その一
夏は暑い。
毎年そういうものだと分かってはいるが、じゃあ平気なのかと言われると全然平気ではない。
産まれて四十回以上体験しているはずなのに、体が馴れるという事はない。
八月末、陽も落ちて辺りは薄暗いというのにこの暑さはなんだ。
ああ…暑い。
彼は今日何度目かの声にならない呟きを心中に呻いていた。声には出さない。出しても意味ないことは声には出さない。
しかし暑い。もう午後の七時を過ぎていると言うのに、大気は未だその熱気をもて余している。
信号待ちでじっとしていても流れ落ちる汗が止まらない。
思えば今年はやたらと早く、六月の内に梅雨が明けてしまっていきなり猛暑の夏になった。それから七月八月の下頃になる今に至るまで朝から一日憂鬱な暑さが続いている。
誰もがマスク姿でぐったりと行き過ぎるなかで、彼もまたひどくぐったりとした面持ちで息苦しいマスクの下に疲労と侘しさと苛立ちとを隠しながら駅前の通りに向かっていつもの道を歩いていた。
年のせいだろうか。
去年までとは気持ちの張りが全然違う。
気力が、ない。
いや、ぐったりしているのは暑さや気持ちの問題だけではないのだ。
この冬、彼はとある衝撃的な事実を知り、その事実に狼狽し困惑し、それ以来ひどくぐったりとしてしまったのだ。すっかり府抜けてしまっていた。
初恋。
木石ならぬ人間ならば、誰でも一度は体験し、またその多くは甘くもほろ苦い過去として心の奥の思い出箱にひっそりと大切にしまわれているはずである。
彼もまたその一人だった。あの冬の日までは。
彼はその日、古くからの故郷の友人に会った。
そして意外の事実を知ったのだ。
彼が今日まで心の奥の思い出箱にしまいつつも、その儚くきらめいた面影を忘れた事は片時もない、そんな初恋の相手はずっと昔、二十年以上前に悲しくも病で亡くなっていたのだ。
小学校の入学式でどこか切なさを覚えるような美しい少女に出会った。
それが彼女だった。
彼は思わずハッとした。
彼女は一寸左足を足を引きずるように歩いていたのだ。
同じクラスになった彼は、すぐ近くの席に座る彼女を最初は直視できなかった。恥ずかしいような申し訳ないような気がしたのだ。
やがて彼女の方からいとも簡単に声をかけられた。
おはよう。元気?
可愛い声だった。なんと話したのかはもう覚えていないが、すぐそばに笑顔の可愛い彼女が居ることがひどく嬉しかったのを彼は覚えている。
なんの病気か知らないが、生まれつき体の弱かった彼女はしばしば学校を休んだ。
彼を含めたクラスの仲良しの男女数人で良く彼女の家に御見舞いがてら遊びに行ったものだ。
気丈に微笑む彼女に会うのが楽しみだった。彼女の儚い笑顔、それは体が弱いけれど負けない強い心を持っている、そんな彼女特有の他者への慈愛に満ちたどこまでも優しい微笑みだった。彼は彼女に会うたびにその優しい笑顔に会うたびに胸が切なくも嬉しかった。
毎年夏になると地域の祭りが大きな寺で開催される。田舎の子供にとっては年に一度の胸がときめく行事であった。
やはりクラスの仲良しで祭りに行く。そのなかに彼女もいた。彼女は毎年、母から譲ってもらったという綺麗な浴衣を着ていた。
多くの人が行き交う夜祭りに、左足をかばうようにそっと歩く可憐な浴衣姿の彼女は一際目を引いたものだ。
笛や太鼓の賑やかな音色。金魚すくいに射的。綿菓子にリンゴ飴。
彼は恐る恐る彼女の手を握った。彼女もそっと手を握り返してくれた。
夜の境内を照らす屋台の灯りは少し神秘的でもあり、その華やかな灯りに照らされた彼女の一寸大人びた微笑の横顔が忘れられない。
小学一年から八年半。中学二年の夏休み直前に彼女がフッと転校してしまうまで、彼女は彼にとってずっと身近で特別な存在だった。
幼い彼が胸の底に抱いた仄かなときめきは、二人の成長に伴って微かな恋心になっていた。それだけに、夏休み前、転校する日、最後に彼女が手を振って別れた時の後ろ姿が、今もはっきりと彼の脳裏に焼き付いているのだ。
今にして思えば、生まれつきの病気が思わしくなかったが故の転校だったのだろう。
笑顔で手を振りながらも、病魔が怖く不安だっただろう。
転校して僅か四年。
まだ十代の青春真っ盛りの頃に、恐ろしい病魔と闘い続けた彼女は転校先近くの大きな病院の一室で両親に看取られてひっそりと亡くなっていた。