旅の始まり
「ネーレウスへ行きます。荷造りをしましょう」
王城から帰ってきたアリアンヌは、言うか早いか、正装のまま大急ぎでクローゼットからトランクを引き出した。アリアンヌの行動にナタリーが悲鳴のような声を上げる。
「アリアンヌ様!?先にお着替えをお願いします!」
衣装管理を主にしているナタリーは、しゃがみ込むようにしているアリアンヌのドレスが心配で仕方ない。アリアンヌはナタリーの言葉にはたと立ち上がった。
「……そうね。ナタリー、お願い。アンナにしてくれる?」
アリアンヌはナタリーとニナの手助けで正装を脱ぎ、アリアンヌの指示通り、アンナとしての服装へと着替えていった。可愛らしい商人の娘といった風情の、裾がふわりと広がる青いワンピースに、ふわふわの白いカーディガンを重ねる。結い上げていた髪も解き、青いリボンで左右に二つに束ねる。
ニナは着替えを手伝いながら、不思議に思って口を開いた。
「なんで『アンナ』なんですか?しばらくお休みするって仰ってましたよね」
アリアンヌは真剣な表情でニナに言う。
「新しい依頼よ、ニナ。今回の依頼は、『一人で何でも背負おうとするリヒャルト様をお説教してください』ね」
ナタリーは横で呆れたような表情だ。
「アリアンヌ様、その依頼の依頼主は──」
「もちろん、アリアンヌ・シャリエよ!」
にっと笑ったアリアンヌの顔は、未だ見ぬ場所への期待に溢れていた。
アリアンヌはナタリーの手伝いで荷造りを終えると、ニナに留守を任せてナタリーとティモテを連れてシャリエ伯爵邸を出発した。机の上には、ラインハルトの許可を得たことと、必ず無事に帰ることを伝える手紙を書いて置いてきた。普通に向かえば、ネーレウスの王城までは五日程度で着くはずだ。アリアンヌは一日毎に宿に泊まりながら、辻馬車を乗り継いで行くつもりでいる。
アンナ用の着替えは、あまりかさばらなかった。王城を訪ねるときの為にシルクのドレスを一着だけ詰めているが、それもスレンダーラインのペチコート等を使用しないデザインのものだ。やや大きめのトランク一個にまとめた荷物は、ティモテが持っている。最初に拾った辻馬車の中で、ナタリーがアリアンヌに問いかけた。
「アンナ様、ニナは置いてきて良かったのですか?着いて来たがってましたけれど……」
アリアンヌは頷いて答える。馬車の中には、アリアンヌとナタリーとティモテの三人だけだ。今日はこの馬車で二つ隣の街まで移動して宿を取る。膝の上で広げた地図を睨むように見ながら、アリアンヌは口を開いた。
「ニナは男爵家の令嬢よ。勝手に隣国までは連れ出せないわ」
「いや、アンナさんも伯爵令嬢じゃ……」
ティモテが嘆息しつつ言う。ティモテは最初はアリアンヌのネーレウス王国行きに反対だったが、今の彼にとってアリアンヌの護衛こそがリヒャルトに与えられた仕事である。アリアンヌが行くと言えば伯爵邸に残るわけにもいかず、不承不承ながらも旅に同行していた。アリアンヌは眉尻を下げた。
「ごめんなさい、ティモテ。私の我儘なのは分かっているの。でも、これだけは譲れないのよ」
「いや──まあ、アンナさんの気持ちは分からなくもないから良いですけど……リヒャルト様も、大変な女に惚れたなと思いまして」
ティモテの言葉にナタリーは苦笑した。アリアンヌは不本意そうに頬を少し膨らませる。
「扱い辛いのは知ってるわよ……リヒャルト様や家族に心配を掛けてまですることかって聞かれたら、本当はそうではないのかもしれない。だけど、今がきっと私達にとっては大切な時なのだと思うの。だから後悔はしないわ」
その日の夜には、目的の街に着いた。街の中ほどにある中流の宿を隣り合わせで二部屋とり、アリアンヌとナタリー、ティモテに分かれてそれぞれの部屋に入る。一度荷物を置き、宿の一階で合流した。
「まずはご飯にしましょう!」
訪れたことのない街の様子に目を輝かせたアリアンヌは、宿の周りの景色を物珍しそうにきょろきょろと眺めている。この街では夜灯として松明を立てており、活気のある街を炎が暖かい色に染めていた。
ナタリーもアリアンヌの様子に苦笑しつつも、どこか楽しそうだ。ティモテが周囲を見渡し、宿の斜向かいの料理屋を示す。
「この辺りだと、あの店が一番大きいですね。多分酒と食事が出る店だと思うけど。繁盛してるみたいだし、美味しいんじゃないかな」
アリアンヌが見ると、確かに何人かの人が連れ立っては入って行くのが見える。この辺りの人気店のようだ。
「……お腹も空いたし、そこにしましょう。ナタリーも良いかしら?」
ナタリーはアリアンヌの言葉に頷く。ティモテを先頭に、三人はその店に入った。