アリアンヌとディートヘルム2
「そう仰ってくださるのは嬉しいことですが、私は何もできておりません。リヒャルト様に助けて頂いてばかりですわ」
少し目線を落としたアリアンヌに、ディートヘルムは子猫に向けるような慈しむ目を向ける。
「……私は、貴女はリヒャルト殿に似合いの女性であると思ったよ」
アリアンヌはその言葉にはっとして顔を上げた。ディートヘルムの言葉は、アリアンヌの中にすんなりと入ってくる。
「きっとアリアンヌ嬢は、今回の旅で、自分に足りないものがたくさん見つかったのではないかな?リヒャルト殿は多くの才を持っているから、余計に気になってしまうのだろう」
「それは──……」
アリアンヌの気持ちを代弁するようにディートヘルムは言葉を続けていく。アリアンヌはディートヘルムの瞳から目が離せなかった。
「もちろん努力をすることは大切だ。だが、今の貴女が持っているものも大切にしていくと良い。今の貴女の魅力に、彼奴は恋をしたのだろう?」
アリアンヌはその指摘に頬を染めた。
「だから安心して良い。あの堅物を恋に落としたのは、貴女のまっすぐさや懸命さだろう。……リヒャルト殿を、よろしく頼むよ」
「……ありがとうございます」
アリアンヌは今にも泣いてしまいそうで、ぐっと奥歯を噛み締めてディートヘルムに微笑んだ。
「少なくともリヒャルト殿は、アリアンヌ嬢をこの上なく大切に思っているよ。彼奴にとっては、眩しくて仕方がないのだよ。……その証拠に──ほら」
ディートヘルムが夜会会場とテラスを仕切る窓に目線を向けたとき、ちょうどリヒャルトがその窓を開けるところだった。リヒャルトはアリアンヌを探していた為に、僅かに頬を上気させている。
「リヒャルト様……」
アリアンヌは現れたリヒャルトから視線を逸らせなかった。ディートヘルムはリヒャルトがアリアンヌを見つめている間に、そっと会場へと戻っていく。テラスにはアリアンヌとリヒャルトの二人だけが残された。
「アリアンヌ、大丈夫か?……急に席からいなくなるから心配した。ネーレウス王と一緒だったのだな」
アリアンヌの無事を確認して安堵し、紳士的な態度で微笑むリヒャルトに、アリアンヌは駆け寄って抱きついた。白を基調とした王族の正装は、光の少ないテラスでも存在感がある。夜会の会場とは窓ガラス一枚だけの距離のテラスで、アリアンヌはリヒャルトの見知った体温としっかりとした身体に安心した。
「いいえ、励まして頂いたのですわ。リヒャルト様こそ、お話はもうよろしいの?」
上目遣いにリヒャルトの表情を窺うアリアンヌに、リヒャルトは苦笑して頷いた。
「ああ、夜会ももうそろそろ終わりだろう。席に戻って挨拶を待とうかと……アリアンヌ?」
アリアンヌはリヒャルトからそっと離れると、控えめに微笑みリヒャルトの手に手を重ねた。
「いいえ、何でもございません。……私、ネーレウス王国に来て良かったですわ」
「──そうか」
「リヒャルト様の正装も見れましたし。お似合いですわよ?」
「……またしばらく着ることもない」
「あら、そうでしょうか?」
アリアンヌは笑い、リヒャルトのエスコートで席へと戻った。ほどなくしてディートヘルムが挨拶をし、会場からは少しずつ人が減っていく。退出の挨拶をしばらくディートヘルムと共に受けていたリヒャルトとアリアンヌだが、半数以上が帰った後、リヒャルトがアリアンヌの手を引いた。
「……そろそろ良いか。アリアンヌ、部屋まで送ろう」
リヒャルトは、ネーレウス王城に用意されている客室までアリアンヌを送り、自らの部屋へと戻っていった。
「アリアンヌ様、おかえりなさいませ。お疲れ様でございました」
部屋で戻りを待っていたナタリーがアリアンヌに声を掛ける。アリアンヌは導かれるように奥へと進み、鏡の前の椅子に座った。これからアクセサリーを外し、湯浴みをしなければならない。ナタリーはアリアンヌに近寄り、一つずつの宝飾品や髪飾りを外していく。
「今日の夜会はいかがでしたか?」
「……リヒャルト様が王族だったということを、改めて見せつけられた気分よ」
嘆息したアリアンヌにナタリーが小さく笑った。クローリス王国ではリヒャルトは王弟であるという事実を対外的に主張することは皆無だ。以前聞いた王位の代理争いを起こさない為でもあり、ラインハルトを守る為でもある。アリアンヌもまた、リヒャルトが公爵であるということは実感しており、当然格上の家に嫁ぐのだという気持ちでいた。しかし、王族の正装を纏ったリヒャルトは、その衣装を着ていることが当然のようだった。名を変え家を変えても、生まれ持ったものはそこにあり続けるのだ。
アリアンヌは、レイモンが用意した美しいラピスラズリ色のドレスが、リヒャルトの隣に並ぶのに相応しいのだと、夜会の最中に改めて思い知らされていた。
「そう、私が最初に出会ったのは『アルト』様のときだったなと思って──ロージェル公爵の名前は、リヒャルト様にとっては一つの覚悟で……でも、名前を変えても、『リヒャルト・クローリス』は残るんだわ」
アリアンヌはリヒャルトを思う気持ちと、立ち向かうべき大きな何かを確認した。夜会の前にリヒャルトに言った言葉を反芻する。
──このくらいで怯んでは、シャリエ伯爵令嬢の名が廃りますわ──
──どうか、私を連れて行ってくださいませ。貴方の隣に立つ為なら、私は前を向いていられるのですから──
アリアンヌ自身がそうありたいと願った強い自分の言葉だ。負けたくないと噛み締めて、アリアンヌは鏡の中の自分を挑むように見つめた。