僕だけがいない
あの呟きは、やはり聞き間違い何かじゃなかった。
と言うのも、朝5時には起きて心さんのお手伝いをしていた僕に、月さんは、
「心の手伝いが終わったら、道場迄来なさい」
と言ったのだ。
心さんはと言うと、心なしか少し嬉しそうにしている。当時の僕は、その事の意味など解る筈もなく、ただただ頭に疑問符が浮かぶだけだった。
恐ろしく土地の広いこの家は、道場迄完備している。
小高い場所に建てられていて、家までは長い階段を登らなくてはならなかった。
さながら戦国時代のお城のような外観の作りに、違いが有るとすれば、平屋で天守閣が無いことだろうか?
道場に行くには、母屋と繋がっている渡り廊下を渡らなくては行けないが、子供心に、この廊下が怖かった。
まるで、異世界にでも繋がっているかのように思えたからだ。
それ以外は、昔の日本家屋そのままに、庭も良く手入れがされている。
ちょっとした観光地や旅館並の庭だった。
景色を眺めながら、僕は少し考え事をしていた。
道場とは、心と体を鍛える場所ではないのか?
だとしたら、僕はここで月さんに何を鍛えられるのだろうか?
心か?……体か?……それとも両方か?
幼いながらに空色が的確な答えを導きだしていると、
あっという間に道場までたどり着いてしまった。
もう月さんは来ているだろうか?
そんな事を考えていたが、彼女はまだ来てはいなかった。
良かった………待たせてない、子供らしくない気遣いをしていた空色が、広い道場をキョロキョロ見回していると、遅れて道場に入ってきた月さんの格好はTシャツにジーンズといかにも軽装で、今から体を動かす人の様ではなかった。
まるで居間で寛いでいる格好のままだ。
この場所に合わないラフ過ぎる格好だけれど、何故か月さんだと様になってしまうから不思議だ。
僕の方がこの場所に違和感があるだろう。
合わないピースを無理やり捩じ込んだ感じは、母との暮らしを思い出させた。
あそこに、僕の居場所はなかった。
だが、ここでは違和感こそあれ、僕の居場所を作ってもらった。
だからとて、月さんは鬼で、僕は人間だ。
格好何て些細なことなのかも知れない。
「空色、修行する前にお前に一つ試したい事がある」
不敵に笑いながら月さんは僕に言った。
試したい事とは?……疑問が浮かばない訳じゃ無いけどでも、聞く必要何てなかった。
僕は全面的に僕をあの場所から連れ出してくれた月さんを信頼している。
だから、月さんが試して見たいと言うなら非何て最初から無かったんだ。
「はい!月さん。僕は何をすれば良いですか?」
「………」
僕の問いかけに暫し月さんは無言だった。
月は内心大きくため息をつきたい心を押さえ込む。
仕方がないのかも知れないが、空色はもう少し我が儘になっても良いのだ。
幼い体に、聞き分けが恐ろしく良すぎた。
環境がそうさせたのだろうが、それはとても悲しいことのように、鬼の自分にも思えたのだ。
「……あの?月さん?」
訳が解らないなと言った風に少しの不安を滲ませた顔を見せる。
「……いや、何でもない。これから私の一族に伝わる儀式を始める」
何でもない、何て何かがあると言った様なものなのにそんな事しか言えなかった自分への苛立ちは辛うじて抑えた。
「儀式………ですか?」
やっと、子供らしい不安な表情を見せる空色に表面は普通を装ったが、心の中は小躍りしたい気分だった。
そうだ、それで良い。
「そう不安そうな顔をするな、痛いとか、辛いと言った事じゃない」
思った事をそのまま言葉にする事が月の良いところであり、困った所なのだが、心とは裏腹な言葉にはなってしまったが、今は空色の方が大事だった。
空色を引取、月もまた少しずつ良い方に変わって要ることに本人は気付いていなかった。
最も、心は空色の変化も月の変化にも気付いていたがそれを二人が知るのはまだ先の話だった。
月は道場の丁度中央に空色を座らせると目を閉じる様に言った。
だから、空色が知っているのは目を閉じる前までの事で後の事は、それ以外の五感で感じた事だ。
月が何か空色には解らないな言葉を呟き始めると、暖かい風が空色を包んでいった。
その後に感じたのは目を閉じていても感じる明るい光。
そして水の中にいるような浮遊感。
最後に急に足元の大地が無くなった様な落ちる感覚。
最後の落ちる感覚以外は、不安感などはなく、寧ろ心地好さだった。
それらを感じた後少しして、月は空色に目を開けるように言った。
目を開けてみて空色は驚いた。
何故なら、犬や猫、鳥や昆虫に至るまで沢山の生き物が空色を囲む様に居たのだから。
「…………月さん、これは何ですか?」
素直な感想だろう。
だって、この場にいるのは何故かいる生き物たち以外は空色と月だけなのだから、消去法で聞けるのは、月にだけなのだから。