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第2話 影に名前が降る

夜が、ほんのわずかに明るかった。

満月でも街灯でもない。

光る雪そのものが、闇を柔らかく押し返している。

灯はノートを閉じ、もう一度だけ少年を見た。

彼はまだ灯台の縁に立っている。危ういのに、落ちそうな感じがまったくない。まるで「落ちる」という概念自体が、彼には当てはまらないみたいだった。

灯は一歩だけ近づいた。

風が巻き、雪が舞い上がる。光の粒が二人のあいだを流れた。

「……寒くないの?」

問いは半分、独り言だった。

少年は少しだけ首を傾けた。

――寒い、という感覚が、わからない。

声は耳ではなく、頭の奥に直接落ちてくる。やわらかく、少し遠い。

灯はコートの襟を握った。自分の体温が、指先にあるのが分かる。

「私には、あるよ。寒さも、痛さも、後悔も」

少年は黙ったまま、雪を見つめた。

その横顔に表情はない。けれど、灯にはなぜか“聞いている”ことだけが分かった。

港の方から、遠くで船の汽笛が鳴った。低く、長く、海の底まで響くような音だ。

そのとき――雪が変わった。

さっきよりも粒が大きくなり、ひとつひとつが淡く揺れ始める。まるで誰かの鼓動に合わせて明滅しているみたいに。

少年の輪郭が、一瞬だけくっきりした。

灯は思わず手を伸ばした。

指先が、空を切る。

触れられない。やっぱり。

それでも、彼女は引かなかった。

「名前がないなら……私が呼ぶ名前をあげる」

少年がこちらを見る。

灯は一拍、間を置いた。いつもの癖だ。言葉を選ぶときの、静かな呼吸。

「――**ゆき**で、いい?」

少年は反応しない。

だが、光る雪が一粒、灯の手の甲に落ちた。ほんの一瞬、強く輝き、すっと消える。

その瞬間、灯の胸の奥に小さな熱が生まれた。

――肯定だ、と直感した。

「じゃあ、雪。ここは危ないから……少しだけ内側に来て」

灯は灯台の縁から一歩下がり、床板を軽く叩いた。人が立つ場所だ、と示すように。

雪はしばらく動かなかった。

風が鳴る。波がうねる。雪が降る。

そして、ゆっくりと――彼は“内側”へ踏み出した。

足音はしない。影も落ちない。それでも、確かに距離が縮んだ。

灯は胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。

安心でも、悲しみでもない。

その中間にある、名付けられない感情。

そのとき、灯台の下から声が響いた。

「灯――!」

祖父の声だ。怒鳴っているわけではないが、いつもより鋭い。

灯は手すり越しに下を覗いた。祖父が懐中電灯を持って立っている。光がゆらゆらと揺れた。

「今夜の雪はおかしい! 早く降りてこい!」

灯は一瞬だけ雪を見上げ、それから雪(少年)を見た。

「……待ってて」

小さく言い、階段へ向かう。

だが数段降りたところで、振り返った。

灯台の上には、もう誰もいなかった。

風だけが残り、光る雪が静かに降り続けている。

灯は胸の奥がひやりと冷えた。

――消えた?

急いで最上階へ戻る。誰もいない。雪だけが舞っている。

そのとき、コートのポケットが重くなった気がして、灯は手を入れた。

小さなガラス片のようなものが、そこにあった。

冷たいのに、ほのかに光っている。

指でつまみ上げると、表面にかすかな文字が浮かんだ。

“YUKI”

灯は息を呑んだ。

外から祖父の声が再び響く。

「灯! 何をしている!」

灯はガラス片をぎゅっと握りしめ、階段を駆け下りた。

木の段が鳴り、鉄の手すりが冷たい。

扉を開けると、祖父が険しい顔で待っていた。

「今夜の雪は、街を変える。良くも、悪くもだ」

灯は何も言えなかった。

ただ、ポケットの中の小さな光を感じながら、頷いた。

振り返る。

灯台の光が回り、雪を照らす。

その白い渦の中に――一瞬だけ、人影が見えた気がした。

雪は、そこにいた。

そして灯は確信した。

彼はもう、街のどこかに混ざっている。

降り止まない光の中に。

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