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放置《ほうり》という名の檻《おり》

【朝の鏡】

夜が明け、那古野(なごや)城に刺すような光が差し込む。

帰蝶(きちょう)は、昨夜の惨状を微塵も感じさせぬ完璧な所作で、鏡の前に座っていた。

乱れた装束を整え、紅を差し、一糸乱れぬ美貌を作り上げる。それは彼女にとって、敗北を認めぬための儀式であり、剥き出しになった魂を隠すための新たな武装であった。


(……あれは、ただの野蛮な暴力に過ぎぬ。身体が驚いただけで、私の心までが屈したわけではない)


鏡の中の自分にそう言い聞かせる。

喉元に残る手の跡は、高価な絹の襟で幾重にも隠した。身体の奥に居座る重苦しい鈍痛さえ、彼女は「敵を討つためのまき」として自らの内に燃やし続ける。


(次にまみえる時こそ、この短刀を……。あの男に、私を「私物」として扱う代償を教えてやる)


彼女は、信長が再び現れ、昨夜の傲慢な態度で自分を嘲笑うことを予期していた。それをいかに気高く跳ね除け、主導権を奪い返すか。彼女はそのための刃を研ぎ澄ませ、獲物を待つ蜘蛛のように静かに座していた。




【虚無の日常】

しかし、信長は来なかった。


昼を過ぎ、夕刻になっても、信長の足音どころか、彼からの言伝ことづて一つ届かない。

城内は昨夜の静寂が嘘のように、家臣たちの怒号と馬の嘶きに溢れている。尾張を狙う今川、あるいは身内の反乱。信長はそれらを薙ぎ払うべく、狂気じみた速さで政務と軍議に没頭しているという。


その奔流のような喧騒のなかで、帰蝶(きちょう)の居室だけが、時間が止まったかのように取り残されていた。


「織田殿は、いずこにおられる」

「殿は今、平手様らと合戦の評定ひょうじょうにございます。姫様におかれましては、この部屋にてご不自由なく過ごされるよう、仰せつかっております」


侍女の答えは、丁寧ではあるが血が通っていない。

それは「客分」に対する礼遇ではなく、倉庫に収められた「名物めいぶつ」の刀が錆びぬよう、適正に管理されているという響きだった。


摩滅(まめつ)する矜持】

一日、また一日と、信長は帰蝶(きちょう)の前に姿を見せない。

彼はあの一夜で、彼女を物理的に「所有」した事実を確認し終えたと言わんばかりに、もはや彼女に一瞥いちべつも与えないのだ。


帰蝶(きちょう)は、突きつけられたこの「放置」に戦慄した。

罵られるならば、言い返せる。

殺そうとされるならば、刺し違えられる。

だが、存在そのものを「既に片付いた用件」として隅に追いやられることは、言葉を武器とする彼女にとって、最も残酷な拒絶であった。


(……私は、美濃の蝮の娘だ。織田を、信長を御すために来たのだ。座して枯れるための飾りではない!)


焦燥が、彼女の怜悧な心を内側から蝕んでいく。

時折、廊下の向こうに信長が通りかかる気配がする。そのたびに、彼女の身体は——屈辱的なことに——あの夜の重圧を思い出し、反射的に震えてしまう。


抗いたい。

けれど、戦うべき相手が目の前にいない。

信長は、彼女を「檻」に入れる必要さえなかった。

ただ「そこに在れ」と命じるだけで、彼女を己の広大な支配圏の中の一点、動くことのない「家具」として固定してしまったのだ。


【理の終焉】

数日ぶりに、部屋の(ふすま)が開いた。

現れたのは信長ではなく、沈黙を纏った平手政秀であった。


「姫様。殿よりの下知にございます」

「……やっと、お出ましですか」


帰蝶(きちょう)は、精一杯の毒を含んだ笑みを浮かべて立ち上がった。

しかし、平手が口にしたのは、彼女が待ち望んだ「対決」の言葉ではなかった。


「『美濃からの文はすべて私が検分する。お前はただ、ここで私の帰りを待っていればよい』……とのことにございます」


その瞬間、帰蝶(きちょう)の手にあった扇が、音を立てて畳に落ちた。

信長は、彼女の命綱である父・道三(どうざん)との繋がりさえも、自らの掌中に収めたのだ。


(私は……ただの、備品か)


戦うための知略も、伝えるべき殺意も、信長の「放置」という大きな闇の中では、何の意味も持たない。

那古野城の沈黙のなかで、帰蝶(きちょう)は、自身の誇り高いことわりが、音も立てずに磨り減っていくのを感じていた。

信長という男によって課された支配(かせ)は、彼女が牙を剥くことさえ許さない、静かで冷徹な「放置」という名の暴力であった。

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