プロローグ編
俺の前には幼い少女がいる……しかし、手を伸ばせばすぐそこのようでもあるし、地平線の遥か先にいるようも感じている。
そもそも、俺は彼女の姿をはっきりとは認識できてはいない。 霞のかかったような向こうに朧げなシルエットだけが視えている。 だが、その少女が誰なのかは理解し出来ていた。
俺の婚約者であった、あの女の子だ。
「……………」
彼女の声は聞こえないが、言葉を発しているのは理解出来ていた、同時に視えていないはずの表情もだ。
それは負の感情、俺に対する、怒り……恨み……憎しみ……それらが入り混じっているようなものに感じられるが、それとは違うようにも思えて良く分からない。
それらはこの身体にナイフで抉られているかのような痛みを与えてくるが、俺はそうされて当然なのだ、いっそこのまま本当に全身を抉られて死んでしまいたい。
「……くん……」
彼女が俺の名を口にする。
「僕ね?……くんの……だから……」
少女の笑い声が響く、思わずゾッとするくらいに冷たい笑い声だ。
「……僕との婚約は絶対に取り消してあげないよ?……」
その直後に、視界がブラック・アウトし、続いて意識も失っていった……。
――3月20日――
家の門を出ると、そこにはいつも通りに彼女の姿がある。
茶色い髪を長く伸ばしたセーラー服姿の少女は、「おはよう、晴夜君」と笑顔を向けてくる。 その笑顔は、よくは覚えていないが昨晩に悪夢を視た様な気がして少し憂鬱になっていた気分を吹き飛ばしてくれた。
俺の名は天野 晴夜、運動は少し苦手だが成績はそこそこという普通の中学二年生だ、正確に言えば今日まで中学二年生というべきかもしれない。
「今日は三学期も終わりの終業式だね? あと一日……じゃなくて半日か? がんばっていこうね?」
青空 春香という名前のこの少女は、俺のお隣さんで同い年のいわゆる幼なじみというやつだ、そういうものであれば通う学校も同じなのは必然だろう。 そしてクラスも同じというのもありえない偶然ではないといえる。
「頑張るも何も、終業式と後は冬子姉さんのホーム・ルームだけだろ?」
言いながら歩き出しと春香も並んで歩き出す、小学校の三年から変わらず続く日常の光景だ。
「……てか、終業式なんだよなぁ……んでもって春休みが終わったらもう三年生……」
「ん? そうだけど……?」
「そのタイミングで音鳴さんが席を変えた……どう思う?」
音鳴さんとは俺に左隣の席の女子だ、男女交互に列になっているのだから右隣も女子であるのは当然なのだが、その女子とはこの春香なのである。 流石にここまでくると明らかに作為的と言うか陰謀めいているとは思っている。
「でも、前から黒板が見辛いって言ってたよね?」
「そうなんだが……だからって昨日席を変えるか?」
三年生になっても、教室こそ移動はするがメンバーや担任が変わるわけではないので問題は生じない。 しかし、ならば春休み明けでもいいはずなのだ。
そう言うと春香もやっと不思議に思ったようで、「あーそうだよねぇ……?」と首を傾げる。 春香は特別美少女というでもないが、そういう仕草は可愛らしく、異性を意識しないでもない。
それでも何だかんだと変わらない日常を過ごしているので、お互いに仲の良い幼なじみであってもそれ以上でもそれ以下でもないのだろう。
「ま、まぁ……冬子さんだし気まぐれって言うか気分て言うか……そういうの?」
「まあ、ありえないでもないけどなぁ……」
実際のところ意図があったとしても、それが何なのかというのが思い付かない。
そんな事を話しながらしばらく歩いていると、「晴夜兄ぃ~」という明るい女の声が聞こえて振り返れば、そこには赤いランドセルを背負った黄色い髪の毛の女の子が駆けてくる姿があった。
「千秋か、おはよう」
「おはよう、千秋ちゃん」
俺と春香があいさつをすると、「おはっよ~」と彼女もあいさつを返してくる。
芙容 千秋、同じ市内に住む俺の従妹の女の子だ。 今は小学五年生で春休み明けには六年生になる千秋は、昔から俺に懐いてきてよく一緒にも遊ぶ。
従妹でもあるが、幼なじみのような関係でもあると言っていいかも知れない。
「千秋のとこも今日が終業式だったか?」
「うん、そうだよ~」
現在俺と春香が通う中学校は、かつては俺達も通い今は千秋が通う小学校とほぼ同じ方向で互いの距離は歩いて五分くらいだ。 だから、こうして出くわして緒に登校する事も多い。
「……ん? どうした千秋……?」
何やら楽しそうにニヤニヤしながら俺の顔を見上げているので聞いてみると、「ん~~? 何でもないよ~?」と答えるが、俺も伊達に従妹はやっていない。 こういう顔をする千秋は必ず何か企んでいるのだ。
しかし、千秋は決して他人が嫌がる事をするような子でもないからこの場で無理に聞き出そうとは思わない。 同じように考えているのだろう春香が「……どうしたのかな?」と肩を竦めながらこっちを見てくるのに俺は、さあ?という風な仕草を返してみせたのだった。