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98.湯煙の向こう側

 せっかく温泉なのだから、まずは入浴だろう、というアリエスさんの有無を言わせぬ提案により、俺たちはそれぞれ男女に分かれて温泉に浸かることとなった。


 「おぉ……すげぇ!!!」


 脱衣所を出る扉を開け……俺は思わず声を上げた。

 めちゃくちゃ広い。

 日本にいた時も温泉なんて行ったことが無かったため、俺のイメージはせいぜい銭湯止まりなのだが……少なくともその五倍はある。余裕で泳げそうだ。


 泳ぐのは、さすがにダメだよな……?

 俺は周りを見渡す。他にも利用客がチラホラと見えるが、当然、泳いでいる者の姿は無い。


 当たり前か……俺はひっそり肩を落とした。

 こういう広い風呂で裸で泳ぐ……ちょっと楽しそうだ、などと思ってしまった自分を反省する。

 

七戸(ななと)、入らないのか?」


 あれこれ無駄なことを考えて突っ立っていた俺の背後から崇影(たかかげ)が近づいて来た。


「あ、あぁ、この島の温泉のルールが分からなくて……」


 言いながら振り返り……ぎょっとした。

 バランスよく筋肉が付いた、理想的な体つき……まぁそれはいい。こいつが意外と筋肉質だということは知っていた。

 だが俺の視線が釘付けになったのはそこではなく……

 崇影の体は痣だらけ、傷だらけだった。

 森から帰還する際に治癒を受けているため、生傷のような物は一切ない。

 それでも……体中に散らばる無数の痛々しい跡。


「崇影……その傷……」


 俺の視線を追い、崇影は自分の傷跡に触れる。


「あぁ……すまない、見苦しい物を見せたな」

「い、いや……そんなつもりは全然……それ、痛くないのか?」

「痛みは無い。もう治っている」

「そ、そっか……」


 もう治っている。

 つまり……最近出来た傷ではないということか。

 コイツは一体、今までどんな生活をしてきたのだろう。

 主である『崇光(たかみつ)さん』は死と隣り合わせの仕事だったという話だし、コイツも相当危険な場所にいたのだろう。

 けど正直……平和な日本でのほほんと暮らしていた俺には、それがどんな仕事でどんな環境なのか、想像すら出来ない。


「七戸くん、崇影くん、早くこちらへおいで」


 優しく店長に呼ばれ、そちらへ目を向けると、店長は既に浴槽に浸かり、すっかり寛いでいた。

 

「はい! えっと……これって、そのまま入っていいんですか? その前に体を洗ったりとか……」

「洗い場はこちらだ」


 戸惑う俺に、レオンさんが後ろから声を掛けてくれた。

 案内されたのは、石造りの水盤。手桶が置かれていることから、これで掬ってかけるということなのだろうが……


 洗い場……? これが??

 俺の脳内イメージとは随分違う。

 シャワーも無い。鏡も無い……いや、それはむしろ好都合なのだが。


「ここで体を軽く清めて湯船に浸かるのがここのルールだ、覚えておくと良い。この水盤の湯は清めの魔水。こうして頭から一浴びすれば、体の汚れや穢れは洗い流せる」


 レオンさんはそう静かに説明をしながら……手桶に汲んだ湯を自らの頭へバシャッと豪快にかけた。


 な、なるほど……湯自体に清める効果があるから、ごしごし洗う必要は無いのか……

 にしても……


 説明を終え「儂は先に行くぞ」と言い残して去って行くレオンさんの背中を見送りながら思った。

 俺以外、全員めちゃくちゃムキムキじゃないか……?

 レオンさんは所謂(いわゆる)『初老』に見える。けど、その体つきはどう見ても俺より仕上がっている。

 石の店の店主だし、てっきり細いだろうと想像していただけに衝撃が大きかった。

 ……カッコイイな、レオンさん。

 素直にそう思った。


 初めて会った時はその眼光の鋭さに気圧されたが、歳を重ねた貫禄と落ち着き。そしてあの鍛え抜かれた体つき。純粋に男として憧れるレベルだ。

……戦ったら、強そうだな。


 そんなことを考えながら、俺は崇影と共に水盤の湯を頭からかぶって身を清め、店長達のいる大浴場へ合流した。


 温泉の湯加減は絶妙で、とても気持ちが良かった。

 オルタンシアに来てからというもの、風呂はシャワーばかりだったため、こうしてゆっくり湯船に浸かれるのは久しぶりだ。

 心も体も(ほぐ)れていくのを感じる。


「七戸くんの故郷では、湯船につかるのが毎日の風習だったかな? 私はあまり温泉は利用しないが……なかなか良いものだね」


 店長にそう笑いかけられ、何となく嬉しくなる。


「はい。俺の住む国では、毎日の風呂で湯船に浸かったり、旅行で温泉に行く人も多いんです」

「へぇ……お風呂が好きな民族なのかな?」


 そう改めて言われると……そうなのかもしれない。


「毎日湯船に浸かる? んな面倒な生活してたのかよ……」


 横から口を挟んだトーキスさんが顔を歪める。

 その表情には「信じらんねぇ」と書いてあるようだ……

 確かに、面倒臭がりなトーキスさんからすれば理解出来ない風習なのだろう。


「しかし、毎日の疲れを癒し、心身を清めるという意味では理に適っている。見習うべき風習かもしれんな」


 ふむ……と呟くレオンさん。


「七戸、体に変化は無いか?」


 崇影にそう尋ねられ、そういえば……と自分の体を確認するが、特に変わった感じはしない。

 周囲に鏡が見当たらないため、何かしらの変化があったとしても試すことも出来ないけどな。


「体質は分かんないけど、疲れは取れる気がするな。崇影もそうなんじゃないのか?」

「あぁ、そうだな……ゆっくり湯船に浸かること自体が初めてで妙な気分だが、疲労感が軽減されている気はする」


 不思議そうに湯船の湯を掌で掬いながら言葉をゆっくり紡ぐ崇影。


 ゆっくり湯船に浸かるのが初めて……そうか、鳥は風呂なんか入らないよな。

 水場で体を洗うくらいはするのだろうか?

『カラスの行水』という言葉があるくらいだ、鷹も水浴びくらいはするのかもしれないな……

 そんなことをぼーっと考えていると、店長が(おもむ)ろにに湯から上がり手招きをした。


「七戸くん、こちらにも珍しい湯があるようだよ。来てごらん」

「あ、はい……」


 反射的に返事をしたものの、俺はすぐには動けなかった。


 それというのも……目の前に現れた店長の体が、俺の想像を遥かに超える筋肉美だったのだ。

 先程までは湯船の中にいたため全く気にも留めなかった。

 店長、着痩せするタイプなんだな……こんな筋肉質にはとても見えなかった。

 崇影、トーキスさん、レオンさんも鍛え抜かれた体をしているが……店長のは、根本的に何かが違う。

 思わず石像にして祀りたくなるレベルだ。



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