第3話 願いがかたちを持つ朝
夜が明けても、雪はやまなかった。
ただし、朝の光を受けたそれは、もはや「雪」ではなかった。
細かな光の粒が空中に漂い、風に乗って流れ、屋根の上や電線に薄く積もっている。近くで見ると、粉のようでもあり、霧のようでもあった。
灯はほとんど眠れなかった。
布団の中で目を閉じても、頭の奥にあの声が残っていた。
――わからない。
――たぶん、なくした。
ポケットの中のガラス片は、まだかすかに温かい。
朝、台所に降りると祖父がすでに椅子に座っていた。コーヒーの匂いと、焦げたパンの匂いが混ざっている。
「外を見たか」
祖父は新聞をめくりもせずに言った。
灯は小さく首を振る。
祖父は立ち上がり、窓を指で叩いた。
その先――港の方に、人だかりができていた。
桟橋の手前で、数十人が固まっている。
漁師も、商店の人も、観光客も混じっていた。
中心に立っていたのは、魚屋の娘・美波/17歳。
肩までの黒髪を高い位置で結び、いつも笑っている快活な少女だ。口が達者で、泣くより先に怒るタイプ。町では「声が大きい子」として知られている。
だが今は、声を失っていた。
彼女の前には――小さな木船が浮かんでいる。
しかも、壊れて沈んだはずの船だった。
側面に書かれた文字は、かすれて読める。
〈波鳥丸〉
三年前、美波の父が嵐の日に乗って帰らなかった船だ。
人々がざわめく。
「幽霊船か……?」
「いや、ちゃんと浮いてる」
「でも誰も乗ってない」
灯は桟橋の端に立ち、じっと船を見つめた。光の粒が船体にまとわりつき、まるで息をしているかのように明滅している。
そのとき、美波が一歩踏み出した。
「……お父さん?」
震えた声。誰も止められなかった。
彼女が手を伸ばした瞬間――
船が、ゆっくりと桟橋に寄ってきた。
自力で動いているわけでも、波に流されているわけでもない。
まるで、美波の声に“引かれた”ように。
灯は胸の奥が冷たくなるのを感じた。
――願いが、かたちを持っている。
美波が船に足をかけようとした、その刹那。
祖父の怒鳴り声が響いた。
「触るな!」
同時に、灯も走っていた。自分でもなぜか分からないまま、美波の腕をつかむ。
「だめ――行っちゃ」
美波は振りほどこうとした。涙がこぼれる。
「離して! あれは、あれはお父さんの船なの!」
船体の光が強くなる。
桟橋の板がきしみ、風が逆巻いた。
そのとき――灯の視界の端に、黒い影がよぎった。
雪が、そこにいた。
誰にも見えていないはずなのに、確かに桟橋の先に立っている。
彼は船を見つめ、ほんの一瞬だけ灯の方を振り向いた。
声はない。
だが、灯には意味が伝わった。
――近づいてはいけない。
灯は力いっぱい美波の腕を引いた。
船が、低くうなった。
次の瞬間、光の粒が爆ぜるように散り、船は霧のように薄れて――消えた。
桟橋には、何も残らない。
静寂。
美波はその場に崩れ落ち、声を上げて泣いた。
誰も彼女を責めなかった。ただ、光の雪だけが静かに降り続けている。
灯は桟橋の先を見つめた。
そこに雪の姿はもうない。
ただ、ポケットのガラス片が――ひときわ強く輝いた。
家に戻る坂道。
祖父は灯の横を歩きながら、低く言った。
「この雪は、失くしたものを見せる。だが、返しはしない」
灯は黙ったままうなずく。
祖父は続ける。
「見たいものほど、危ない」
灯は立ち止まった。
振り返ると、街全体が光に包まれている。屋根も、海も、人影も、すべてが淡く輝いていた。
その中に――小さな黒い影が、遠くに立っているのが見えた。
雪だ。
灯が一歩近づくと、彼はゆっくりと歩き出す。
灯も、後を追った。
振り向かずに、雪は言う。
――この街は、忘れすぎている。
灯は何も答えない。
ただ、心のどこかで理解していた。
この冬はもう、引き返せない。
光る雪は、やさしさでも奇跡でもなく――
人の記憶が残した残光そのものなのだ。




