その二
知らなかった。
今でも元気で足は不自由ながらも幸せに暮らしていると、当然のように頭から信じきっていた。
今まで思いもしなかった事実に、彼はその夜、愕然とした。果てしなく途方にくれた。
途方にくれたまま、旧知の友の前も憚らずただ泣いた。冷静を繕う自分がいながらも、狼狽は隠しようもなく、凍り付いた微笑の瞳から雫の形になって果てなく溢れては頬を伝ってこぼれ落ちていった。
離れていてもどこかで通じていると心底思い込んでいた。元気で笑って生きていると完全に思い込んでいた。
怒り、嘆き、動揺、狼狽。次々に湧いては沈んで行く感情の嵐のなかで、気付けば心が迷子になってしまった。
ただただ切なく悲しくやりきれなかった。
いや、その時の彼の心の片隅に、ほんの微かな安堵が無かったと言えば嘘になる。
それはひどく乱暴で身勝手な安堵であり、彼自身それが内在するのを己の内に認めるのに苦々しくさえ思われた。
その安堵の正体とは、うまく形容するに言い難いが、あっさり言ってしまえば、綺麗なまま彼の思い出箱の中のイメージのまま、これまでもこれからも、もうずっと変わらないという一つの真実、すなわち彼女が現世から遠く離れたが故の理想像となり、偶像化してしまった現実についての安堵なのだろう。
そんな事を安堵する一つには、彼自身の自信の無さもあるだろう。
仮に今日の彼女と再会したとして、大体彼を覚えていなかったらどうしようとも思う。所詮は小中学生の頃の遊び友達の一人に過ぎなければ、その顔もおぼろげであるかも知れない。或いは覚えていたとして、何十年も経って、今更話す事もなく、ひどく素っ気ない他人行儀なよそよそしさを見せられたならどうしよう。彼は思い出の箱を心の奥に抱き抱えたまま生きてきた。彼女にとって、それはひどくありきたりでつまらない取るに足らない記憶だったなら、その場に彼の居場所は有り得ないのだ。
それも仕方がないさ、まぁお互い様だと割りきれるほどの現在の自身に対するゆとりやプライドは彼には無かったのである。
つまり、現在のかつかつ暮らしの惨めな自分が今日の彼女にどう映るかという重たい不安を心の片隅に抱いていたのかも知れない。
思えば、長く生きていれば人間誰しも子供みたいにいつまでも無垢ではいられない。
誰でも多かれ少なかれ、時の流れに沿って嫌が応にもすれてしまうものだ。
それが悪いわけではない。
極めて自然の現象に過ぎない。もちろん彼自身も例に漏れず、すっかりとすれて身も心も汚れてしまった。初恋の彼女だって長く生きていれば生身の人間である、酸いも甘いも経験して、良く言えば世馴れてくる。悪どく言えば多少なりともすれっからしになっていたに相違ないのだ。
無垢な優しい面影だってどう変貌しているか分かったものではない。
人間はいつまでも若くはいられない。それはそれで良い。
彼の安堵の奥底で逆に恐れていたものは多分魂の無垢さについてであると思う。人は容姿も大切だが、心の若さ美しさ優しさがより重要である。
心の根っ子までひどくすれてしまったならば、もう取り返しがつかない。
仮に今日彼女が生きていて、彼と再会したとして、どうだろう。
彼はきっと一時は若者のようにときめくだろうと思う。しかし、いくら綺麗な顔立ちで素敵な服を着て綺麗に身繕いもして、なんなら小さな整形の一つもしてみても、その必死の上っ面の一枚すぐ下にある虚しい虚栄心がすれてしまった心が見え隠れしてしまったならば却って侘しくつまらない思いに、かつての優しい素朴な眼差しを慕い寂しくなるのは必定だろう。
何言ってんだ。とも思う。自分を鏡で見てみろ。人の顔だの魂だのなんかどの面下げてごちゃごちゃ言ってやがるんだ。いい加減に生きてきて醜く弛んだ生気のない顔をしているくせに、何を考えているのだ。
冷静な自分ならきっとそう思う。しかし、もし彼女がフッと現れたなら、彼は良い年をして情けない話だが素面で冷静さを保つ自信がない。どこかで再会を恐れていたのだ。
つまりは現在のパッとしない自身にたいして彼女がそれなりに普通で平和な良い暮らしをしていたならば、あっという間に化けの皮が剥がれて、優しい彼女の事だから表面は取り繕ってくれるだろうが、内心落胆またがっかりされてしまうかも知れない。
彼女の彼への失望、幻滅。それならまだよい。
或いは彼女が落ちぶれていたらどうしよう。蛇のような男にそそのかされての退廃的な生活の果てに貧しさから身も心も自棄になって身売りでもしていたならばどうしよう。
彼には彼女の荒んでしまった顔を直視する自信はない。
つまりは彼の思い出の中の彼女とまた彼女にとっての彼のイメージとが解離していた場合の自身とまた彼女の抱きかねない失意を恐れていたのではないか。
全くもって身勝手な話だが、人の奥底に在った心を分析してみれば、当然綺麗事だけでは済まない。
彼女が亡くなっていたという重たい事実に、受け入れられなくて、混沌とした感情が渦巻いている。それだけ彼自身も気付いていなかった彼女への秘めたる思慕の強烈な念が在ったという事なのだろう。
若くして亡くなったという事は、すなわちすれた姿の、もっと言えば荒んで汚れてしまった初恋の彼女を見なくて済んだとも言える。思い出箱の中の彼女はいつもこれからも優しい眼差しと無垢な面影とに満たされていて、それは既に永遠と化しているのである。
思えば虚しくも幸せな事かもしれない。
無論生きていた方が良いに決まっている。仮にいくら汚辱にまみれていたとしても、貧しくみずぼらしく落ちぶれていたとしても、今を今日を生きている方が素晴らしく素敵な事に決まっている。
そんな事は、わかりきるほどわかっている。
しかし、そんな身勝手な安堵を覚えながらも、彼女の唐突すぎる喪失は彼を果てしなく途方に暮れさせてしまった。
思い出の中の彼女とこれからどう向き合っていけば良いのかわからず、ただただひっそりと泣いた。
歩きながら、上を向いて、泣いた。
一人歩きながら、なぜか、生きているはずの自分が亡くなって久しい彼女においてけぼりを食ったような気がした。
混沌としてよくわからないこの世界に、広い夜空の下に、ただ一人取り残されてしまったような不思議な寂寥と失意と不安とを込み上げてくる涙と共にひしひしと痛感した。
翌朝目が覚めて、全てが夢だったような気もした。けれども鏡に映る泣き腫らしたむくみ顔を見て、ああ…やっぱり夢じゃなかったのだ、と妙にしみじみ納得した。
彼は黙々と身仕度を整え、黙々と出勤した。毎日のルーチンワークを黙々とこなす事が今の彼には救いにも感じられたのだった。
黙々と淡々とただ機械のように働き、淡々と酒を飲み、淡々と眠れぬ夜を過ごす。
同じ日々を繰り返し、やがて冬が過ぎ春になり、春が過ぎ初夏になり、早い梅雨入りから猛暑の夏になり、残暑と言われる時期に入ってもまだまだ暑いまま今に至っている。
彼はこの間ずっと黙々と虫のように生きてきた。何かをじっくり考えるのが怖かった。
ただ粛々と酒を飲み、やがて少し酔って少し泣く。
彼の心は光の射さぬ長い夜の闇に包まれていた。何日も何ヵ月も時間が止まったまま、日々にむりやり押し流されている。
何も考えず、また考えられなかった。
冷たい現実への拒絶反応かも知れない。
考えて、寂しさのるつぼにはまるのが怖かったのだ。もの思う代わりにめっきり酒量が増えた。酒に酔っている時と疲れ果てて死んだように寝ている時だけが幽かに幸せだった。
彼は以前にもまして府抜けてしまっていた。