その四(完)
八月末の深夜。外は暑さの内にも吹く風が少しだけ涼しくて、日中のうだるような暑気はいくらか大気に放出されていると実感する。
誰もいない道を努めて何も考えないように無心で歩く。
一、二。一、二。
それだけを唱えながらあてなく歩いた。誰もいない。虫の鳴く声だけが、森閑とした畦道に満ち満ちている。
一人きりだ。
ここには幸福も不幸もない。ただあるのは川の流れのようにうつろい行く季節の自然だけだ。
何故か落ち着いている。
雑多なもののない孤独な空気が彼にはやけに清潔に感じられて、なんぼかの安らぎに似た何かがあった。
いわば枯れた安らぎのなかでまた、ふと彼女を想い、いかんいかんと首を振る。
結局孤独がいかんのだろう。
孤独でなければ、周りに妻や沢山の友人や子供がいれば、日々が賑やかであれば過去の人の事など思い煩うゆとりはないはずだ。
雑事のなかで新しい日々を生活を充実させる事に夢中になるはずだ。
そう思いつつも、彼は決して己から交遊を求めたりはしない。大人になってから何人の人と巡り会い親しくなっただろう。
結局彼は賑やかな環境が苦手なんだろう。楽し気な空気が彼には重たい疲労と不安とを与えるのだろう。
損な性分だと思う。
ダメな奴だとも思う。
けれども仕方がない。
染み着いた性分というものがある。
四十も過ぎて、今更陽気なパーティーピープルも無いだろう。心が少しも浮き立たない。はしゃげない。
この夜道のように淡々と歩く、何もない誰もいない人生がこれまでも、またこれからもどこまでも続いていくのか。心の片隅に抱いていた憧れも今はもう遠い星の彼方になってしまった。
彼はやれやれと小さく首を振り、また黙々と歩き出す。
十分位か、しばらく歩くと、遠く小さくまばゆい光が見えてくる。
住宅街の片隅にある最寄りのコンビニである。
店の放つ何万ルクスだかの無機質な明かりも、今の彼にはたった一つの拠り所であるように思われる。
段々光が大きく強くなり、店の全体が見えてくる。
自転車が二台、トラックが一台、タクシーが一台ひっそりと光に集まる夏の虫のように静かに停まっている。
彼も夏の虫の一匹と化して、店舗の光に吸い寄せられてゆく。
深夜のコンビニは意外な位に人がいた。
駐車場のタクシーやトラックの運転手とやはり彼のようにジャージを穿いてサンダル姿のおじさんが三人並んで雑誌を眺めている。
金髪ジャージの女の子が楽し気な声で誰かと話している。笑っている。横には誰もいない。携帯だろう。
皆、孤独な面持ちをしている。
深夜のコンビニは寂しい人間を引き寄せる誘蛾灯みたいなものかも知れない。
レジには何故かいつも同じまだらに染まった白髪混じりの金髪という太ったおばさんがいる。
これがまさにすれっからしを絵に描いたような愛想も愛嬌もへったくれもないという荒んだ女性なのだ。
レジへ行っても無言である。いらっしゃいませでもなければこんばんはでもない。今にも舌打ちでもせんばかりに不健康に太った顔をしかめて、まさに仏頂面である。
またこのおばさんか…。
レジ前に並びながら、思わず心のなかで舌打ちが出た。
彼はこのふてぶてしいばかりのおばさんに会うたびに、苛立ちを覚えつつどこか気持ちが重くなるのだった。
しかしその日は少し違った。
相変わらずだるそうな面持ちで彼をにらむような目付きで接客するおばさんに、ふっと微かな憐憫の情が湧いてきたのだ。
彼も孤独を噛み締めていたので、心境が少し違ったのかも知れない。
このおばさんも不幸な人に違いない、きっと孤独のなかで心が少しずつ歪んでいってしまったに違いない。かわいそうな人だ。
そんな風に少しばかり労りの心が生じていた。
その心模様のせいだろうか、今夜のおばさんは態度が少し丸かった気がする。帰り際に無愛想な声で小さく、ありがとうございましたという声を背に聞いて、少しほっとした。この人もきっと無垢な時代があったのだ、根っ子にはその優しさが残っているはずなのだ。
帰り道、コンビニで買ったアイスをかじりながら夜空を見上げてみた。暗い夜空に小さな半月がぽつり。離ればなれに星たちがエールを送り合うように瞬いていた。
暗い部屋によっこいしょと一人呟いて帰り、そのまま寝床に入った。けれどもやはり眠れずにやがて微かに聞こえてきたカラスの鳴き声など遠くに聞いていた。
朝になり、寝不足の朦朧とした頭のままコップ一杯の水を飲み家を出た。
やはり今日の夜には大きな台風がこの辺に接近して来るらしい。
胸がざわめくような妙な焦燥感に空を見上げてみた。薄曇りの大気は未だ台風の兆候すら見せない。ただ、時折吹いてくる柔らかな風には微かに日本のそれとは違う、南方の湿った空気が感じられた。
やはり午後から風が強くなってきた。やけに慌ただしくそわそわしているうちに仕事が終わり、外に出てみると、今朝までの空気とは一変していた。
荒々しい気圧の波が猛烈な風となりぐっと押し寄せては力強く引いてゆく。
上半身が揉まれるように揺さぶられ、じっと立っていられない。船酔いに似た気持ち悪さに思わず顔をしかめる。
さすがに飲み屋街も来る台風に備えてシャッターを下ろしていて、彼は行き着けの店に顔を出す事も叶わぬまま、小雨混じりの生ぬるい風の右へ左へと縦横無尽に吹きしきるなかをふらふらになりながらアパートへと帰り着いた。
さて、どうする。
妙な動悸が心中に渦巻いている。
いつ停電するかわからないので、一寸早いが寝てしまおうと布団に横たわったものの、どうにも眠れない。
だめだ。落ち着かない。
酒だ。まずは酒である。
冷蔵庫を開けてみる。あった。ビールが二本と冷酒がある。あとは常備してある焼酎の四リッターでいいだろう。小さく頷きやや満足そうな表情になる。
あとはつまみだ。
やはり冷蔵庫を探してみる。玉子と魚肉ソーセージとレタスが少々ある。よし充分だ。
独り暮らしが長いと、多少の粗末な料理くらいは嫌でも出来るようになる。
まずはビールを開けるのだ。一口二口と飲んで、一息ついてから料理に取りかかる。
手始めに小さなフライパンに油をひき、一口コンロに火を着ける。油がパチパチいい始めたら、手でちぎったレタスと魚肉ソーセージを塩コショウでさっと炒める。やはり塩コショウを振りかけた溶き玉子をゆっくり回しかけて軽くかき混ぜながら火を通す。
名もなき料理の完成である。
作りながらもビールを飲み、一缶空いた頃に丁度出来上がる。
出来上がった料理を適当な皿に盛り、テーブルで本格的に一人酒盛りを始める。二本目のビールから始まり、冷酒になり、四リッターの焼酎甲類を炭酸やコーラで割って飲む。
料理もあらかた食べて、いい感じに酔いもまわって台風の暴風雨も気にならなくなってきたので灯りを消して横になる。
目を閉じて、今にも窓を割りそうな勢いで叩き付けてくる暴風雨の音を聞きながら、むしろ穏やかな気持ちであった。
いっそのこと、このまま何もかも彼自身さえも洗い流されてしまえばスッキリして良いのにな、等ととりとめのないことをぼんやり考えていた。
朝になり、窓を叩く雨風は大分弱くなった。
昼前には風もすっかり穏やかになり、台風一過の見事に晴れた空になった。と同時にうだるような猛烈な暑さも復活した。
幸い今日は休みである。
昼間はまだ軽く残るアルコールの気だるさに身を任せて、ずっと横になっていた。
夕方になり、陽の傾きかけてきた頃になってようやく起き上がり、海に行こうと思った。
外の暑さに顔をしかめながら、海へと坂を下って行く。十分位か、潮風が頬に触れてきた。
防波堤に腰を下ろして、ぼんやりと夕凪の海を眺める。
この辺は地域の憩いの場所であるに限らず、全国的には全く無名であるが一寸隠れた日の出日の入り何でも美しい良い景色の見られる素敵なスポットである。
砂浜の背後の防波堤は地域の人のみならず、近隣の街からも写真を撮りにくる人々が朝な夕なに行き交っている。
見てみ。子供たち。元気だねぇ、あんなにはしゃいじゃってさ…。
散歩する老婆が独り言のように呟いた。
老婆の指差す先には、波打ち際で遊ぶ男女の子供たちがいた。一人の男の子が膝まで海水に浸かって、両手に掬った水をみんなに浴びせて笑っている。
水を浴びせられた子たちもキャッキャと笑いながら水を浴びせ返したり走って逃げたりしている。
弾ける水しぶきが夕焼けに照らされてキラキラと輝いている。
良いわねぇ。昔に帰りたいわねぇ。
老婆はくっくっと笑いながら呟く。
波打ち際を跳ね回る子供たちの影が残照の砂浜に長く伸びて揺れている。
まるでかつての彼が、また彼女がその子供たちのなかに見えた気がした。
やがて日が沈み、老婆も子供たちも家路に着いた。
一人残された彼は石のように防波堤に座ってじっとしていた。
潮風と波音だけが繰り返される。もう子供たちの足跡も、引いてゆくさざ波に消されて見えなくなっているだろう。
何もかもがうつろい行く。誰もが限られた時間のなかを旅し続ける悲しい旅人に過ぎない。
彼を取り巻く日常というさざ波はまた果てることなく寄せては引いて行くのだろう。
なんてあっけなく虚しい真実なのだろう。
けれども仕方がない。
受け入れて、生きてゆくしかない。
今を明日を生きてゆくしかない。笑顔の彼女との思い出を胸に。
今はただ、もう少しだけここにいて目を閉じていたい。
静かに穏やかな潮風に身を預けていたい。
ああ…。
彼は紺碧の空にようやく瞬き出した星を見つめて、まるで今生きている証であるように深く深呼吸を一つして目を閉じると、そっとため息をついた。
そして彼の頬を一筋の涙が伝い、優しい潮風が濡れた頬をそっと撫でるように吹き抜けていった。