ウーヴェとリヒャルト
「素直に言ったまでだ」
ウーヴェはリヒャルトに向かってまるで感情のこもっていない表情で言った。リヒャルトもまた、つかつかとウーヴェの正面まで歩いて行って言い返す。
「待て。お前は私に付けと言われたら、従う気持ちはあると言っただろう」
「同じ陣営なら、可憐な乙女の方が良いに決まっている。こんなに清廉な女性を俺は知らなかった」
ウーヴェの表情は動かないが、声の熱量は増していく。リヒャルトはその熱に気付いて気に入らない。
「私の、愛しい、婚約者だ!可憐とか清廉とか……勝手に語らないでもらおう」
「男の嫉妬は醜い」
「ウーヴェ……!」
混乱した場の空気を変えたのは、鈴の音のようなアリアンヌの声だった。
「あの……ちょっとよろしくて?」
「──どうしたね、アリアンヌ嬢?」
アリアンヌは居心地が悪かった。何せ、気付けば話の中心がずれているのだ。しかも、アリアンヌについての方向に。リヒャルトとウーヴェの会話の流れにはらはらとしながらも、これだけは言わなければならないと、ディートヘルムの問い掛けに口を開く。
「私、密偵などいりませんわ」
アリアンヌははっきりと言い切った。ウーヴェが動きを止め、ぽかんと口を開いてアリアンヌを凝視する。漆黒の髪に黒い瞳、どこか野生的な細く引き締まった体躯に、この上なく似つかわしくない気の抜けた表情である。リヒャルトは何かを探るようにアリアンヌを見た。
「アリアンヌ嬢、説明を」
最も冷静そうであり、それでいて内心の興味を隠そうとせず、ディートヘルムがアリアンヌを見ている。
「──密偵って、知りたい情報を探ったり、組織や屋敷に潜入させたり……場合によっては証拠を盗み出したり、他人を殺めさせるようなもの。ということで、合っておりますか?」
真っ直ぐにディートヘルムを見つめ、アリアンヌは聞く。
「そうだな。まぁ、暗殺は最終手段だが、基本的にはそういった使い方をするものだろう」
「では、やはり私には必要はありませんわ。だって私、そのようなこととは無縁ですし」
「だが、今後はリヒャルト殿と結婚し、公爵夫人になるのだぞ?使い道はいくらでもあると思うが」
ディートヘルムはより深く踏み込んでアリアンヌに問い掛けた。アリアンヌはそれに笑みを深くする。
「私には過ぎた力でございますわ、ネーレウス王。それに私──探し物は、自分でする主義ですの」
背筋を伸ばし、テーブル上のティーカップに手を添えたまま、しかし目線は下げず、真っ直ぐ相手を見つめる。アリアンヌは正しく淑女としての姿でディートヘルムと渡り合っていた。ディートヘルムがお茶会の形式にしてくれたのは良かったと思う。この形は、女の戦場に間違いない。
澄んだ湖面のような碧い瞳には一切の揺らぎがなく、微笑みの形の口は決意を噛み締めているようでもあった。まだ十六歳の少女には大き過ぎる、公爵夫人、王弟夫人という重責を、それでも正しい姿で背負おうとするその背は、揺らがないという決意によって真っ直ぐ伸ばしているのだと、いじらしくも示している。
「アリアンヌ……貴女は──」
リヒャルトがぽつりと呟いた。ディートヘルムと向き合うアリアンヌから、視線を逸らせない。ディートヘルムは、アリアンヌの言葉に、今日一番の笑い声を上げた。ガハハと笑う声がしばらく謁見室という名の簡易お茶会会場に響き渡る。しばらく笑うと、ディートヘルムは落ち着いたのか口を開いた。
「──そうか。確かに、これは仕えたくなるなぁ……ウーヴェ」
「恐れ入ります」
「お前は要らないそうだ」
「うっ……」
ウーヴェは咄嗟に言葉に詰まる。
「リヒャルト殿はどう思う?」
リヒャルトは腕を組み、深く嘆息した。
「そうですね……私は能力としてはこの上なく公爵家に欲しいですが、婚約者に懸想している男を雇う趣味もないですし」
「……懸想!?待ってくれ、俺の気持ちはそういうのじゃ──」
慌てたように言い募るウーヴェに、リヒャルトは首を傾げた。
「では何だ?」
「理想の主人を見つけた時に起こる突発的反応です」
真面目な表情で片膝をついたウーヴェに、リヒャルトはゆるゆると首を左右に振った。
「突発的──」
「はい。申し訳ございません、我が主」
ウーヴェはリヒャルトの前で、騎士としての最敬礼の姿勢で頭を垂れた。リヒャルトは驚きを隠しそれを受ける。
「ウーヴェ、お前はどうしたい?」
「はっ、許されるなら、この命、リヒャルト・ロージェル公爵閣下にお預けしとうございます」
ディートヘルムは深く嘆息した。
「お前なぁ。今の主人は私のはずだが」
「前主人、お世話になりました」
さくっと立ち上がったウーヴェは、ディートヘルムに一礼する。
「心変わり、早すぎじゃないか?」
「一瞬の判断を試されることの多い職務ですので」
ウーヴェの取ってつけたような適当な言い訳に、リヒャルトとディートヘルムは揃って額に手を当てて嘆息した。アリアンヌは緊張した場の空気に似つかわしくない、華やかな笑い声を上げ、新たなロージェル公爵家の仲間を歓迎したのだった。