第8話 きらめきの試練
ガラス工房を出たとき、空気の温度が変わっていた。
冷たいはずなのに、皮膚を刺さない。
風はあるのに、乱暴ではない。
まるで冬そのものが息を整えたみたいだった。
雪乃は胸の中で、まだ淡く光る粒を握っている。
指先越しに、かすかな鼓動のような振動が伝わってきた。
「雪乃」
有馬が静かに呼んだ。
川沿いの鉄柵に寄りかかりながら、彼は遠くを見ている。
街灯の光が、彼の横顔を淡く縁取っていた。
「さっき、工房で言いかけたことだけど——」
雪乃は歩みを止めないまま、首だけで振り向く。
「言わないで」
有馬は小さく息を吐き、微笑した。
「……君らしい」
二人は並んで歩く。
川面には、細い光の線がいくつも揺れていた。
そのときだった。
水面から、ゆらりと白い影が立ち上がった。
人の形に近い。
だが輪郭は定まらず、まるで霧が歩いているようだった。
雪乃の足が止まる。
影は近づかない。
ただ、川の上に静かに立ち、こちらを見ている気配だけがあった。
胸の中の光る粒が、強く脈打った。
「試されてる……?」
雪乃は無意識に呟いた。
有馬が小さくうなずく。
「たぶん。あれは“拒むもの”じゃない。選ぶものだ」
影が、ゆっくりと手を差し伸べた。
触れれば消える。
触れなければ、先へ進めない。
雪乃は立ち尽くした。
——怖くないわけじゃない。
胸の奥が、少し震えている。
それでも彼女は、一歩だけ前に出た。
「私は、きらめきを知りたい」
声は小さい。だが迷いはなかった。
雪乃は胸の粒をそっと取り出し、影へ差し出す。
一瞬、世界が静止した。
風も、川も、街灯も、音を失う。
影は光を受け取り——溶けるように消えた。
代わりに、夜空から何かが降った。
雪ではない。
雨でもない。
無数の、小さな光の粒。
きらめきが、雪のように舞った。
川面に落ち、アスファルトに落ち、雪乃の肩に触れては消えていく。
彼女は息を呑んだ。
「……きれい」
有馬は何も言わず、その光景を見つめていた。
だがその瞳は、どこか痛むように揺れている。
光は長くは続かなかった。
やがて、夜は元の静けさを取り戻す。
雪は降らない。
きらめきも消えた。
だが雪乃の中には、確かな変化があった。
胸の奥に、小さな灯が宿っている。
消えない灯。
そのとき、川の向こう岸に誰かが立っているのが見えた。
黒いコート。
長い影。
顔は街灯の逆光で見えない。
その人物は、雪乃たちをじっと見つめ——ゆっくりと歩き去った。
有馬の表情が、わずかに硬くなる。
「……見られてた」
雪乃は川の向こうを見つめたまま、静かに答えた。
「見られてもいい。私はもう、逃げない」
風が一度だけ強く吹いた。
遠くで、古い灯台のサイレンがかすかに鳴った。
冬は動き出している。
そして——次の夜が、確実に近づいていた。




