第4話 鏡のような人々
昼になっても、空は白かった。
雲ではない。
細かな光の粒が空を満たし、太陽の輪郭をぼやかしている。まぶしくはないのに、視界の奥が少しだけ痛む不思議な明るさだった。
灯は学校へ向かっていた。
だが、いつも通る商店街は別の場所になっていた。
魚屋は開いているのに客がいない。花屋の前には人が集まり、誰もが空を見上げている。パン屋の窓には光の粉が薄く積もり、ガラス越しに見えるパンがやけに遠く感じられた。
学校の門の前で、灯は足を止めた。
校庭の中央に、人だかりができている。
中心にいたのは、理科教師の沢渡先生だった。白衣の袖をまくり、普段は穏やかな目を強く見開いている。彼は小さな黒い箱を抱えていた。古びた木製の箱で、蓋には金属の錠がついている。
「開けちゃだめだ、これは——」
彼は周囲に向かって必死に言っていた。
だが、生徒たちは笑っている。
「何それ、先生の宝物?」
「光ってるから開けようよ」
「雪のプレゼントじゃないの?」
灯は胸の奥がざわついた。
その箱は、光の粒に包まれていた。箱そのものが呼吸するように明滅し、わずかに震えている。
灯が一歩踏み出した瞬間、背後から声が飛んだ。
「灯!」
振り返ると、美波がいた。目の下に薄い隈があるが、昨日よりも強い目をしている。
「朝、魚屋に人が来なくてさ。みんな海じゃなくて空ばっか見てる」
灯は小さく頷いた。
二人で人だかりへ近づく。
そのとき、箱の錠が――勝手に外れた。
金属音が一つ。乾いた、軽い音。
沢渡先生の顔が青ざめる。
「触るな!」
だが、もう遅かった。
箱の蓋が、ゆっくりと開いた。
中から出てきたのは、何もないはずの“空気”だった。
だが次の瞬間——それは形を取った。
白い霧が渦を巻き、人の輪郭を作る。
若い女性の姿だ。笑っている。腕を広げている。
灯は一瞬で理解した。
これは——沢渡先生の、失くした人だ。
周囲の生徒がざわめく。
「幽霊……?」
「きれい……」
「本物?」
沢渡先生は震える声でつぶやいた。
「……莉子」
霧の女性は何も言わない。ただ、先生の方へ歩いてくる。
沢渡先生は一歩、二歩、前に出た。
灯の視界の端に、黒い影が現れた。
雪だ。
校庭のフェンスの向こう側に立ち、じっと霧の女性を見ている。風がないのに、彼の輪郭だけがゆらいでいた。
灯は直感した。
まずい。
彼女は走り出した。
「先生——!」
だが、声は届かない。
沢渡先生は女性の手を取ろうとした。
触れた瞬間——
光が弾けた。
強烈な白。誰もが目を閉じる。
次に見えたとき、霧の女性は消えていた。
そして沢渡先生は、その場に崩れ落ちていた。
誰もが言葉を失う。
救急車のサイレンが遠くで鳴った。誰かが電話をしていたらしい。
灯はフェンス越しに雪を見た。
雪は静かに言う。
――触れれば、持っていかれる。
灯は唇を噛んだ。
救急隊員が校庭に入ってくる。沢渡先生は意識があるのかないのか、ぼんやりと空を見上げていた。目だけが濡れている。
美波が灯の袖をつかんだ。
「……あれ、なんだったの」
灯は答えられない。
ただ、ポケットのガラス片がまた熱を帯びていた。
放課後。
港へ向かう坂道で、灯は雪と並んで歩いていた。
正確には、雪は歩いていない。
灯の少し横を、音もなく“移動している”。
夕暮れが近づくにつれ、光の雪は金色に変わり始めていた。まるで街全体が琥珀に沈んでいくようだ。
灯は立ち止まり、海を見下ろした。
波は穏やかだ。だが、どこか底が見えない。
「あなたは……何なの」
問いは静かだった。
雪は少しだけ間を置く。
――忘れられたもの。
灯はゆっくり息を吸う。
「それなら……あなたも誰かに忘れられたの?」
雪は答えなかった。
ただ、彼の輪郭がわずかに滲んだ。
そのとき、灯の背後から足音がした。
振り返ると、祖父が坂の上に立っていた。
「灯、今夜は灯台に来るな」
初めて聞くほど硬い声だった。
祖父は港を見下ろし、低く言う。
「街の記憶が、動き始めている」
雪が、ほんの一瞬だけ祖父を見た。
祖父は何も言わない。だが、確かに“見えているような間”があった。
灯は胸の奥が冷えた。
光の雪が、さらに強く輝く。
港の向こうで、鐘が鳴った。
深く、重く、長い音。
雪はゆっくりと海の方へ歩き出す。
灯は追わなかった。
ただ、その背中を見つめながら思った。
この冬は、もう誰にも止められない。
そして――
失くしたものを見たいという人間の願いが、街そのものを飲み込もうとしている。




