8月のオーバーチュア
私は自室のベッドでいつもの朝を迎えた。枕元の携帯電話は午後二時を示し、カーテンの隙間からは夏の暑い日差しが差し込んでいた。その光の線は宙に浮かんだ埃を妖精のように照らす。私は大学三年生、今は夏季休業の最中である。とは言っても、何か特別やることがある訳でも、そう言った友達が居ない私にとっては退屈極まりない時間であった。
「あっ。」
そう言えば大学で借りた本の返却期限が今日までだった気がする。私は借りていた本を急ぎながら無造作にトートバッグに詰め込んだ。
八月の空の元、私は仕方なく外出することにした。普段、こんな馬鹿みたいに暑い中を出掛けないのだが、返却期限が今日までなのだから仕方がない。前期の期間中に返却しなかった私が恨めしかった。
相変わらず外は灼熱地獄で、少し歩くだけだと言うのに汗で服が張り付く。辺りで泣き散らす蝉も余計に鬱陶しく感じる。そんな事もあってか家の近くの公園には誰一人として子供が居なかった。多分、彼らは冷房の効いた家で最新型ゲームでもしているのだろう。時流とはそう言うものなのかもしれない。
大学までの道のりの中で、丁度半分を過ぎた辺りだろうか。白いワンピースに麦わら帽子を身に纏い、右手にクマのぬいぐるみをぶら下げた少女が横を向いて立っている。見たところ四歳前後だろうか。少女の視線の先は、ショベルカーなどの重機が動き回る住居の解体の方に向いていた。その場所には、もう既に一軒家の跡形はなく、木材や瓦礫が散らばるばかりであった町の一角の歴史が静かに崩れていくまさにその瞬間であった。
じろじろと解体現場を見ていただからであろうか。少女はこちらの方を見つめていた。その透き通るような瞳をよけるように、私は平静を装い少女の方に近づき横を通り過ぎようと歩き進める。近づくにつれて少女の様子が分かってくる。少女はまるで置物のように無表情でこちらを見つめていた。
「ねえ、どうしたの。」
少女が口を開いた。まさか話を掛けられるとは。相変わらずの無表情顔で発せられたその言葉に私は一瞬身構えてしまった。だが直ぐに気付かなった振りをして前に進む。私は拳を握りしめ、滴る汗を我慢しながら少女の横を通り過ぎた。
「ねえ、どこ行くの。」
何かがトートバッグを引っ張っている。「あぁ…」振り返らなくても何が起きているのか分かる。振り返ると案の定の光景が広がっていた。仕方なく膝を付き、少女との目線の位置を合わせる。確か子供と話すとはこうした方が良いと何かで言っていた気がする。
「お姉さんはどこ行くの。」
「お姉さんはね、今から図書館に行くんだよ。」
「『としょかん』って。」
「えーっと、文庫本とか漫画とか…、あ、絵本とかがあるところ。」
「絵本とかあるんだ。」
少女は見た限りでは一人ぼっちだった。この年頃、それもこんな真夏である。普通なら親御さんが同伴していても良い筈だろう。一体、一人でいるのはどう言うことなのだろうか。あまり踏み込みたくはないが、好奇心に任せて聞いてみる。
「それよりお母さんとかと一緒じゃないの。」
「はぐれたの。」
「はぐれたのって?」
「居なくなっていたの。」
「あー。」
なんだかとんでもないことに巻き込まれそうな気がする。こう言う時はどうするべきだっただろうか。確か少女を保護したら直ぐに警察に通報した方が良かったような気がする。
「取り敢えず…公園行こ?」
冷静に状況把握をする為に、少女を連れて一度通り過ぎた公園に戻ることにした。
日陰のベンチに少女と共に腰掛ける。少女は緊張なのか性格なのか口数が少ない。移動してる際にも何か好きなことを探ろうと話題を振っては見たのだが、「そう。」だとか「うん。」だとかの返事ばかりで少女のことはイマイチ分からないままだった。やはり子供の扱いは大変である。まあ、突然泣き出さないだけマシであるのだが…。
「それで、お嬢さんの名前を教えてくれる?」
「さきえ。」
「へえ、『さきえ』ちゃんって名前なんだね。それでおうちの場所は分かる?
「わかる。すぐそこ。」
「あ、そうなんだ。じゃあ、お母さんといつはぐれたの?」
「分かんない。気が付いたらいなかった。」
「それじゃあ後は…。」
私達の会話はまるで一問一答だった。しばらくそれを繰り返してみて分かったことは、少女はこの辺りに住んでおり、母親とはぐれてしまった事。そして少女は母親に早く会いたいが、いつか帰ってくるだろうから外で時間を潰していたと言う事ぐらいだった。
「そのクマのぬいぐるみってどうしたの?」
「昔お母さんが誕生日にくれたの。宝物。」
近くで見て分かったのだが、そのぬいぐるみは所々の生地が傷み、糸はほつれ、なかなか年季が入っていた。
退屈なのか、少女は長さが足りず地面から浮いた足をブラブラと揺らしながら、遠くの青空に浮かぶ入道雲を見つめていた。
「雲好きなの?」
「そんなに好きじゃない。でも形がちょっとずつ変わっていくのは好き。」
「そうなんだ。お姉さんは雲好きだけどなぁ…。」
適当に受け答えをしながら改めて少女の様子を見つめる。病的なほど白く細く伸びる腕、ワンピースの裾の柔らかなシワ、少女の右手に握られたままのクマのぬいぐるみ。どこを切り取ってもお人形のようで絵になるような気がする。もし、写真を撮り、イベントなどに『夏』と言うタイトルで応募すればきっと何らかの賞も夢ではないような気がする。だがまあ、写真自体にあまり興味はないし、近年はプライバシーにも五月蠅い時代だから撮ることはしないが。
しばらくの間二人はじっと空を見上げていた。最後にこうやって空を見つめたのは何時だっただろうか。中学生? それとも小学生? 気が付けば私はもう二十歳超え、空と言うものを見ることはなくなってしまっていた。心の奥底ではこうやって何も考えず空を見上げ続けていたいのだろうけど、背筋は大きくなり、年は重ね続ける一方で、社会がそれを許してはくれなくなっていた。私はどこからか湧いてくる漠然とした不安を押し殺し、ただ目の前に広がる空に染み出した青空を見つめた。
そんなことをしていると、不意に二人の沈黙を一つのバイブレーションが破った。どうやら私の携帯にメールが来たようだ。宛名は大学図書館で返却の催促の内容だった。気が付けば時刻は午後三時半、どうやら長い間空を見過ぎていたようだ。少女は焦った様子をする私を見て不思議そうに首を傾げる。
「どうしたの?」
「いやー、実はこれから色々と用事があって、お姉さんそろそろ行かなければ行けないんだ。」
「行っちゃうの?」
覗き込んだ少女の瞳と目が合う。少女をここで一人にするのは何だか心配ではあるが、だからと言って返却期限を破る訳には行かない。こう言う時、子供の無垢な言葉は卑怯だと思う。私は周囲を見渡す。
「ちょっとここで待っていてね。」
「・・・?」
私は丁度視界に入った公園端に設置された自動販売機で適当なお茶を買い、急いで少女の小さな両手に握らせる。
「取り敢えずこれあげるから、私はもう行くね。もしお母さんが帰ってこなかったら、交番まで行くんだよ。それじゃあね!」
私は少女の返事など待たず駆け出していた。
自分でもこんな別れ方をするのは悪質だと思う。走りながら振り返る。私を止めようと伸び出された少女の細い腕が遠くなっていく。後ろめたさが襲ってくる中、私はそれを見ていない振りをした。私の行動を嘲笑うかのような蝉の鳴き声が響く中、逃げるように駆け続けた。
大学の図書館に辿り着いた後、私は直ぐに本を返した。最近はどの図書館でもバーコード式になっていて、窓口に行かなくても本を返せるようになっている。あまり人と関わりたくない私にとっては非常に便利である。
「あ、三島さん。こんな所で会うのは珍しいね。勉強しにきたの。」
「あ、石川先生。こんにちは。」
不意に掛けられて声の主は私のゼミの教授だった。彼は地域の福祉について研究している。私が彼のゼミに入ったのは「福祉」に興味があると言うわけではなく、先輩方が「一番楽だよ」と唆したからであるのだが、いま私は彼の元で地域福祉について学んでいる。
「石川先生は今何しているのですか?」
「今は自分の研究テーマについて調べているんだ。まずはそのための情報集めしてみているんだよ。ほら、最近虐待だとかの話題が多いから、新聞の記事を集めているんだよね。三島さんは?」
「あ、私ですか。私はただ本を返しに来ただけです。」
「じゃあ今暇だったりする? 暇ならちょっと手伝って欲しいんだよね。」
「ええ…。」
私は教授に連れられて教授の部屋に入った。相変わらず教授の部屋は書類で散らかっている。面倒事が嫌いな私にとって、こんなことはあまりやりたくはないのだけれど、後の自分の評価に繋がるのであるならば断わる訳には行かない。
教授の机にはこの町の地図が広げられていた。その地図の端くれには私の家も写っている。どうやらこの地元の地域福祉の研究をしているのが目に見て取れた。
「それで何すればいいのですか。」
「あーちょっと待ってね。確かこの辺りに…。」
彼はそう言うと棚からマーカーペンと一冊のバインダーと取り出し、私に手渡した。中を開くとここ二十年間に起きた児童虐待のニュースが丁寧にまとめられている。書かれているのは事件時の家族構成、日時、概要、支援者、そして住所。何をするべきか私は大方察しが付いた。
「そこに載っている事件の場所を一個一個地図に印を付けて欲しいんだ。終わったら何かお菓子でもあげるよ。」
仕方なく、私は黙々と作業を始めた。印をつけながら軽く資料に目を通す。どれも悲惨な事件ばかりで気分が悪くなる。そして年が新しくなるにつれその件数は増え始めていた。私の住む町で、私の知らない内にこんな悲惨なことが起きているのかと、どこかやるせない気持ちになる。もしかしたら知らない真実なら、知らない位が生きるのには丁度良いのかもしれない。私は溢れ出そうな感情の渦と、時折湧いてくる事件に対する邪悪な思考を抑えるために必死で手を動かした。
大体の印付けが終わり、バインダーにまとめられた最後のページの住所に印をつけた時だった。資料と違う位置に印を付けた訳では無い。だが、私は何か嫌な予感がした。
地図につけた印の位置を確認する。私の家から指をなぞり、公園を抜け、しばらく直線に進んだ位置。そこは先程少女と会い、解体工事の行われている家の位置だった。閉じかけたページに急いで目をやる。どうやら六ヶ月前の出来事らしいが、比較的新し事件の為かそれ以外の情報が書かれていない。
「先生、ちょっと聞きたいことがあるのですけど。」
「あ、住所分からないところがあったらそのページに付箋貼っといて貰えればいいよ。」
「そうではなくてこの事件の事なのですけど。」
私は訝しむ教授にバインダーのページを見せた。彼は「あー」と言いながら何とも言えない表情をしていた。
「これは中々えげつない事件だったよ。ここに情報を加えた新しいやつ欲しい?」
「欲しいです。ありがとうございます。」
私は彼から新たなページを受け取り、そこにここに書かれた凄惨な内容を読むことにした。
初めに住んでいたのは三人。父親と母親と子供。父親は子供が一歳の頃に離婚し、家出。つい五ヶ月前までは母親一人で育てて来たらしい。ここまではよくある家庭の中の一つである。だが報告書に続いて書かれている内容は残酷なものだった。
子供への虐待が始まったのは二年前らしい。最初は言うことを聞かない子供に対し、手を挙げるなどをしていたと書かれている。そして日を重ねるにつれて虐待はエスカレートしていく。身体的虐待のみであった筈が、心理的虐待も加わり、最終的にはネグレクトまでもが行われていたようでる。保育所には通わず、児童相談所などから逃げるように転々とする日々を過ごし、最後にはこの町、あの家に落ち着いたようだ。
虐待が確認されたきっかけは、母親の「死」であった。
今年の三月、今から五か月前程に、どうやら家の出入りがないことに近隣住民が通報したらしい。警察の説明によればリビングで母親が首吊り自殺、子供は餓死していたようである。また、子供が極度の栄養失調であった。
「これ、酷い事件なのに全然報道されてないですよね。」
ここまで悲惨な事件なのに私が全く知らなかった事に驚きを隠せなかった。一応は毎日ニュースを見ているのに、知らないのは何だか逆に不気味だった。
「報道は…あまりされないだろうね。噂じゃ、どっかのお偉いさんが噛んでいるって話だからマスコミは大々的には報じてないよ。」
「それって何か不公平じゃないですか。どうでも良い芸能人の結婚ですらニュースになっているのに…。」
「権力には誰も抗えないんだよ。多分この事件は記録の中だけのものになるだろうね。権力者がそれを望んでいるしね。」
私はこの胸のもやもやとした感情の行き場に困っていた。起きたことはもう巻き戻せないのだけれど、この扱いに対する不公平感に気分を害せざるを得なかった。考えても、考えても暗く深く沈みゆくこの黒い感情、私にはもう、どうして良いのか分からなかった。
「そう言えばどうして三島はこの事件について知ろうと思ったの? 知らなくたって作業は出来ただろうに。」
「いや、実はここに来る前にこの事件の家を見て来たのです。見て来たのですと言っても、もう既にほぼ取り壊されていて跡形もない感じだったのですけれどね。多分瓦礫の処理が終わればあの土地は更地になって、新たにそこに全く別の家が建つのでしょうね。」
「今あそこ、そんな風になっているんだ。前見た時はまだあったのにね。失われるのは早いもんだよ、全く。」
教授は窓の外、あの建物がある方角を遠く見つめた。「まあ、見えないよね。ここからじゃさ。」そんな様子で首を振ると再び椅子に腰かけコーヒーを啜る。
「家って建つのも壊すのも簡単だから、きっとあそこに新しい家が経った頃には、みんな…、その辺りの住民もこの事件のことを忘れていくんだろうね。事件の風化は時の運命だから仕方無いと言えば仕方無いけど…。あ、そう言えばこの事件の子供の写真見る? もう削除された記事だけど、画像は持っているんだよね。」
教授は机の上のノートパソコンを私の前に出し、件の写真ファイルを開いた。
「ああ、これこれ。多少画質は悪いけど、スクリーンショットだから勘弁してね。」
そこに写されていたのは一枚の家族写真だった。背景に写りこむクリスマスツリー、三角の帽子、そこには母親と子供の二人の、ごく一般的で平穏に見える家庭の姿があった。
だがそれ以上に私はあることに驚いた。昼間に会ったばかりの記憶が蘇る。そこにはあの透き通る眼差しの少女が写っていたのだ。
教授の手伝いがすべて終わったのは、もう空の多くが緋色に染まり、遠くの空にはすべてを飲み込む混沌とした夜空が見える頃であった。この時間にもなると、外の気温はだいぶ下がり、昼間よりは画然として過ごし易い。教授は「タクシーでも呼こうか?」と言っていたが、あの少女の事が気掛かりで私は徒歩で帰ることにした。
私が公園に辿り着いた時、もう空の多くは夜空に包まれていた。街灯には蛾などの夏の虫々が群がり、あまり気持ちの良い光景では無かった。
「うおぉ。まじかこれ…。」
私はなるべく街灯の光を避け、掻い潜るように公園に入る。そこには私が去った時と変わらずに座る、あの少女がいた。今更ながら、急に彼女が何者なのか不安に襲われる。ただの迷子ならこれから通報すれば良いだけなのだが、もしも、これはあくまでもしもの話だが、少女が本当にあの事件で命を落としていたとしたら。幽霊と言うものがどのようなものかは具体的には分からないけれど、見たところ少女には足は生えているし、体が透けて見えると言った様子はない。それだけがこの不安の中で唯一の心の支えだった。
「ねえ、さきえちゃん…? だよね?」
勇気を振り絞り、声を掛ける。
「あ、昼間のお姉さんだ。どうしたの?」
「どうしたのって…こっちの台詞だよ。こんな夜に一人で何してるのさ? お母さんは見つかった?」
「見つからなかった。」
「まあ、そうだよね。見つかっていたらこんな所にいないか。」
少女はクマのぬいぐるみを抱きしめて俯いた。親が帰ってこないのだ。子供なら誰だって寂しいと思う。子供を放置する親に憤りを感じるが、それ以上に少女の事が心配で仕方なかった。
「そう言えばお母さんってどんな人なの?」
「お母さん? お母さんはやさしい人だよ。さきえ、お母さんのこと好き。」
そんなことを座りながら私は少女の横に腰を下ろす。近付いてみて初めて気が付いたが、どうやら少女は私が去り際に押し付けたお茶の封を切ってはいないようだった。よく熱中症にならなかったと思う。
「そう言えばお茶開けてないみたいだけど、喉とか乾かなかったの?」
「別に大丈夫だった。」
「へぇー、それはすごいね。じゃあ、ご飯とかは?」
「別に大丈夫だった。」
「おなかとか空かないの…?」
「うん。」
頭の隅に押し留めていた嫌な予感が的中しそうな気がする。喉が渇かない、お腹が空かない。私はそんな概念を知っている。知ってはいるがまさかそんなことがあるだろうか。だが、少女が嘘を付いているとは到底思えなかった。
「ちょっと話は変わるけど、お母さんと最後に会ったのは何時?」
「お母さんとあったのはー、ええっと。」
「あ、無理に思い出さなくたって良いけど、教えてくれたら嬉しいなぁって。あ、じゃあ、さきえちゃんは何時からここにいるの?」
「サクラが咲いてた頃から。」
「さくら?」
「この公園で見たの。」
私はその『さくら』と言う単語に強く頭を殴られたような衝撃が走った。桜が咲いていると言うと三月ぐらいの時だろう。そしてあの事件が起きたのも三月。つまりそう言うことなのだ。この目の前の少女は私の思い描くアレだと断定せざるを得なかった。
「ねえ、さきえちゃん。さきえちゃんは何時までここにいるつもりなの?」
「お母さんに会えるまで。」
「ずっと?」
「ずっと。」
「もしも、もう会えなとしても?」
「うん。」
少女の頑なな瞳は真っ直ぐにこちらを見つめていた。
多分、少女は自分が既に死んでしまっていることも、母親がこの世にいないことも知らない。それどころか、自分が幽霊であることすら知らないだろう。この真実を伝えたとしたら少女は成仏するのだろうか。この世から未練がなくなれば幽霊は成仏すると言う。だが少女が必ずしも成仏する保障なんてどこにもない。ましてやただの一般人が何か手を加えることで悪化するかもしれない。
「そろそろ私行かないといけないから、今度また何処かで会おうね。」
少女の返事を聞かず、私はまた逃げるように公園から掛け出た。私はまた目前の問題から逃げた。心ではそうではいけないと分かっていても、それを行動で示すことは出来なかった。夜道を照らす街灯を避け八月のムッとした空気を駆け抜ける。遠くではもう秋の匂いが近付いていた。
九月中旬、私は久々にあの公園へ向かった。あの一件以降、私はあそこを避けていた。少女に合わせる顔がないと言うのもあるけれど、それ以上に私が少女の存在に何か悪影響を与えてしまうことが怖かった。
恐る恐る公園を見渡すもそこには少女の姿はない。場所を変え最初に少女を見かけた場所、少女が生前住んでいた場所へ向かう。だが、やはりそこに少女はいない。ただ『売土地』と書かれた看板が寂しく立っているだけだった。
少女が母親と会い成仏したのか、それともどこかに消えて行ってしまったのか。私には見当も付かない。ただ真実として、少女はもうそこにはいなかった。
「あ、これって…。」
道の端、妙に見たことのある傷んだクマのぬいぐるみを見つけた。横にはカラカラに枯れ果て茶色に変色した花が瓶に刺さっている。小さな小さな鎮魂碑は誰からも忘れたように、ポツンとそこに鎮座している。
瓶を広い公園に向かう。少女が好きそうな花を摘み、水を入れそこに刺す。それが私にできる精一杯の償いだった。
あのぬいぐるみの横に持ってきた瓶を置き、手を合わせる。
「ありがとうね。お姉さん。」
「え…?」
どこかであの少女の声がした気がした。だが辺りを見渡しても少女の姿はない。もしかしたら、『会いたい』と言う感情が生み出した幻聴なのかもしれない。
「じゃあね、おれじゃあまた何処かで。」
「またね。お姉さん。」
秋が深まる九月の空の下。私はクマのぬいぐるみとさよならをした。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
本当は8月の頭に投稿したかったのですが間に合いませんでした。orn...
ちなみにオーバーチュアの意味ですが、英語で『序曲』と言う意味になります。
これからは毎月頑張って8000字程度の短編小説を投稿していこうと思います。