第2話 泣き虫聖女(上)
──それは、とても静かな朝だった。
空は青く、陽はあたたかく、鳥はのんびり歌っていた。
村の人々も、いつも通りの一日を迎えるはずだったのだ。
……その時までは。
突如として現れた、牙の生えた巨大なイノシシ型モンスター。
しかも一体だけではない。五体、十体、いや、もっと。
村の外れの森から、まるでなにかに追い立てられたように、暴走する群れが襲来したのだった。
「な、なんだあれは!?」
「おい、逃げろっ!」
「子供たちを守れ!」
男たちは鍬を投げ捨て、女たちは悲鳴を上げ、子どもたちは泣き叫んだ。
……その中心に、たった一人、立ち尽くしていた。
――聖女。
花を抱えていた。泣いている子に届けるための、小さな花束。
彼女はそれを握りしめたまま、恐怖に動けなくなっていた。
いや、正確には恐怖ではなかった。
哀しみだった。
「……だって……せっかく笑ってくれたのに……」
昨日、初めてできた友達の子。花をあげたら、満面の笑顔で「ありがとう」って言ってくれた。
なのに今、泣いている。
大人たちに抱えられて、助けを求めて泣いている。
その姿に――彼女の中の何かが、壊れた。
「……うわぁああああああん!!! みんな死んじゃいやぁあああああ!!!」
――その瞬間、世界が鳴った。
地鳴り。風が止まり、空気が震え、空の雲が円形に弾け飛ぶ。
大地が、呼吸を始めたかのように脈打ち始める。
「……きたァァァァァァアアアアア!!!?」
観測空間に響き渡る、神の絶叫。
モフモフローブの中で座り込んでいたコロネ神様は、慌てて浮遊スクリーンを十枚同時展開した。
「感情起因の干渉!?いやこれ祝福超えてるってば!!地殻変動が来てんだけど!?」
映し出されるのは、村の全景。
今まさに、聖女の足元から半径三百メートルが、まるでゼリーのようにボゴンボゴンと揺れている。
「地層のプレート、完全にずれてる!? なにこれ、地理情報更新してる!?」
いや、違う。
これは“更新”ではない。“再定義”だ。
聖女の涙が、エネルギーを超えて、地形そのものに『再命令』している。
──村の中央広場。聖女の足元から、一筋の光が走った。
それはまるで“怒り”を体現するかのように、蛇のような形で地を這い、そして……
ズゴゴゴゴォォォォン!!!
数十体のモンスターの足元から、大地が大砲のように盛り上がった。
モンスターたちは、次の瞬間には空中に放り投げられていた。
それはあまりにも突然で、そして一方的だった。
彼女はただ、泣いただけなのに。
ただ、「死んでほしくない」って願っただけなのに。
「ッッッぶっ壊れ祝福ォォォォ!!!お願い世界、もうちょっと理性持って!?感情に反応しすぎだよ!? 私より従順じゃんお前ぇぇぇ!!」
コロネ様は、観測台から身を乗り出して叫んでいた。
周囲の空間はエネルギー反応でチカチカと明滅しており、天界システムがエラー警告を鳴らし始めている。
──村では、モンスターたちが完全に撃退されていた。
だがその代償として、村の中心地にはぽっかりと巨大なクレーターが生まれ、地形が一部変形していた。
誰も、それを責めなかった。
むしろ人々は祈るように、聖女を見つめていた。
そして──聖女は目をこすって、涙ぐんだまま呟いた。
「……よかったぁ……誰も、死ななくて……」
その言葉に、また風が震え、エネルギーが空へと流れていく。
それを見て、コロネ様はぷるぷる震えながら、再び記録装置を取り出した。
「……ログ追加っと。“当該聖女の情緒変化に伴い、世界の物理レイヤーが不安定化。今後の対処法:あきらめろ。”……マジかよもう……」
そうして、また世界の一角が、ほんの少し、彼女に合わせて変わってしまったのだった。