優しい時間
シャリエ伯爵家には、アリアンヌしか女性がいない。乳母や侍女達のような使用人はいるが、こんなときばかりは頼ることも憚られた。そして今、シャリエ伯爵邸の柔らかな日が差し込むサロンでは、アリアンヌの友人であるフェリシテと、アリアンヌの兄アンベールの婚約者であるリゼットが激論を交わしている。
「アリーちゃんにはプリンセスラインで可愛らしいドレスがきっと似合うわよ。本当に妖精みたいだわ。……ほら、このデザインなんて良いんじゃない?」
「まぁ、リゼット様。ですがここはベルラインでクラシックにしてもよろしいのではないかしら?なにせ、式は王都の大聖堂なのですもの」
デザイナーの女性を挟んで、両者それぞれの気に入っているらしいデザイン画を手に見せ合う。
「た……確かにベルラインも素敵だわ」
リゼットがちらりとアリアンヌに視線を向ける。
「リゼット様の仰る通り、プリンセスラインも合いそうですわね……」
フェリシテもアリアンヌに目を向ける。
そう、今日はアリアンヌのウエディングドレスの打ち合わせなのだ。レイモンとリヒャルトが手配した、王都で人気の工房のデザイナーが何人かの助手を連れてやってきて、純白のレースやリボン、様々な生地のサンプルを並べ、デッサンを繰り返している。
「アリーちゃんはどういうものが好きかしら?」
「そうよ、アリアンヌのドレスよ。希望はないの?」
リゼットとフェリシテが、身を乗り出すようにアリアンヌにデザイン画を見せ付ける。女家族のいないアリアンヌが相談した義姉と友人だったが、二人ともが一緒に選ぶと言って家にやってくるとは思わなかった。そしてこの二人、気が合うのか、先程からずっとアリアンヌのドレスについて夢中で語り合っている。
アリアンヌは首を傾げて、広げられている多くの素材の中の一角に目を向けた。そこにあるのは、職人によって丁寧に織り上げられたであろうボビンレースだ。その中からアリアンヌは、細かい花を繋げたようなモチーフの物を手に取る。
「そうですわね……こちらのレースは好みですわ」
アリアンヌの持つレースを見ようと、リゼットとフェリシテは立ち上がり歩み寄った。デザイナーも一緒にレースを確認しに来る。
「まあぁ!アリーちゃんに似合いそうだわ。華奢で華やかで、素敵ね」
「本当だわ。アリアンヌ、センス良いわね」
アリアンヌは二人に怒涛のように褒められて、頬を染めて俯いた。
「あの……流石に少し、恥ずかしいのだけれど」
恥じらうアリアンヌの様子に、リゼットとフェリシテはほのぼのとした気持ちになる。デザイナーの女性はこの機を逃してはならないと、トランクからヴェールを引っ張り出した。
「こちらのヴェールは、今ご覧頂いたレースと似たデザインのものをあしらっています。よろしければ、一度お召しになってくださいませ」
広げたヴェールは、チュールの縁にボビンレースが付けられていて、生地の中ほどにもレースと同じ糸で刺繍が入れられているものだった。
「──はい」
アリアンヌは気恥ずかしく思いつつも、ヴェールをふわりと顔に掛けた。薄布越しの景色がやけに明るく見える。
「これは……」
「ええ……」
リゼットとフェリシテは顔を見合わせて頷いた。白いヴェールを纏ったアリアンヌは頬を染めていて、繊細なレースがなんとも幻想的であった。
「アリアンヌ、ドレス選びはどうだ?」
サロンの入り口から声を掛けてきたのはアンベールだ。リゼットがアリアンヌから一歩身を引き、さり気なく装いを整える。
「お兄様、おかえりなさいませ。……ええ、なかなか難しいものですわね」
「そうか、おつかれさま。リゼットもありがとう」
アリアンヌはヴェール越しにアンベールを見た。アンベールはリゼットに甘い微笑みを向けている。リゼットもまた、紅茶色の瞳を輝かせていた。
「いいえ、アンベール様。アリーちゃんのドレスですわよ。私、もう楽しくて楽しくて……!」
リゼットはアンベールに小走りで近付くと、その腕に自然に手を掛けた。アンベールはそんなリゼットに苦笑し、慈しむように頭を優しく撫でる。
「それは良かった。──でも、そろそろ休憩にしないか?アリアンヌに土産があるんだ」
アリアンヌは不思議に思い、首を傾げる。アンベールは普通に王城に仕事で出掛けたはずだ。問い掛けようとしたアリアンヌより先に、サロンの入り口を軽く叩く音がした。
「──アンベール殿、もう入ってよろしいか」
アリアンヌはすっかり耳に馴染んだその声に、はっと顔を上げた。
「リヒャルト様っ!?」
アリアンヌが名を呼んだことで、フェリシテとリゼットもサロンの入り口に立つリヒャルトを見る。リヒャルトとほぼ初対面のフェリシテは、サロンの入り口に立つ貴公子然とした姿に思わずといったように見惚れていた。リゼットが礼の姿勢をとったことで現実に引き戻され、フェリシテも慌てて礼をする。
リヒャルトは畏まった態度の二人を片手で止め、アリアンヌに視線を向けて微笑んだ。
「ああ、アリアンヌ。アンベール殿が今日は貴女が家にいると仰るから、少し顔を出してみたんだが──」
アリアンヌに向けた笑顔は、どこた困惑した表情のアリアンヌを見てぴしりと固まった。ヴェールをかけたままのアリアンヌは、窓から差し込む陽光で神聖なもののようにも見える。薄布越しの澄んだ湖面のような碧い瞳は、リヒャルトに会えた嬉しさに輝いていた。繊細なボビンレースが柔らかな影を落とす。
「リヒャルト様、お会いできて嬉しいです。帰国してからお忙しくされていたことは存じておりますが……?」
アリアンヌが話している間にも、リヒャルトは迷いなくアリアンヌとの距離を詰めてきた。驚きから語尾が疑問の形になったアリアンヌに、リヒャルトは苦笑する。とうとうアリアンヌの前に立ったリヒャルトは、緊張したような面持ちでそっと手を伸ばす。リヒャルトがアリアンヌの顔を覆うヴェールの縁に触れると、アリアンヌの睫毛が震えた。薔薇の花弁のような唇が、リヒャルトの名の形に動く。リヒャルトは思わずといったように感じたことを、そのまま声に出した。
「──天使が貴女の姿を借りて、舞い降りてきたのかと思った」
ヴェールを持ち上げることをせず、リヒャルトは手を戻す。見つめ合ったまま、二人の時間が止まったようだった。アリアンヌは自然と潤む瞳を僅かに伏せる。リヒャルトは、一度は戻した手をまた伸ばす。
「こら、リヒャルト君。それはまだお預けだなぁ」
ひょい、とアリアンヌの腕を引いたのはアンベールだった。リヒャルトは他に人がいたことをようやっと思い出したように、ぱちぱちと瞬きをする。アリアンヌもまた、顔を真っ赤にしてアリアンヌを見ているフェリシテと、呆れた表情を隠そうともしないリゼットに、居た堪れない気持ちになった。デザイナーの女性は両手を頬に当て、サロンの端からアリアンヌとリヒャルトを見ている。
「──あの。申し訳、ございません……」
アリアンヌは消えそうな声で呟くように言う。
「いや、アリアンヌは悪くない。私が貴女から目を離せなかったから──」
フォローしたつもりのリヒャルトの言葉は何もフォローになっていない。ただただ甘い言葉に、アリアンヌは余計に頬を染める。
不思議な空気の中、最初に笑い声を上げたのはフェリシテだった。明るい声は伝播し、気付けばアンベールとリゼットも、アリアンヌまでが笑い出してしまった。リヒャルトも楽しそうな皆の姿に、満更でもないように口角を上げる。
暖かな陽射しの中、シャリエ伯爵邸は幸福な空気に満たされ、優しい時間が流れていったのだった。
これにて第三章は完結です。
お読み頂きありがとうございました。
これから登場人物を一度整理した後、第四章に入ります。本編は次の第四章で完結予定なので、また楽しくお読み頂けるよう頑張ります。
引き続き、『伯爵令嬢の華麗なる暇潰し』をよろしくお願いします!