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プロローグ

それは冷たい夜だった。


 枯れた山には(おびただ)しい量の血が地へと吸われて行き、夜風に乗って塹壕の中を強く鉄臭い死臭が流れる。

 砂埃舞う浅い傾斜には焼けた鉄と人間だった物が埋め尽くすように四散され、まるで地獄さながらの光景を満月が照らしていた。


 塹壕(ざんごう)の冷えた土の上で身を丸め、微かでも温もりを求めて敵が残した歩兵銃を全身で包み込む。

 静寂が聞こえる筈の耳奥にはとめどなく頭を揺らしていた大砲の爆音が馴染んでしまい、鳴りを潜めたその音が今だに遠く遠く反芻(はんすう)していた。

 疲れた瞼が痙攣けいれんし、睡眠を求め何度も落ちて行くが、その裏の暗闇には昨日までの本物の地獄絵図が焼き付き、視界がそれを写し出す度にあの臨場感が戻ってくるようですぐに意識を引き戻してしまう。


 指先の感覚があったのはいつまでだったであろうか。

 銃身を握り続けていればいつの間にか疲れなどは忘れてしまい、血に塗れた両手は石像と入れ替わったかの様に冷たく動かせることもない。

 祖国ではもう春の頃だというのにこの半島ではその季節を忘れ去ってしまったのか、ただでさえ冷たい北風に海風も加わり身を切り裂くような凍てつく寒さが身体中を蝕んだ。


 両腕で膝を抱え込み、幻聴が続く耳を肩を吊り上げ力任せに塞ぐ。頭を両膝の間へと埋めると頬と同様に冷たい銃身を感じた。

 恐怖を追いやる一心で血の味と匂いを忘れるため、口と鼻から息を吸うことを止め暗闇を恐れその双眸を乾くのを構わず見開く。


 そしてやがて、己の存在を忘れるために考える事も止めた。

 氷の様に冷たく固まった心にはそれは容易に成し得げられ、段々と自らの何もかもが薄れてゆく。

 霞んだ意識の中、先まで鳴り止まなかった爆音もやっと彼方へ消え、無の世界へ行き着いたかのように何もかもが遠退いて感じた。


 底の無い深淵。ふと気付けばそんな終わりの見えない闇を目前に立っていた。誘われるように先の見えない闇の奥へと視線が吸い込まれる。きっとあと一歩踏み出せばその中に全てが消えるのだと理解するが、妙にその気持ちは落ち着いていた。

 そこに踏み入る恐怖はない。ならば迷う必要もない。

 体は氷のように冷く冷く固まっていたがその一歩目だけは身体が易々と動かせる、そんな気がした。


 ——そうか。これで……これで、やっと……。


 …………すまない……。


 それはほんの僅かの逡巡だけだった。

しかしその刹那の間、心の奥底に言い表わし様の無い何か予感めいたモノがふっと宿る。


 それはまるで一本の糸が魂を繫ぎ止めるかのように深く沈んだ意識を引っ張り、一つの感情を小さく湧き上がらせた。

 死への恐怖ではない。愛しさでもない。哀しみでもない。憂いでもない。

 静寂に包まれた中、ただただ不思議な安心感を感じていた。

 その何の脈絡も無く天命が下されたかのような唐突に芽生えた感情に僅かな戸惑いが生まれる。

 頭に残っていた冷静な部分が何故と発端を探ぐるが、それも直ぐに寝起きの如く朦朧(もうろう)とした安心感の中に薄れ溶けていった。


 ——そういえば何か予感めいたモノを感じた……。 


 浮いた頭の中で何気無く思い出す。

 既視感の全く無い感覚だが、これこそが予感というものだと本能的に悟る。

 それはまるで宿命の始まりを告げるかのような、又それは運命の枝が絡み出す予兆のような、何とも不可思議な先見の感覚を直感的に味わった。


 月光が照らす夜の静寂が今更のように耳に入る。


————。


予感が告げた。己を包んでいるこの間に憶えがある筈と。そして此の先なにが起こるのかも。


 そう、そうだ……知っている。 ぼんやりとだが、何故か。

 なにを知っているのか分からない。だが、いま訪れているのものがこれより永劫に一度も忘れるべくもないと、予感が形ない言葉で囁く。

 加え此の先にナニがあるのかも……。


 そうだ……今、己は世界と種を隔てた。

 そして『《《望み》》』を述べる。

 今、ただそれだけのために死により紡がれた禁忌の契約が世のことわりを越え、己()へ永遠を思わす静寂を(もたら)しているのだ。


『あなたは、何を切望するの?』


 高く澄んだ少女の声が内から響く。

 穢れに触れず、恐怖を知らず、そしてまた喜びや哀れみといった感情さえも彼方へと置いて来たような、空虚で混じり気のない幼く澄んだ女性の声。

 

 その声は閉じた耳からではなく、己の体の中心から全身へと響き渡るかのように感じ取った。

 その声は何故か冷たく固まった胸の中を揺さぶり熱を与え、忘れかけた意識を衝き動かす。


 己の存在を思い出したかのように鼓動が戻ってくる。

 鉄臭い空気を吸い込み、乾いた瞳を潤す。海風の唸りが聞こえ始め、体の隅から隅までに寒さを感じた。

 だがその感覚に震える間も無く、頭の中は目前の先のことで埋め尽くされていた。

 聞こえる筈の無い声が何処から発せられたか、直感的に理解したように自然と視線がそこへ向かう。


 月を見上げるようだった。塹壕の丘上にちょうど月と被さり、此方を見下ろすようにその少女は立っていた。

 月光による影で顔の造形などは分からない。だが、理想的なまでに美しいことは分かった。

 その身に纏う衣類は一切なく、影に隠された輪郭りんかくはまるで理想像を追求された彫刻のように滑らかな曲線を描いている。

 細く小柄ながらもその曲線は豊かで、風に揺れる光を透かした長髪は軽く(たお)やかに宙へ広がっていた。


 少女を写したその光景はまるで一枚の絵画のように美しく幻想的に魅せさせる。

 だがしかし、それは歪で不気味でもあった。

 何故ならば黒い影に覆われたその輪郭へ、生々しく浮かび上がるものがあったからだ。


 それはあかあかく、滑らかなキャンバスに幾重(いくえ)もの幾何学模様をかたどった線が真っ赤に(きら)めいてきた。


 手足の先々から奇妙な文字列が規則的、連続的に身体の中心へと向かい、とぐろを巻くように円を描きながら心臓の上へと行き着く。

 唯一首より上にはその模様は無いものの、身体の隅々まで余白も無くなだらかに描かれたその朱い線によって、まるでその身はこの模様を彫るためだけに作られたようにも想像させる。


 線は芸術的な輪郭の上で脈動するかのように活き活きしく揺れていた。

 それは命が輝くように朱く紅く。血で覆われたように朱黒く、身を焦がす衝動を宿したかのように鮮やかに紅く燃えている。


 異様な光景だった。

 美しい芸術品の上に血肉をへばりつかせたかのような惨たらしく思う光景であるが、それが何故か一つの完成形のように調和を生み出しており、清雅(せいが)の中に惨烈(さんれつ)さが混じり合った奇妙な知覚をさせ何故か目が離せない。

 その歪な絵画へ自身の全てが乗っ取られたかのように、熱い目を潤わせ、ただただ惹きつけられていた。


『あなたは、何を切望するの?』


 少女は口を開くことなく、先と同様の声振りで語りかけてくる。

 その問い掛けへと何故か意識なく口が開き、己自身が定まっていない望みを声に出そうしていた。


「ぁ、ぁ……」


 しかし、漏れ出したのはカラカラに枯れた息の根だけ。無意識に再び口を開け息を吸い込むが、漏れ出るのは産声にさえ至らない浅く不規則な呼吸。

 そんな己の弱々しい様を不審がるでもなく、まるで心を読み取ったかのように理解したと少女が微笑んだような気がした。


 そしてついに少女の口が開く。

 彼女の肉声が擦り込み、縛り、そして優しく包み込むかのように頭に響いた。


「……わかった、契約を受諾した。森羅万象、無は有へ、有は無へ。世のことわりは違える事は無く、秩序は守られ成し遂げられる……。しからば、我らが罪は数多の魂と共に、今よりその秩序無き(はて)へと(てつ)を踏み始めん——」


 朱く紅く、空を覆う深い闇へと血の月が不気味に輝き出す。

 月はまるで神から抉り取り掲げられた朱い心臓の如く、終わりと始まりの黄昏の色に世界を紅く染め上げていた。




 忘れる筈もない。

 祖国より遠く離れた北の大陸で約6000人余りもの命が流れた日。

 西暦1904年の春過ぎた頃。


 ——それは冷たい夜だった。

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