紅茶とボタン
アリアンヌとリヒャルトは、そのまま晩餐に招待された。晩餐までまだ時間があるからと貴賓室に揃って案内され、死角に控えた無言の使用人達以外、二人きりにされてしまっている。
アリアンヌがネーレウス王国までリヒャルトを追ってきた理由によって、リヒャルトは会話を始めることができないまま、窓辺のソファに座り窓の外を見ていた。アリアンヌは少し離れたところにある華奢なティーテーブルの椅子に座り、無言のまま優雅に紅茶を飲んでいる。このままではいけないと、リヒャルトは覚悟を決め、アリアンヌに視線を向けて口を開いた。
「アリアンヌ、何故追いかけて来たんだ。伯爵殿が心配しているのではないか?」
アリアンヌはティーカップを一切の音を立てずにテーブルへ置く。リヒャルトに目を向けると、笑顔を作った。
「お父様にはお手紙を残して参りましたわ。何故追いかけて来たかは……リヒャルト様にお心当たりはございませんか?」
アリアンヌは小首を傾げてリヒャルトを見やるが、リヒャルトは困ったように眉間に皺を寄せている。
「心当たりはない」
「……では、リヒャルト様は何故、ネーレウスにいらっしゃるのですか?私に直接話すことなく、手紙だけを残して」
アリアンヌは努めてゆっくりと問い掛ける。リヒャルトは真面目な表情でアリアンヌに答えた。
「アリアンヌが眠った後、ウーヴェと話をして、彼が先代王妃付きの刺客ではなく、ネーレウス王の密命を帯びた密偵だと分かった。しかし、ウーヴェが先代王妃に逆らい辛い状況にあることと、クローリスで狙われているアリアンヌについて、ネーレウス王に直接話をして解決できればと──」
リヒャルトはツェツィーリエをあえて先代王妃と表現した。リヒャルト自身の母親のことなのに、他人行儀な表現をするリヒャルトを、アリアンヌは少し悲しく思う。
「あら、私を狙ったのは先代王妃様でしたの」
アリアンヌはけろりと言った。その説明すら、これまでリヒャルトから直接は受けていなかったのだ。
「ああ、──説明していなかったか。トレスプーシュ侯爵家の夜会の事件とアリアンヌの家に出た刺客、どちらも実行犯はウーヴェだ。ウーヴェに指示を出していたのは先代王妃。ウーヴェの証言だけで、物的証拠は残っていないのが痛いが。シャリエ伯爵家にはティモテを置いていたし、私が出る時にはラインハルトに頼んで警備を強化した。他にも貴女を狙う貴族が特定できない以上、貴女は家にいるのが最も安全だと考えたんだ」
リヒャルトの説明は筋が通っている。どのように考え、動いたのか、アリアンヌにもよく分かった。アリアンヌは立ち上がり、リヒャルトの座る窓辺のソファへと歩み寄る。
「お話は以上ですの?」
「ああ。もちろん急に出てきたことは悪かったと──!?」
リヒャルトが驚くのも無理はない。アリアンヌは窓辺のソファに座っているリヒャルトの正面に立つと、片膝をソファに乗せてのし掛かるように背凭れに手をつきリヒャルトを囲った。アリアンヌはぐっと顔を近付け、リヒャルトの耳元に口を寄せる。
「リヒャルト様。それは、手紙だけ残して出た理由ではありませんわ」
「それは……」
アリアンヌは腕を伸ばしてリヒャルトの顔を正面から真っ直ぐに見つめると、天使のように柔らかく微笑んだ。リヒャルトはアリアンヌの表情を見て、ひくりと口の端を震わせる。
「リヒャルト様は分かっていらっしゃらないのですね。ええ、残された私の気持ちなど、きっとお考えになったこともないのですわ。……私を慮ってくださるのはありがたいことですが、それと何も伝えずお一人で動かれることは違います。リヒャルト様がきちんと向き合ってお話してくだされば、私は追って来ませんでしたわ」
アリアンヌは右手をリヒャルトの頬に添えた。指先が頬から唇へと流れ、そのまま首へと滑るように移動していく。リヒャルトは一切拘束などされていないにも関わらず、動くことも、視線を逸らすこともできなかった。アリアンヌからこんなに距離を近付けるのは、これが初めてだ。いつものアリアンヌは伯爵令嬢らしい控えめで恥じらった言動が多いのだ。それをかなぐり捨てる程に怒らせてしまったようだとリヒャルトは思い至った。
「──悪かった」
アリアンヌはリヒャルトの謝罪に笑みを深める。右手が流れるようにリヒャルトのクラヴァットに触れ、その結び目がしゅるりと解かれた。アリアンヌはそのまま胸元のボタンに手を掛ける。
「リヒャルト様は、私が怒っている理由がお分かりになりましたの?」
恥ずかしさを表情に出すな。不敵に笑って見せると決意し、アリアンヌは内心でぐっと拳を握る。いつもリヒャルトのペースに乗せられ、アリアンヌはリヒャルトに振り回されてばかりだ。たまにはリヒャルトもアリアンヌに振り回されれば良い。アリアンヌは、リヒャルトのシャツのボタンを一つ外した。