第5話 灯台の記憶
夜は、静かすぎた。
波の音が遠く、街のざわめきも消えている。
光の雪だけが、淡く、絶え間なく降っていた。
灯は自室の窓辺に立っていた。
ガラス越しに、灯台の光が回っているのが見える。規則正しいはずの光が、今夜はほんのわずかに揺れていた。
祖父の言葉が頭から離れない。
——今夜は灯台に来るな。
だが、灯はコートに袖を通していた。
ポケットの中のガラス片が、かすかに震えている。
呼んでいるように思えた。
玄関を静かに開けると、冷たい風が吹き込んだ。光の雪が頬に触れ、すぐに消える。足音を殺して坂道を下る。
灯台へ続く道は、昼よりもはっきりしていた。雪が光を反射し、細い線のように先へ続いている。
やがて、灯台の下にたどり着く。
扉は——少しだけ開いていた。
灯は息を整え、中へ入る。
鉄の匂い、油の匂い、長年の潮風が染み込んだ古い木の匂い。
階段を登るたび、足音がやけに大きく響く。
最上階に出ると、風が強く吹き抜けた。海が黒く広がり、空は光に満ちている。
そして——雪が、そこにいた。
今夜の彼は、いつもよりはっきりしていた。輪郭が濃く、闇の中に確かな“かたち”を持っている。
灯が近づくと、雪はゆっくり振り向いた。
――来たのか。
灯は小さく頷く。
「おじいちゃんに止められた。でも……来た」
雪は何も言わない。ただ、灯台の縁へ歩み寄る。
灯もその横に立った。
光る雪が渦を巻く。風が変わる。
その瞬間——世界が、わずかに“ずれた”。
灯の視界が白く染まり、次に見えたのは、別の景色だった。
そこは、同じ灯台の上だった。
だが、今よりも新しく、塗装も剥げていない。
少年が一人、縁に立っている。
年は灯と同じくらい。黒いコート。髪が風に揺れている。背中だけが見えた。
その背後に——若い女性が立っていた。
優しげな目元、灯とよく似た雰囲気。
彼女は少年に声をかけていた。
「危ないから、こっちへおいで」
声は風に溶け、遠い。
少年は振り返らない。
次の瞬間、嵐が来た。
風が唸り、波が砕け、灯台の光が激しく回る。
少年の体がぐらりと揺れた。
女性が叫んだ。
手を伸ばした。
だが——間に合わない。
少年は闇へ落ちた。
光の雪が、白く弾けた。
灯は息を吸い込んだ拍子に、現実へ引き戻された。
目の前には、雪が立っている。
その輪郭が、震えていた。
灯は理解した。
「……あなたは」
言葉が喉で止まる。
雪は、海を見つめたまま、静かに言った。
――落ちた記憶。
灯は胸の奥が痛んだ。
それは物理的な痛みではなく、記憶そのものが軋むような感覚だった。
「誰に、忘れられたの」
雪は答えない。だが、その輪郭がさらに滲んだ。
そのとき、灯台の扉が開いた。
祖父が立っていた。
懐中電灯の光が、二人を照らす。
だが、祖父の目はまっすぐ“雪”を見ていた。
灯は息を呑む。
祖父は、低く言った。
「やはり、おまえか」
雪は振り向いた。
祖父は続ける。
「おまえは、灯台から落ちた少年だ。……そして、この街が、ずっと忘れたままにしていた名前だ」
風が止まった。
光の雪だけが、静かに降り続ける。
祖父は灯の方を見た。
「灯。この雪は祝福でも呪いでもない。これは——街が抱えた“未完の記憶”だ」
雪はゆっくりと、灯の方へ向き直る。
その輪郭が、ほんの一瞬だけ人の顔に近づいた。
口はない。
それでも灯には、確かに言葉が届いた。
――思い出してほしいわけじゃない。
一拍の沈黙。
――ただ、忘れたままにしないでほしい。
灯は、はじめて涙がこぼれた。
落ちた一滴が、光る雪に触れて——強く輝いた。
その瞬間、遠くの港で鐘が鳴る。
低く、深く、街全体に染み込む音。
祖父は静かに言った。
「明日、この街は選ぶことになる」
灯は雪を見つめた。
雪はもう、何も言わない。
ただ、海の方を見ている。
灯台の光が回り、光る雪が降る。
そして、夜は静かに更けていった。




