アリアンヌの決意
翌朝、アリアンヌが目覚めた時には、既にリヒャルトはシャリエ伯爵家を出た後だった。寂しく思いつつも、アリアンヌはいつも通りの朝を過ごす。
そんなアリアンヌの元にリヒャルトからの手紙が届けられたのは、その日の昼を過ぎた頃だった。手紙を差し出したナタリーは、アリアンヌと視線を合わせようとしない。訝しく思いつつも、アリアンヌは手紙を手に取った。封筒はシンプルな白い物だったが、そこに押されているのは間違いなくロージェル公爵家の印で、美しい筆跡のリヒャルト・ロージェルというサインが、リヒャルトからの手紙であることを示している。アリアンヌはおずおずとその手紙を開いた。
──愛しのアリアンヌへ
この手紙が届く頃には、きっと私はシャリエ伯爵邸にはいないだろう。いつも寂しい思いをさせてすまないと思っている。
私は、ネーレウス王国へ行って来ようと思う。あの黒髪の男は、ネーレウス国王付きの者だと分かった。名をウーヴェと言うらしい。彼をツェツィーリエから解放するためにも、私はネーレウスへと行ってディートヘルム国王と交渉する必要がある。
貴女の家の警備は、ラインハルトに言って強化するよう手配している。そこにいる限りは安心していて良いと保証しよう。
だから、私が戻るのを待っていて欲しい。
愛を込めて
リヒャルト・ロージェル──
アリアンヌはリヒャルトからの手紙を読み、目を閉じてしばらく無言でいた。リヒャルトはアリアンヌを置いて、アリアンヌの為にネーレウス王国へと向かったのだ。もちろんそれがウーヴェの為でもあるということは分かっていたが、アリアンヌはただリヒャルトが自分一人の力でアリアンヌを守ろうとしているとしか思えなかった。
「──これは、私を試しているつもりかしら」
瞳を輝かせたアリアンヌに、ナタリーは冷静に返す。
「いえ。おそらくは、待っていて欲しいという意味かと──」
「私がリヒャルト様に守られて、納得して黙って待っているはずがないじゃない」
アリアンヌは静かにリヒャルトに怒っていた。リヒャルトはネーレウス王国へと行くと、アリアンヌは安全な場所でぬくぬくとしていろと言う。しかし、アリアンヌにはそれは受け入れ難かった。
「──私が頑張ってくるから、貴女は待っていてくださいなんて……純愛小説じゃないのよ。私は私の思うように動くわ」
その後、すぐにアリアンヌは正装をして王城へと出向いた。正門でリヒャルトへの面会申請をして、指示された控室で待機する。しばらくすると近衛騎士から声が掛かり、少し奥の面会室へと案内された。
面会室にやって来たのは、リヒャルトではなかった。少し疲れている面持ちのラインハルトが、アリアンヌと対面している。アリアンヌは深くカーテシーをした。
「──よい。面をあげよ」
アリアンヌは礼を解き、姿勢良く上品に立つ。ラインハルトは先に椅子に座り、アリアンヌにも椅子を勧めた。アリアンヌが座ったのを確認して言葉を続ける。
「リヒャルトとの面会の希望で私が来て、驚かれたことだろう」
アリアンヌは嫋やかに微笑み首を振った。
「いいえ、陛下。……リヒャルト様は、もうお出掛けになっているのでしょう?」
アリアンヌの言葉にラインハルトは目を見張る。
「──アリアンヌ嬢は、分かっているのか」
「先程私宛にリヒャルト様からの手紙が届けられました。リヒャルト様が私の為に……そしてウーヴェの為に動いていることは分かっております。──だからこそ、歯痒いのです」
ラインハルトは真剣な瞳でアリアンヌを見据えた。アリアンヌの手がドレスの影で緊張に震えている。
「……リヒャルトからは、貴女が王城に来たら、心配するなと伝えるようにと言われている」
「しかし陛下。……愛しい恋人のこと。どうして心配せずにいられましょう」
アリアンヌは弱くなろうとする心を気取られないよう、笑みを深くして言葉を続けた。
「ですから、私は後を追ってネーレウス王国へと赴こうと思います」
ラインハルトは慌てたように手を左右に仰ぐように動かした。アリアンヌは初めて見るラインハルトの慌てた様子に驚く。
「アリアンヌ嬢、考え直してくれ。……リヒャルトは貴女を危険な目に遭わせないようにと、わざわざシャリエ伯爵邸の警備を強化したのだ。今そこから出て動くことが、どれだけ危険か──」
アリアンヌも素直に従うことはできない。
「……私は怒っているのですわ。リヒャルト様が辛い時こそ共にありたいと──支え合える存在でいたいと思うのに、リヒャルト様は私を置いて行きました。私には、追い掛ける権利があると思いますの」
覚悟を湛えた澄んだ湖面のように碧い瞳がラインハルトに真っ直ぐに向けられる。ラインハルトはアリアンヌの瞳に、説得しても無駄であることを悟った。
「シャリエ伯爵が許すとは思えないが──」
アリアンヌは満面の笑みを浮かべた。
「それはご心配なさらないでください」
ラインハルトはアリアンヌの揺るがない態度に苦笑する。近くに控えていた侍従に紙とペンを持って来るよう指示を出し、しばらくして用意された紙に、その場でネーレウス王国への文を認めていった。
「この手紙があれば、ネーレウスに先に着いているリヒャルトに会えるだろう。入国時と城に着いた時にこれをあちらの職員に見せれば良い」
「ありがとうございます、陛下」
侍従を通じてアリアンヌはラインハルトの手紙を受け取った。どこか凄みのある表情を浮かべたアリアンヌに、ラインハルトは嘆息する。
「──ところでアリアンヌ嬢。今更だが、貴女、ネーレウスの言葉は話せるのか?」
「いいえ、勉強中でございます。ですがご安心くださいませ。言葉なら、分かる者がおりますので」
無邪気に微笑むアリアンヌは、天使のように愛らしい。ラインハルトは旅の無事を願う言葉を残し、面会室から退室した。