ケトル
僕の自室はまるで白化した珊瑚だ。
天井と壁が真白で、床は白いカーペット。 無意識的に白を求めているのか、いつの間にか部屋の家具も含めて真っ白になっていた。
実家は常に物で溢れていたからこそ、正反対にしたのが悪かったのだろうか。
青みがかった白のマットレスに横たわり、白いクッションを枕代わりにして縮こまった。
僕の部屋は望んでこの姿にしたはずだというのに、どこか満たされない。
「ぁ……そうだ、お姉さんの部屋行こ……」
立ち上がり、ふらふらと外へ出た。
連絡通路に生ぬるい風が吹きつけ、僕は思わず顔を顰めた。
すぐに隣の部屋のインターホンを鳴らすと、ドタバタと音がして扉が開け放たれる。
「おお? 少年、どうしたん?」
「別に……お姉さんが暇してるだろうなって」
「そっか~、ようするに会いたくなっちゃった……って、わけか~! ほいほい、取り敢えず上がってよ」
反論する間もなく、誘われるがままに部屋に上がった。
長らく住んでいるのだろうという部屋の汚れ、染みついたアルコールの匂い、そして微かな煙草の燃え殻と匂い。
目で見ずとも、耳で聞かずとも、呼吸するだけでこのお姉さんがクズだと分かる。
だがその匂いこそが人間らしくて、生ぬるい体温みたく安心感を与えてくれる。
「ねえ少年、ご飯作ってよ~。 お姉さんに美味しいごはんをさあ?」
「いいですけど……食材ってあるんですか」
「ないっ!」
思わずため息を吐いた。
料理をしてと頼んで、食材が無いは酷い話だ。
冷蔵庫を開いてみても、キンキンに冷やされたビールと謎の酒と、割る用の炭酸水が数本ある程度。
固形物がほとんど冷やされてない惨状で、この人が河童の可能性が出てきた。
なお頭の上には皿が無いが、春や秋のキャンペーンで貰えるような皿は結構あるので可能性はある。
「でもでも~、なんとカップ麺ならある!」
「それを料理とは言わないでしょう」
「さあ……定義によるんじゃない? てか、ご飯作ってとは言ったけど料理してとは言ってないんだなぁこれが」
お姉さんはキッチンの収納を開き、お茶漬けやパスタなどを掻き分けると、ようやくいつの品か分からないような醤油味のカップ麺が出て来た。
見慣れたパッケージだから安心感はあるが、賞味期限に関しては見たいとは思えない。
にしても、このレトルトパウチだとかの量は……パチ屋の景品にしても多いような気もする。
「あっ! でも卵を割ったり、胡椒振りかけたら一手間加えて、料理した……って、ことにならないかなぁ」
「じゃあその卵はあるんですか」
「酒のツマミ作るのに使うからそれはあるかも」
そう言い、お姉さんは冷蔵庫を開けた。
「……ないですよ」
「じゃあお姉さんが産まないと」
「は?」
何を言ってるんだと思っていると、そっと腰を抱き寄せられる。
にやにやと悪戯っぽく笑う姿に思わず固唾を飲むと、それをどう解釈したのか心臓のある辺りを指で撫でられる。
「あは、興味ある~?」
「いや、そういうわけじゃ……あうっ」
すすーっと指が動き、喉元をくすぐる。
猫を宥めるような手つきで迫られ、ぼんやりとその手に委ねてしまってもいい気がしてきた。
「産卵シーンって、実際のところってデリケートゾーンのアップだよね。 きゃ~、依寄君ってば案外むっつりさん?」
「殴りますよ」
「すみませんでした」
真面目なトーンでそそーっと離れていくと、お姉さんはしょんぼりとしてしまった。
少し多いぐらい水を沸かし始めると、さっきまでの雰囲気は無くなり、ぼんやりとゆったりとくつろぎ始める。
今日の天気は曇りで、湿度も相まって部屋干しに向かない日だ。
何も考えていなさそうに見える彼女の横顔は、思った以上に綺麗なフェイスラインで、僕の目を奪う。
じーっとみていると、ようやく気が付いたのかこちらを向く。
「ん? お姉さんに見惚れてた?」
「……バカも休み休み言ってください」
「あはは、照れてやんの〜」
「何を言ってるんだか」
カチッと電気ケトルが鳴る。
ぶくぶくと沸騰したお湯を均等に分けて注いでいると、彼女は上機嫌そうに微笑む。
「ちなみに少年は何分待機派? ちなみにお姉さんは~」
「二分半」
「まさかの同士……」
スマホのタイマーを二分半にセットして、ネットニュースを眺める。
つまらない不祥事、タレントのゴタゴタ、バズった投稿の転載で溢れかえるネットのジャンク山は今日も今日とて最低の狂騒が響く。
こんな世界に息をする意味は果たしてあるのだろうか? ペシミズム的な思考に蝕まれていると、甲高いデフォルトのアラーム音が鳴った。
突如お姉さんはガタッと姿勢を正し、待ってましたと言わんばかりに卵を割り入れ、箸を手に取ってはずるずると啜る。
「ん~、美味しいなぁ。 やっぱカップ麺は至極!! な、少年?」
「……ネグレクトじゃない味、いいですね」
「わあ、例えが尋常の人じゃないなぁ」
隣り合い、ただ黙々と啜るだけ。
熱さに眉を顰めつつ、息を吹きかけて冷まして、そしてもう一口。
汗が額を伝っても箸を止めずに詰め込む。
よくよく考えればタダで飯を食べているようなものなのだが、咎められていないし問題ないのだろう。
「はー、懐かしいなぁ。 こうやってさ、私がくっそほど頑張って自転車でコンビニ行って、カップ麺二つ買って来て……で、お昼終わるまでに頑張ってカップ麺食べるんだよ」
「もしかして食生活、ずっとダメダメだったんですか」
「あー……まあ、そうかも」
どこかはっきりしない返事の後に、頬をぽりぽりと掻く。
照れてるような恥ずかしいような仕草の後に、首に手を当てて唸った。
何か触れてはいけないことだったのかと思ったのだが、彼女の口角が少し上がったような表情のおかげで安心した。
「学生の時、結構忙しかったんだよなぁ。 うちの母校ってとんでもなく頭良くて、未来って言葉が凄い重くってさ」
「未来……?」
「なんていうかね……実はお国の未来を担う、うら若き乙女だったんだよ。 才に溢れた、一般天才美少女! って感じのさ」
横髪を耳にかけて、麺を啜り上げる。
どうやら一口は大きいらしく、いつのまにかほとんど食べ終わっていた。
……どちらかといえば、僕の一口が小さすぎるだけかもしれないが。
もう少しあっさりしてる方が好みかもしれないが、そんなこと言っても海産物は近寄ってくれるわけでもない。
「まぁ……だからって、本物様に敵うわけないっていうかさ~。 ……ごめん、湿っぽくなった?」
「……一番小さな社会の中ですら、誰かの一番になれるわけでもないですから。 だから、少しだけ分かるかも……しれない、です」
そういうと、お姉さんがきょとんとしたような表情を浮かべた。
ああ、しくじったかもしれない。 勢い任せに発現をする自分に嫌気が差して、心臓が縛り付けられる。
顔を背けたいのに視線を離せないのは呪いか鎖か、それとも感情のせいか。
「ふふっ」
お姉さんが思わず噴き出して、雰囲気が風船みたいに割れた。
「じゃあ、似た者同士? あははっ!」
「笑うとこです?」
「そういう意味の笑いじゃないってば。 まったく~、可愛いなぁ~?」
「っ!?」
ふにゃふにゃと肩に寄りかかられる。
もしかして知らぬ間に酒を飲んで——一切酒臭くない——素面……だと?
驚愕と困惑がないまぜになって、わけがわからない気持ちに陥る。 反対の肩に一番遠い手が置かれ、そっと引き寄せられると体制が崩れる。
あれ? ——まさか、大人の女性に押し倒された?
「ちょ、流石にこれは事案——」
「おー? 初心だなぁ~」
駄目だこの馬鹿、話を聞かない。
一切意識してこなかったお姉さんの胸部のそれが、重力に従って強調されて思わず固唾を飲む。
パチンコに行く金が無ければ、下着を買う金もないという事か……。
「ふっふっふっ、知ってるか? 実はお姉さんのスリーサイズは——」
「そんなの公開しなくて結構ですって!!」
「まさか、見ただけでサイズを当てる超能力者?!」
「僕を何だと思ってるんですか」
流石にキレた様子を見て察したのか、のそのそと退いて正座で反省していますという姿勢を見せてくれた。
……数分前にこんな姿を見たばかりな気がする。
「はぁ……暇だから来たっていうだけなのに、どうしてこんな目に」
「へ~? 少年が暇なら、私も暇だろうなっていうこと~?」
「っ、そんな失礼な意図はないです!!」
わたわたと手でジェスチャーを交えながら弁解する。
そんな失礼なこと考えてたら、すぐに察されて見捨てられる。
「いやいや、流石に冗談だってば。 でも24時間366日ずっと暇だよ」
「えっ」
「平日午前はパチンコ、午後は昼寝。 土日はネット競馬、時折競艇してる。 だから結構家にいるし、いつでもウェルカムだぞっ」
「……気が向きましたら行きます」
察してはいたが、本当の本当にクズみたいな生活をしているらしい。
だが、それを聴いて何故か心のどこかの自分が安心した気がした。
……その感情が表情に出ていたのか、こちらをじっと見ながらお姉さんが手をわきわきしているのはいただけない
「少年ったら、可愛いなぁ~!! ハグさせろー!」
「だ、駄目です……」
「んなー、分かりましたよぅー……」
わざとらしくがっかりしたのち、ずるずると退いていく。
「……素直なところもあるんですね」
「え? えと……まぁ、そりゃせっかくの縁でしょ? 大切にしなきゃ~って……」
その言葉で、心が少しぽかぽかした。
ああよかった、しばらくはこのままでいられる。
今話の担当、んぎょ