月夜の願い
クローリス王国の王城は、円筒形の塔が組み合わさったような形をしている。塔を繋ぐ白亜の回廊は、日中は騎士や役人等の多くの人が出入りしているが、夜になってしまえば酷く静かだ。まして王族の生活区域への通路ともなれば、なおのことである。
回廊から見える庭には、月の光を受けて華やかにアザレアの花が咲いていた。ラインハルトは四季に応じて花を植え替えている庭師達の丁寧な仕事に感嘆し、侍従の存在も忘れてしばし庭の花に見入った。アザレアの中でも紫色の物を多く植えているようで、ところどころに華やかな桃色も混ざっている。侍従もラインハルトの気持ちを汲んで、少し離れたところに立った。
人の気配に敏感なラインハルトは、静かな夜の闖入者に気付き振り返った。
「──こんばんは、良い夜ね」
邪気を感じさせない微笑みは、年齢よりも目の前の女性を若く見せる。白銀の長いおろし髪が月の光に輝き、絹糸のように揺れていた。
「王太后……」
ラインハルトは目を見開き、警戒を露わにツェツィーリエに向き合った。ツェツィーリエは夜の庭を見つめて嘆息する。
「このような夜に、そんな態度は無粋ではなくて?」
「失礼致しました。ですが、このような時間にお一人で出歩かれるものではありませんよ」
「ふふ……それもそうね」
ツェツィーリエは何かを探すように、紫色の絨毯のようなアザレアの咲き誇る庭を眺め続けている。ラインハルトは、ツェツィーリエが何かを探しているようだと思った。ラインハルトと話しながらも、途中から全くこちらを見ようとしない。そして今、彼女が探しているとしたら、きっとただ一人だ。
「ウーヴェは戻りませんよ」
ラインハルトの言葉に、ツェツィーリエは勢い良くラインハルトの顔に目を向け、凝視した。ラインハルトは目の前の月明かりに照らされた二つの瞳が、エメラルドのようだと思う。ラインハルトにとっての、ただ一人の大事な弟と同じ色だ。
「何故貴方が──……」
ツェツィーリエは視線を外さないラインハルトから、一歩足を引いた。
「そうですね。貴女が便利な男を使って色々としていたことは、知ってはいたんですよ。……リヒャルトの大事な女性に手を出したのはいただけない」
ラインハルトはツェツィーリエが引いた分だけ、歩を進めた。回廊は、不気味なほど静かで、二人の声が良く響く。
「貴女にとって、息子は何ですか。リヒャルトは、やっと自分の幸せの為に前を向いているのです。母である貴女が、何故その邪魔をするのか。──ウーヴェはリヒャルトの元に行きましたよ。代わりの者は来ないと、ネーレウス王から私の元に連絡がありました」
ラインハルトのサファイアのような瞳が、夜を集めて青く光る。厳しさの覗く表情には、クローリス王国を背負って立っている者の威厳があった。ツェツィーリエはそれに魅入られるように、一歩、また一歩と足を引く。
「──あの男が、戻らない?」
ツェツィーリエはぽつりと呟く。それは自分自身に語りかけるような、小さな声だった。ラインハルトは目を眇める。
「ええ、戻りません」
「そんな──嘘よ、嘘。そんなことがあるはずが……」
ツェツィーリエのエメラルドグリーンの瞳は、ぽっかりと穴が空いたように感情が欠如したようだ。ラインハルトは彼女から滲む狂気に、それ以上歩を進めることを躊躇った。その代わり、じっとその瞳を見据えて言葉を絞り出す。
「……あまり若者を侮らない方が良い。過去に囚われたままの亡霊が、次代の光に勝るはずがないのだから」
ラインハルトの言葉に、ツェツィーリエは踵を返し、回廊を引き返していった。来るときよりも早い足取りで、今にも走り出しそうなほどの速度で、ツェツィーリエはラインハルトの前から姿を消した。
「悪かったね、気を遣わせたかな」
ラインハルトは眉を下げた笑みを浮かべ、先程から気配を消して柱と一体化しようとしていた侍従に声を掛けた。
「いえ、申し訳ございません」
侍従は姿勢を正し頭を下げた。それはツェツィーリエと対峙していた主人を庇うこともできなかった後悔からだ。
「──いや、もし君が飛び出して来たら、私は君を叱らねばならないところだった。行こうか」
ラインハルトは、笑みの表情を崩さないまま回廊を歩き出す。侍従も無言のまま、ラインハルトの私室の前まで付き従った。
一人になった私室で、ラインハルトは窓から月に目を向ける。まだ明かりをつけていない部屋には、青白い月明かりが差し込んでいた。
「……そろそろ尻尾を出してくれれば良いのだが──」
味方を減らし、自由な手足を捥いだ。もう彼女の使える駒も、殆どいないはずだ。自ら動いてもらわなければ、実行の証拠など残りようがない。
閉じた目の裏に映るのは、幼い頃から変わらないリヒャルトの笑顔だ。何年もの間見ることのできずにいたその表情は、一人の令嬢によって、最近また見られるようになった。ラインハルトが、いつかクローリス王国の為に活躍すると信じて疑わずにいる、ただ一人の大切な弟だ。あれほどにも有能で、ラインハルトが周囲の人間に暗殺を仕掛けられながらも、リヒャルトを疑わないままでいられる自分が不思議だった。
だが大切に思うからこそ、不安は常に付き纏う。リヒャルトが大切にしている少女は、澱んだ世界の中ではあまりに脆く儚い。
「どうか、無事に──」
ラインハルトの願うような呟きは、沈黙に塗り込まれるように消えていった。