで夢みたいな光景に私はうっとりと目を細めた。
「君、一年生だよね?」
ほうけていた間に移動したのか気付くと目の前に男性は立っていた。目線が私よりも少し高い。
慌てて声を出すけど焦ってしまい少し上擦ってしまう。
「は、はい。一年の吾妻七生です。今日は仮入部に来ました!」
男性はおかしそうに笑った。
「俺は二年の四宮出。とにかく、中に入っておいで」
「はい!」
そういえば扉を開けたまま固まってたんだっけ……。
恥ずかしい気持ちを隠しながら先輩の指した椅子に座った。
木製の四角形の椅子は冷たくも温かくもない。
「大抵俺しかいないんだこの部活は」
私の隣に腰を下ろして先輩は呟いた。
この森園男子高等学校の文化部で美術部は科学部に次いで有名だ。
きっと、毎日大勢の部員が熱心に絵の練習をしていると思っていた。だから先輩の一言にとても驚いた。
思わず先輩の目を見つめてしまう。
疑り深いと思われただろうか。
私の目線を気にする様子もなく先輩は話を進めていく。
「コンクール前にならないと他の部員は顔出しに来ないんだ。
だから、基本は気楽に自分の好きなペースで作品制作してくれて構わないから」
「あの、質問してもいいですか?」
キョト、と首を傾げる先輩に促され疑問に思ったことを口にする。
「技術指導とかしてくれる先生は……?」
「顧問には堀先生がいるけど……。
先生自身も画家活動をなさってるから、たまにしか来てくれないんだよ。
だから一年生の指導は俺を含めた二・三年が受け持ってるけど――――」
一旦言葉を止め、ズリ落ちた眼鏡をあげながら困ったように笑った。
「見ての通り俺しかいない。
ま、俺にできる範囲になるがちゃんと技術指導する。
だから安心して仮入部してくれ」
「はい」
よかった、そう呟きながら先輩は窓に目をやった。
私もつられて目線を外に。
空は藍色に染まりかけていた。
「もうこんな時間か。ごめんな、俺ばかり話してしまって」
申し訳なさそうな先輩に両手を左右に振って否定する。
「そんな。私こそ遅い時間に来てしまって……。
――それに、四宮先輩の絵の邪魔してしまったし……」
「別にいいよ。下絵を簡単に描いてただけだから」
立ち上がって片付けを始めた先輩に、何か手伝うことはないかと聞いた。
「まだ君は部員じゃないしな……
じゃあ、鉛筆をそこのペンケースに入れておいてくれる?」
何もしないのは嫌だったから、先輩のその心遣いが嬉しかった。
片付けを済ました後、私と先輩は校門の前で別れた。
先輩は徒歩で私は自転車通学。しかも全くの反対方向だ。
今日先輩と出会ったばかりだけど、別れるのが少し寂しかった。
「あ、あの、四宮先輩!」
「なに?」
一日で大分見慣れた先輩の和やかな微笑み。
だけど、見慣れたといってもそれが綺麗なのは変わらなくて。
熱にじわじわと身体が包まれるのを感じながら私は言った。
「……明日も、――明日も先輩はいますか!」
突然の大きな声に驚いたように振り返る先輩。
高校に入学する前の私ならすぐに謝ってしまうけど、別に悪いことは言っていないから。
でもこんなことを言うのは初めてで、ドキドキと胸がうるさい。
強気な発言とは違う目で先輩を見る。
最初は驚いて固まってた先輩だけど、すぐに目を細めて笑った。
「――もちろん。明日もいるよ。言っただろ? 大抵はいるって」
「……はい!」
元気よく返事すると、先輩は口に手の甲を当てながら吹き出した。
「っはは、吾妻君、面白い、な、君、は」
「え!? どこがですか!」
眼鏡を少し上にずらして涙を拭いながら先輩は言った。
「内緒だよ。じゃ、また明日な」
ひらひらと右手を挙げながら先輩は帰っていく。
私はその背が見えなくなるまで校門から動けなかった。
そして先輩の色素の薄い瞳が強く印象的だった。
物語の主要人物である、先輩登場です。
ちなみに、私は美術部・黒髪・眼鏡は大好物です。