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コメディ風味短編

菅原夫妻の痴話喧嘩

 


「お前はただ、家にいるだけでいい」



 その言葉で初めて気がついた。

 自分にも傷つく自尊心があったのだということに。




 私はとある富豪の一人娘だ。

 そして、名家に嫁入りした妻でもある。


 財産を娘婿に取られることを危惧した父が無理やりねじ込んだ結婚話。

 彼は自身が一代で築いた財を次世代につなぐ気もないし、そうそう娘に分けてやる気もないようだった。加えて我が家よりずっと財と伝統のある家に嫁がせるのだから、まさに「お前の物は俺のもの、俺のものは俺のもの」状態である。

 まあ、清々しいまでに金汚い父がそれなりに私も大切にしてくれているのは知っているから、今更この結婚にケチをつける気もないけれど。


 金持ちの家で、働く前に嫁に入り、一日中家で過ごすことが出来る。

 根っからの怠惰気質な私にとっては、むしろ願ったり叶ったりな結婚だった。


 と、思っていた。




「この先お世話になります、信崎安香(しんざきやすか)と申します。よろしくお願い致しますね」


 とりあえず、初めの印象だけでも良くしておこうと猫を被り、にっこりと微笑んだ。


 そんな私を彼はむっつりと口をひき結んで見返す。


 婚約者となってから、というのは順番があべこべの気もするが、私達は初めてデートという形で会っていた。

 迎えに来た彼の車の助手席に座り、猫を脱がないまま彼を見る。


 彼とは父の仕事の関係で何度か挨拶を交わしたことかあった。

 仕事相手には営業スマイルも爽やかに、そのくせ女性が相手となると途端に無愛想になる。

 女性嫌いか照れ屋なのか、はたまた予防線か。

 いずれにせよ、端正な男らしい顔の割に面倒そうな男だという印象がある。


 こうして改めて見てみると、彼に照れている様子はなさそうだ。

 しかし、婚約者という立場となった今でもこんな態度とは、彼は一体どういうつもりなのだろう。

 相当父が無理を言ったのだろうか、と少し不安になる。

 ここで彼に気に入られなくては、私の怠惰で自堕落な悠々自適ぐうたら生活が遠ざかってしまう。


「……菅原貴宏(すがわらたかひろ)だ」


 何が不満なのか、眉間の深いしわとへの字の口を崩さずに、彼はぽつりとそれだけ言って黙った。



 やがて、ゆっくりと滑らかに車が動いた。



 あまり車に詳しくないが、きっと高級車なのだろう。

 柔らかな座席に腰を預けると、少し眠くなった。

 いつもであれば、車に乗った途端に寝ている。最早条件反射なのだ。


 私は落ちそうになる瞼をこらえ、もう一度運転する彼を見た。


 視線が合った気がする。

 合いかけた焦点はすぐにぼやけ、彼はフロントガラスのむこうに目を向けた。




 彼の愛想の悪さと口数の少なさを除けば、至って平穏無事にそのデートは終わった。

 彼の関心を引き、出来れば首ったけ……あわよくば溺愛させて、何もしないで人生を過ごせるように取り計らって貰いたかったが、まあ仕方ない。そう上手くはいかないようだった。

 そもそも、生まれてこの方恋愛ごとに興味がなかった私では、いかにも難攻不落そうな彼を惚れさせるというのは難しいだろう。


 その時はそう諦め、それ以上の発展も起伏もないまま数度デートを繰り返し、するりと流れのままに結婚をした。




 式を挙げたその日のことだった。


 改めてよろしくお願いします、と挨拶した私を相も変わらずの不機嫌顔で見返し、彼は言った。


「……俺は、別にお前に何かを求める気はない」


「……え?」


「お前はただ、家にいるだけでいい。金は稼いでやる。家のことは雇った者がやるだろう。好きに過ごせ」



 珍しく長文を喋ったかと思えば、彼はそんなことを言ったのだった。






 ぐしゃ、と握り潰したのは雑巾だった。

 ぼたぼたと水が垂れる。



「奥さまっ!お水が……ですから私がやりますと申し上げているではありませんか!」


 家政婦の三沢さんが青くなって私に駆け寄る。


「ごめんね三沢さん、仕事取っちゃって。まぁでもほら、仕事が半分になる代わりに貰えるお金は変わらないんだから、適当に私に任せてよ」

「半分どころか倍に増えてます!」

「……えへへ?」


 眉を釣り上げた三沢さんに怒られ、私は舌を出して笑った。


 雑巾を3回くらい絞り直し、やっと水が垂れなくなったところで床を拭く。


「全く、どうしてそんなに家事をしようと思うんです?私を始め、この家には働く方々が沢山雇われているでしょうに」


 ため息をつかれる。

 確かに、私のやることに意味はないかもしれない。そればかりか、無駄なことかもしれない。

 私だって出来ればこんな面倒なことをやりたくないし、一日中食っちゃ寝をしてだらだらと過ごしたかった。

 私が働けば、手は汚れるし腰は痛いし家も汚れる。悪いことしかない。何故私がこんなことをしなければならないのか。



 ……それもこれも、全部あの男のせいだ。



 貴宏のあの一言で、私はどういうわけか完全に怒っていた。

 望んだ一言を貰ったはずが、思い返すたびにむかむかする。

 しかも。


「旦那さまにも奥さまにやらせるなと言われているんですよ?

 ……旦那さまに良いところを見せたい気持ちは分かりますが、呆れられては意味がないのでは……」

「誰があんな男にっ!」


 私は三沢さんを睨んだ。

 三沢さんは、口を動かしながらも動かし続けていた手を止め、少しにやりと笑う。


「……ふふふ、奥さまもいい加減、素直になったらよろしいのに」

「ちょっと、本当に違うからね!私はあの無愛想男に一泡吹かせたいだけよ、それで『参りました安香様、貴女は完璧な女性です』って膝をつかせてやるんだから!」

「それから、『愛してる安香』って言って欲しいんですよね」

「ちっがーう!」


 むふふ、と笑う三沢さんに怒鳴る。

 三沢さんは何か勘違いしているようで、度々こうして揶揄(からか)われる。

 いくら違うと言っても聞く耳を持たない彼女は、有能な割に恋愛脳らしい。こうなった彼女には私が何を言っても無駄なのだ。


 私はぶつぶつ言いながら仕事に戻った。

 そう、私は彼に言わせるのだ。


『参りました安香様、貴女は完璧な女性です。貴女のような女性になら家のことを任せられる』

 






 私は彼の書斎に呼び出されていた。


「何かご用でしたかしら、貴宏様?」

「……様、は要らないと言っただろう」


 その無駄に長い脚を組み替え、彼は眉をひそめる。

 意志の強そうな双眼が、睨みつけるように私を見た。


「……家のことはしなくていいと言ったはずだ」


 またか、と息を吐く。

 彼は相当私に何かをさせたくないらしい。父はどんな手を使って私を結婚させたのか、いい加減問い(ただ)した方が良さそうだ。


「私はそれほど信用がないのでしょうか」


 にっこりと笑うと、彼の眉間のしわがさらに深くなる。いつもそうだ。彼は私が笑うたびに表情を険しくする。


「……そういうわけではない。お前には向いていないというだけだ」


 ぴき、と私の笑顔が固まる。


「……三沢さんにどんな報告を受けているのか知りませんが、これでも、いくらかは成長しているんですよ」


 家中の皿を割っていた頃に比べれば、私は確かに進歩していた。

 先日も、三沢さんに「奥さま、今月は割ったお皿の数が4枚に減りましたね。成長です」と喜ばれたくらいだし。


「……成長など、する必要がないだろう。仕事はしかるべき人間に任せればいい」


 しかし、彼の態度は変わらなかい。

 しまいには大きなため息まで吐かれた。




 ……私は、自分の脳の血管がぶち切れる幻聴を聞いた。




 ずばん、と思い切り机に手をつく。

 机の上にあった書類がやや崩れたが、今はそれを気にしている場合ではなかった。


 彼の方もそれは同じなのか、書類の山ではなく私の顔と机を交互に見て、珍しく戸惑った顔をしている。



「……そんなに信用できないってんなら、あんたの信頼するこの古くさいボロ机とでも結婚したらどうなのよ!」


 彼は、しばし呆然と私を見ていた。珍しく眉を開いた顔は、いつもより幼く見える。

 やがて頭が回り始めたのか、すぐに眉間にしわが戻る。


「……この机は父の遺品だ。それに、俺には机を嫁にする趣味はない」

「そんなの知らないわよ、あんたがなーんにも喋らないせいでね!机を嫁にする趣味はなくても、かけらも信用できない能無しを妻にする趣味はあるんでしょう?そちらの方が趣味が悪いわ。机を嫁にする人の方がよっぽど良いわよ。そんな人と結婚し直そうかしら」


 今度は貴宏の顔がひきつる。


「……なんだと?お前、いつ丈二と会った?言っておくが無駄だぞ。お前はこの屋敷から出さない」

「誰よ丈二って!?」

「先月机と結婚した俺の同僚だ!とにかく、こうなったら絶対に何もさせないからな!俺は離婚しないし、丈二となんて結婚させない!」

「勝手に決めないでよ!そんなのあんたが決めることじゃないでしょ!私は私の意思で好きに生きるの!家のことだって全部一人でやって、丈二さんとやらとだって好きなだけ結婚してやるんだから!」

「ふざけるな!俺は許さない!」

「あんたに許されなくてもやるわよ!せいぜいあんたはお義父様の机とラブラブよろしくやってなさいよ!」


 売り言葉に買い言葉で、すっかり頭に血が上った私は書斎を飛び出した。

 続く足音が追ってくるのを感じ、頭が勝手に焦っていく。


 手近なところにしまい忘れたらしいモップを見つけ、私はそれをつかんだ。


「!?お前、何を!?」

「この廊下を掃除してやるのよ!!」


 ぎゅ、と力を込め、腰を落として長い廊下を駆け出す。この半年で随分慣れた姿勢だ。

 ざまあみろ。貴宏のプライベート空間を荒らしてやる。


「おーほほほほ!見なさい!あんたの家の廊下を隅々まで綺麗にしてやるわ!この華麗なモップさばき!どう?悔しいでしょう!?」

「お……お前、まさか、今度はモップと結婚するつもりか!?」

「ええ良いわよしてやるわよ!私は今日からモップの妻よ!あんたが机と結婚した後も何人愛人を囲っても一生屋敷に居座ってモップと共に屋敷中を清掃してやるわ!」

「なんだと!?」

「ほらほらそうしてる間にも私は屋敷を掃除するわよ!あんたの大切にしてる花瓶の周りの埃も残らず綺麗にしてやる!」

「や、やめろ!……ん?い、いや、別に掃除(それ)はやめないでもいいが、心なしかモップと楽しそうに戯れているように見えるからやっぱりやめろ!」

「なんですって!?私が楽しそうにしてちゃいけないってわけ!?私が楽しそうなのが嫌なの!?」

「嫌に決まってるだろ!妻とモップが浮気しているのを何故黙って見てなくてはならないんだ!」

「なによ!あんただってすぐ机と浮気するくせに!仕事仕事って言いながら幸せそうに机に頬を寄せて眠るのをこの目で見たんだから!」

「ぐっ……!そ、それは、少し疲れて休憩を……お前だって、丈二と結婚するって言ったりモップと結婚してその上いちゃつく姿を見ていろなんて言ったり、お前は養ってくれるなら誰でも良いのか!」

「な、なんてこと言うの!?誰でもいいわけない!それにモップが養ってくれるわけないでしょ!」

「っ!な、ならもしかして、そのモップと真実の愛に目覚めたとでも言うのか!?」

「そ……」


「お二人とも!」


 廊下中に響く声が、私の鼓膜を容赦なく震わせた。

 貴宏も同じダメージを負ったらしい。目を眇めて耳に手をやっている。


 声の主は、かつかつと苛立たしげに靴を鳴らし、私と貴宏の間に立った。


「……一旦、頭をお冷やし下さいませ」


「三沢さん……」


 私と彼の言葉が被る。お互いにじろりと睨み合うが、結局何も言わず口を閉じた。


 三沢さんは眉間に開いた手の中指をあてたまま首を振って、深々とため息を吐く。


「……お二人とも、あなた方は一体おいくつでしたか?屋敷中に響くほどの声で、益体もないことを喧々(けんけん)と……」


 その言葉に、やや頭の冷えた私は肩を縮めた。彼の方も、反省するところがあるのか気まずげに目を逸らしている。


「まず、奥さま」

「は、はい」


 名指しされ、ぴっと背中がのびる。


「素直になれないのは分かりますが、とりあえず言われたまま反射で言い返すのをやめてください。あなた、もう少しでモップと永遠の愛を誓うことになっていましたよ」

「う」


 確かに。さっきの会話の流れは我ながら意味が分からない。あてこするように掃除を始めたまでは良かったが、なんで彼と机の幸せな結婚生活をモップと共に見守ることになっていたんだろう。みじめすぎる。ライバルが机なのも配偶者がモップなのもみじめだ。


「それから旦那さま」

「あ、ああ」


 彼の背筋ものびた。


「嫉妬で我を失うのも仕方ないかもしれませんが、モップと真実の愛はないです。いくらなんでも天然が過ぎます。それでもお勤め人ですか」

「……しかし丈二は」

「あの変態と奥さまを同類にしないでください」


 三沢さん、噂の丈二さんと知り合いなのだろうか。随分気軽な言い回しだ。名前が出た途端思い切り舌打ちしたけど。


「とにかくお二人は、お互いの言葉をもう一度落ち着いてお考えになって、喧嘩せず(・・・・)、話し合ってみてください」

「……」

「返事は?」

「……はい……」


 私たちは二人揃ってうなだれた。





 リビングに場所を移した私たちの間には、沈黙が落ちていた。


 よくよく考えれば、私は先ほど、彼と出会ってからずっと被っていた猫をすっかり脱ぎ捨ててしまっていた。それに思い至ってから、私の心臓はずっと嫌な音をたてていた。

 もし……もし、彼が本当に私と別れると言い出したらどうしよう。

 何故だろう。彼はいい寄生先というわけではなかった。そればかりか、彼と結婚してから私は家の仕事をしてばかりいた。悠々自適なぐうたら生活とは程遠い。

 なのにどうして、彼が口を開くのが、こんなに恐ろしいのだろう。


 出来ればずっと彼が言葉を紡がなければいい。そんな私の願いを裏切って、彼が口火を切る。


 けれど、その内容はどうやら私の予想とは違っていたようだった。


「……何故」

「え?」

「何故、お前はそんなに、家のことをしようとするんだ?」


 相変わらず、何もするなとでも言うような口ぶりにまたカッとなりそうになる。しかし、三沢さんの言葉を思い出して、一つ息を吐いて心を落ち着けた。


「……貴方こそ。どうして私に家のことをさせたくないんですか」

「……」


 彼は目を伏せた。



「……お前は、働きたくないのだろう」


 私は息を呑んだ。目を見開いて彼を見る。


「何もしないで、ゆったりと生きれるなら、誰と結婚しても構わないと聞いた。俺ならそれをさせられる。だから……」

「ちょっと待って!」


 訝し気な視線。その眉間には相変わらず深い谷が出来ていたが、今はその視線に睨まれているとは思わなかった。

 震える声を隠せないまま、彼に問う。


「……貴方、それ、知ってたの?」

「それ?」

「だから……私がその、自堕落な人間だってこと……」


 少し目を泳がせながらおそるおそる言う。

 彼は、目元を和らげた。


 優しい表情。こんな顔、私は一度も正面から見たことがない。


「いつだったか。参加したパーティーで、お前を見た。……少し疲れて、外の空気を吸おうと中庭に出て歩いていたとき。お前が中庭にあるテーブルで一人、座っていたんだ」

「げ」


 どうしよう。途轍もなく嫌な予感がする。


「お前はその綺麗な意匠が凝らされたテーブルで、爆睡していた」

「う……っ」

「俺は驚いた。他人の家で開かれたパーティーの最中に、よく座りながら熟睡できるものだと」

「うう……っ!」


 疲れることが嫌いな私は、まだ猫も被り切れなかった頃、よく一人で眠れる場所を探していた。

 流石に庭のテーブルは目立ったかと後悔してはいたが、まさか本当に人に見られていたとは。

 羞恥に悶える私をよそに、彼は珍しいほど穏やかな表情で続けた。


「……だが、その眠る顔が、本当に幸せそうで、俺は何故だかずっとそれを見ていたい気がしたんだ」

「……」


 私は、顔を覆っていた両手を離し、彼を見た。

 その感情は、覚えがある。


「……私も」

「……?」

「私も、そんなことがあった。貴方と婚約をしてから、何日か経った後。貴方が仕事で忙しいようだったから、仕方なく私の方から貴方を訪ねたとき」

「……?そんなこと、あったか?」

「貴方は知らないでしょうね。書斎で書類に埋もれて眠っていたから。いつも厳めしい顔をしている貴方が、あんまり穏やかな顔で寝ているものだから、私はそのまま引き返してしまったの」


 その顔を見たとき、なんだかとても苦しくなった。苦しくて切ないのに、嫌じゃない。不思議な感情に襲われた。異様な恥ずかしさを覚えさえしなかったら、私はあのまま目が覚めるまで傍で見ていたいと思ったのだ。


貴宏は一つ瞬きをしてから、呟くように言った。


「……お前が苦しんでいると思ったんだ。いつも無理をしていると。気を張った笑顔でいるから。だから、何もしなくていいと、俺の前で取り繕う必要はないと伝えたかった。……あまり、上手い言い回しでは無かっただろうが」

「……貴宏」

「……さっきのお前の言葉の意味をもう一度考えた。俺は、お前を信用していないから何もさせなかったわけじゃない。おそらく勘違いをしているだろうが、お前を望んだのは俺だ。決して、お前の父親から推されたから仕方なく、ではないんだ」


 真剣な、鋭いほど強い瞳が私を刺す。私はいたたまれなくなって、その瞳から目を逸らした。

 口下手な彼の不器用な言葉に、私の口も勝手に動く。


「……私、よっぽど良い顔をしたい、と思える相手じゃなきゃ、社交以外で猫なんて被らないよ。めんどくさがりだし」

「……安香、それって……」

「自尊心なんてなかった。楽できればそれでいいし。……でも、貴方に言われた言葉は、私自身を見てくれていない気がして、貴方のことに関わらせてくれないという意味に聞こえて、傷ついた」

「……悪かった」

「だから、珍しく頑張ったの。私は出来るって信じて欲しかった。貴方に……私、貴方が……」


 そこまで言って、私はあまりの恥ずかしさに俯く。そして、言いたかった言葉の代わりに小さく呟いた。


「……貴方に、机とさえ浮気して欲しくないの」







 ―――







「……旦那さま、奥さま」

「なんだ」

「なに?」


 こほん、と咳ばらいをした三沢さんに、私たちは手を止めて向き直る。


「お二人とも、何をしてらっしゃるんです」

「掃除だ」

「料理かな」


 それぞれに答えると、彼女は深いため息をついた。頭を痛めたように中指で眉間をおさえている。



「この屋敷には人が沢山いるでしょう。あなた方がやってしまっては意味がないじゃないですか」


「しかし、万が一俺の仕事が破綻した場合、自力で安香を養う技術がなければいけないだろう。何事も経験というし」


 そう言いつつ貴宏はモップを握りしめた。

 未だにあの時の事が尾を引いているのか、彼は私に決してモップを持たせようとしない。

 同僚だという丈二さんにも会っていないし。実際、どんな人なのかものすごく気になってはいるが、また変なことになってもいけないので何も言わずにいる。


 私はといえば、家事らしい家事はほとんどしなくなっていた。

 我ながら根っからのだらけ体質なので、正直あの生活は精神的にもだいぶキていたのだ。

 唯一料理と花の水換えだけはたまにやろうかなと思っている。いつか彼の好きなハンバーグを作ってあげたいし、彼の気に入りの花瓶に花を添えるのはなんとなく達成感がある。


 それに私も、ひとのことは言えない。


 彼が書斎で机に頬を寄せて眠るのが嫌で、こうして仕事の空き時間に一緒に家事をやることを止めようとしないのだ。

 大切なお義父様の遺品をボロ机と言ってしまったことは謝った。我ながら言い過ぎた自覚があり、彼の方も謝罪を受け入れてくれた。

 しかしだからと言って、彼が気の緩んだような顔をするのが机の上で寝ている時だけなんて、あんまり悔しいじゃないか。



「安香はただ、俺の隣にいてくれるだけでいい」


 そう言ってくれる彼が隣にいるなら、私だって一生働き詰めになっても構わない。そんなことまで考えてしまう私がどれほど珍しいか、きっと彼には分からないだろう。





なんでモップと机が恋敵になったのか、作者にも分かりません。

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