ネーレウス王国3
アリアンヌはクローリスの言語で返された挨拶に安心した。これ以上の会話をネーレウスの言語で求められても、アリアンヌには対応できる気がしない。まさか異国の王城に単身乗り込むことがあるとも思わず、これまでの勉強不足を内心で悔しく思った。
「歓迎痛み入りますわ、ネーレウス王」
上品な笑みを浮かべたアリアンヌは、戯けたような仕草で小さくカーテシーをして小首を傾げた。そのちぐはぐさは堅苦しい雰囲気の謁見室には不似合いで、しかし大変に愛嬌があり彼女を魅力的に見せる。ディートヘルムは手でもっと奥へと入ってくるよう示した。アリアンヌは従い、リヒャルトとの近くまで歩き、勧められた椅子に腰掛けた。
「……女性も加わったことだ。少し待て」
ディートヘルムは手元の鐘を鳴らし、従僕に何事かを言いつける。するとすぐに、厳格であるはずの謁見室にテーブルが運び込まれ、アリアンヌとリヒャルトの座る椅子の前に置かれると、向かい側に椅子が一つ用意された。ディートヘルムは用意された椅子に座る。すぐに紅茶が三杯淹れられ、華やかな香りが謁見室に満ちた。
「ネーレウス王、これは……?」
首を傾げたのはリヒャルトだ。ディートヘルムは口の端を上げる。
「お茶でもしながら話そうかと思ってな。アリアンヌ嬢も、その方が話しやすかろう」
後半はアリアンヌに向けて言ったディートヘルムに、アリアンヌは微笑みで返す。
「お気遣いに感謝致します」
ディートヘルムは頷き、紅茶を飲んだ。アリアンヌも続くようにカップを傾ける。
「……それで、アリアンヌ嬢。そなたもウーヴェの事で何か私に言いたいことがあったのではないか?」
はっきりとした口調ながらも視線をアリアンヌから逸らさないディートヘルムに、アリアンヌは緊張を隠して言った。
「あら、私がお持ちした陛下からのお手紙は、まだお目に入っていらっしゃらなかったかしら?」
「手紙だと?」
どうやら、ディートヘルムはまだ読んでいないようだ。従僕を呼び寄せ、持ってくるよう指示を出している。
「良いですわ。私は、別に殿方のお話に混ざるつもりはございませんでしたのよ。私はただ──」
アリアンヌは隣に座るリヒャルトをきっと睨んだ。
「一人で何でも背負おうとするリヒャルト様を、お説教しに参りましただけですわ」
リヒャルトはアリアンヌの言葉に驚いて目を見開いた。まして、ディートヘルムの御前での言葉に、リヒャルトは焦りを隠せない。
「いや……あの、アリアンヌ?何で私が怒られるか分からないんだが。ネーレウス王の御前だから、落ち着こうか」
「……そうですわね。私としたことが、失礼致しました。後ほど、ですわ」
ふわりと微笑んだアリアンヌを恐ろしく感じたのは、リヒャルトには初めてだった。ディートヘルムは慌てた様子の従僕から手紙を受け取り目を通す。ディートヘルムは、手紙とリヒャルトとアリアンヌを交互に見て、にやにやと表情を緩めた。
「確かに、手紙は受け取ったぞ。ほう……これはめでたい!リヒャルト殿、可愛らしい恋人ができたものだ。以前とは目が変わったと思っていたが……そうか。やはり恋愛は人を変えるのだな」
「ネーレウス王!?」
リヒャルトは途端に手紙に何が書いてあるのか不安になった。アリアンヌは頬を染め、もはや諦めて優雅に紅茶を飲んでいる。
「読むか?」
余りに気軽に渡された手紙に動揺しつつリヒャルトはそれを読む。アリアンヌは恥ずかしげに小さくなって座っていて、紅茶のカップから手を離そうとしなかった。
一読したリヒャルトは深く嘆息し、この手紙を何度も他人に見せざるを得なかったアリアンヌに同情を隠せなかった。
「それで、ウーヴェの件だが。リヒャルト殿が欲しいと言うのは分かった。せっかくだからアリアンヌ嬢の意見も聞こう。……ウーヴェをどうするのが良いと思う?」
ディートヘルムはアリアンヌに向けて問い掛けた。アリアンヌは、決めていた返事をする。
「私は、ウーヴェの意見を大切にすべきだと思いますわ。そうでしょう、ウーヴェ?」
アリアンヌの声に、ウーヴェが天井から落ちるようにして姿を現した。それまで気配を完全に消していた為、リヒャルトばかりでなくディートヘルムも驚く。
「戻ってきていたのか、ウーヴェ」
「はっ、只今参上致しました」
ウーヴェはディートヘルムに対し、臣下としての最上級の礼をした。
「どれ、アリアンヌ嬢の意見も尤もだ。ウーヴェは、誰に仕えたい?ツェツィーリエは嫌か?」
はっきりとウーヴェに聞くディートヘルムに、ウーヴェは視線を下に逸らす。不思議な沈黙が場を支配し、ネーレウス国王とクローリスの王弟公爵と伯爵令嬢の視線が、真っ直ぐに一介の密偵であるウーヴェに注がれる。ウーヴェは覚悟を決めて、顔を上げ、ディートヘルムの目を見た。
「俺は、ツェツィーリエ様に仕え続けるのは懲り懲りです。陛下に仕えるのは構いませんが、自由に誰かに仕えるのなら──アリアンヌ様の下に」
「はぁ!?ウーヴェ、お前──!」
リヒャルトはディートヘルムの前であるにも関わらず、椅子の音を立てて立ち上がった。