安心と後悔
アリアンヌはリヒャルトの目の前に立ち、上目遣いにリヒャルトを見ている。リヒャルトは慌てた様子のアリアンヌに苦笑してそっと頭を撫でた。
「大丈夫だよ、アリアンヌ。私のせいで辛い思いをさせてすまなかった。……ほら、ニナが紅茶を淹れてくれようとしているよ。一度座ろうか」
リヒャルトが視線でニナを示すと、アリアンヌは恥じ入るように頬を染め、リヒャルトにソファを勧めた。アリアンヌの部屋は寝室と居室の二部屋が繋がっている作りになっている。今いるのは、親しい友人を招くこともある居室だ。
これまでリヒャルトがアリアンヌを訪ねて来るときは、いつも一階の客間を使っていた。今日アリアンヌの部屋に来たのは、娘を心配するレイモンの許しがあってこそだ。
ニナの淹れた紅茶を一口飲み、アリアンヌは話し始めた。
「今日はお越し頂きありがとうございます。……お忙しかったでしょう?」
リヒャルトは首を左右に振る。真剣な瞳をアリアンヌに向けた。
「いや、そんなことは良いんだ。……貴女からの手紙が届いて、その後すぐにシャリエ伯爵が訪ねて来たよ。怖かっただろう、遅くなってすまなかった」
リヒャルトの言葉に、アリアンヌはぱっと顔を輝かせた。
「まぁ、ではあの方はリヒャルト様のところへお行きになりましたのね。どう思われましたか?」
アリアンヌは、言外にリヒャルトと男を会わせることで手掛かりを掴もうとしたと伝えている。リヒャルトは肩を落とした。
「ああ、あれはネーレウスの男だよ。……主人はまだ分かっていないが」
視線を落としたリヒャルトの手に、アリアンヌは自らの手をテーブルの上で重ねた。
「私のせいで、リヒャルト様にお辛い思いをさせてしまいました。申し訳ございません」
リヒャルトが顔を上げると、アリアンヌの澄んだ湖面のような碧い瞳と真っ直ぐに視線が重なる。その瞳は迷いなくリヒャルトへの思いを言葉よりも雄弁に語っていた。
化粧で隠そうとして隠しきれないでいる目の下の隈が、アリアンヌの強がりを証明している。
「いや、貴女は何も悪くない」
「──リヒャルト様も何も悪くありませんわ!」
首を振ったリヒャルトにアリアンヌは言葉を重ねるように言う。アリアンヌは大きな声を出した自分自身に驚き、はっと肩を揺らした。リヒャルトはその様子に苦笑する。
「今日は何をしていたんだ?」
意図的に話題を変えたリヒャルトに、アリアンヌも笑った。
「今日は、友人から頂いた本を読んでいましたわ。恋愛小説なのですが、面白くて……」
少し恥ずかしそうに言うアリアンヌに、リヒャルトはテーブルの上で重なっている手を握り返し、僅かに眉間に皺を寄せる。
「──家にも、私が今夜はこちらに泊まると知らせが行っているはずだ。そろそろティモテが護衛として、モーリスに持たされた仕事を持って来る頃だろう」
「リヒャルト様、今夜は……こちらにいてくださるのですか?」
リヒャルトはアリアンヌを安心させるように優しく笑う。
「ああ、伯爵がお許しくださったんだ。だから安心して良いよ」
「ですが、お仕事を持ってきてくださってまで──」
「良いんだ。家にいたって仕事にならないから。……ただ、アリアンヌには退屈させてしまうかもしれないね。本の続きでも読んでいるといい」
リヒャルトの言葉通り、それからすぐにティモテがシャリエ伯爵邸にやってきた。いくつかの書類の束と真新しい紙を持っている。エントランスでそれらを受け取ったリヒャルトは礼を言い、アリアンヌの私室に戻った。ティモテはレイモンと共に護衛の計画を立てるため、客間に向かう。
戻ってきたリヒャルトは、書類の束をアリアンヌに見せた。アリアンヌは肩の力が抜けた柔らかな表情で笑った。
「私の執務机を使われますか?」
「いや、ソファとテーブルで大丈夫だ。退屈させてしまうね」
「いいえ。……私もこちらで本を読ませて頂きますわ」
頷いたリヒャルトは、早速テーブルの上に資料と紙を広げ始めた。リヒャルトの向かいのソファに座ったアリアンヌは、肘掛けに凭れるように本のページを開く。
リヒャルトの万年筆が紙を滑る音が静かな室内に響いている。ナタリーとニナも室内にいるのだが、二人とも静かに端に控えていた。
「──眠ったか」
顔を上げたリヒャルトはアリアンヌの姿を確認し、呟いた。音を立てないように立ち上がると、落ちてしまいそうになっている本を取り、栞を挟んでテーブルに置いた。
「ナタリー、何か掛けるものをもらえるか?」
リヒャルトの指示にアリアンヌが眠っているのを確認したナタリーは、安心したような表情でニナと視線を交わすと、すぐに毛布を取りに向かった。リヒャルトはその場に残ったニナに視線を向ける。
「彼女はいつから──」
「……一昨日の深夜からお休みでなかったようです。ありがとうございます、リヒャルト様」
「いや……遅くなってすまなかった」
ニナの言葉に目を見張ったリヒャルトは、後悔するように右手で髪を無造作に掻いた。さらさらとした赤銅色の髪がくしゃりと歪む。
ナタリーが抱えてきた毛布をアリアンヌに掛け、柔らかな亜麻色の髪を起こさないようにそっと撫でる。アリアンヌがリヒャルトのためにどれだけの気を張っていたのかを考えれば、リヒャルトの心がきりりと痛んだ。ソファに戻り仕事を再開したリヒャルトは、それ以降、メイドから食事の支度が整ったと伝えられるまで、一言も言葉を発さなかった。