ネーレウス王国2
「ネーレウス王、ご無沙汰しておりました」
ディートヘルムとの謁見室で、リヒャルトは恭しくクローリスのしきたりに則り王族の礼をする。ディートヘルムもまた、愉快そうな表情でネーレウス式の王族の礼をとった。
「リヒャルト殿、久しいな。猫は元気か?」
ディートヘルムの相変わらずの豪胆さにらリヒャルトは交渉は一度忘れて安心し、僅かに微笑んだ。
「ええ、今は公爵邸で留守番をしております」
「それは良かった。……ほう。口がきけたというのは本当なのだな。良い声だ」
リヒャルトは気まずさから一瞬目線を逸らした。それだけなのに、ディートヘルムはガハハと豪快に笑う。五十を過ぎているはずだが、肉体の衰えを感じさせない姿は、確かに彼が他国に侵略を許さないネーレウス国王として立ち続けていることをリヒャルトに感じさせた。
「……恐れ入ります。諸事情ございまして、言葉を話せない振りをしておりました。自国の者も皆そう思っておりましたので、ご容赦ください」
「ということは、以前会った時に堂々と嘘を吐いたのはクローリス王か。……いやいや、責めてはおらん。彼奴はそういう男だ」
楽しそうなディートヘルムの様子から、本当に二人の仲は良いのだろうと思う。
「ありがとうございます」
しかし当然だが、ディートヘルムは一国の王である。リヒャルトの倍以上の年月を生き、その人生を国の為に捧げたと言っても過言ではない男だ。油断はできない。
「……では、本題に入ろうか。貴殿からの書状以外にも、先にラインハルトからも手紙を貰っている。ウーヴェの件だな」
ディートヘルムは表情を一転させ、真剣な瞳でリヒャルトに問い掛けた。リヒャルトも真面目な顔で頷く。
「はい。我が母ツェツィーリエに預けていらっしゃるというあの男ですが、母から女性の暗殺を命じられておりました」
「……それで、その女性は?」
「無事です。ですが──」
「そんな危険な者をツェツィーリエに預けるな、と言いたいのだな?」
リヒャルトは言葉を先に取られ内心で焦るが、表情と態度には一切それを出さずに頷く。
「はい。仰る通りです」
「ツェツィーリエから外して、どうする?」
ここが勝負どころだ。リヒャルトはエメラルドの瞳でじっとディートヘルムを見つめ、口を開いた。
「──私に彼をくださいませんか?」
リヒャルトの率直な言葉に、ディートヘルムは思わずといったように数度瞬きをする。しかし次の瞬間には、ディートヘルムはガハハと豪快に笑い出した。リヒャルトは小さく嘆息する。
「真面目に言っておりますが」
「相変わらず面白い男だ。それは分かっている。……しかし、ウーヴェ本人がいないところでする話ではないだろう?それに、リヒャルト殿がウーヴェを上手く使えるかも私にはまだ分かっていない」
「それはそうですが──」
しかし、ウーヴェを連れてくることはできなかった。ウーヴェ自身も来たいとは言わないであろうし、アリアンヌをクローリス王国に残してくる決定をした時点で、ウーヴェだけ連れてきてツェツィーリエに別の刺客でも雇われたら困る。
「なぁに、焦ることはない。私はこれから会議があってな。また後で話そうではないか。城に部屋を用意している。ネーレウスは貴殿を歓迎するよ、リヒャルト殿」
ディートヘルムは笑顔のまま立ち上がると、さっさと謁見室から出て行ってしまった。一人残されたリヒャルトは、ディートヘルムはやはり食えない男だと嘆息したのだった。
アリアンヌは城門の前に立つ衛兵に何の用かを聞かれ、笑顔で挨拶をすると、本当は渡したくないラインハルトの手紙を差し出す。何か言われたとしてもアリアンヌには挨拶以外のネーレウスの言語を知らない。どきどきしながら待つと、しばらくして城内の車止めまで案内された。
馬車から降り立ったアリアンヌは、駆けつけた侍女によって謁見室へと案内された。案内された謁見室は、天井に天使達の華やかな宗教画が描かれ、壁には歴代国王の肖像画が並び、床には一面の赤い絨毯が敷き詰められている華やかな部屋だ。侍女の開けた扉から中に入ると、そこには二人の男性がいた。アリアンヌは数歩進んで優雅な礼をとる。
『お初にお目にかかります。私、クローリス王国シャリエ伯爵の娘、アリアンヌ・シャリエと申します。お時間を頂きありがとうございます』
付け焼き刃だが練習したネーレウスの言語で、アリアンヌは予定していた通りの挨拶をし、顔を上げた。そして、そこにいた男性の内の一人を見て、花が綻ぶような笑顔を浮かべる。
リヒャルトはアリアンヌが来るだろうことは分かっていたのだろうが、それでもまさかディートヘルムと話している最中の謁見室にアリアンヌが呼ばれているとは思わず、驚いたように目を見開いた。アリアンヌもリヒャルトも、勝手に発言するのは躊躇われ、目線を絡ませるだけでぐっと言葉を飲み込む。
「──ようこそ、ネーレウス王国へ。私が国王ディートヘルムだ。ラインハルトの話の通り、本当に愛らしいお嬢さんだ。ラインハルトから手紙は先に受け取っているよ」
リヒャルトと二人の時にはあまり見せない慈愛に満ちた瞳で、ディートヘルムはアリアンヌに優しく微笑んだ。