執務室にて
リヒャルトは王城の執務机で仕事をしていた。いつもはラインハルトと一緒なのだが、今日は公務で外出しており、リヒャルト一人だ。
リヒャルトは終わらせただけ増えていく書類の山に嘆息し、ベルを鳴らした。従僕に新しい紅茶を頼もうと思ったのだ。
扉を開けて入ってきたのは、見覚えのない黒髪の男だった。リヒャルトはその存在の希薄さと足音のない動きに気付き、最低限の動きで懐の短刀に手を掛けた。
「──オウジサマの方は結構普通の反応だな」
リヒャルトは男の言葉に疑問を抱きながらも、警戒を緩めずにいる。
「……の方は、とはどういう意味だ」
男はにんまりと唇を歪めて笑った。
「オヒメサマの方は随分と変わった娘だったから──っと。血の気が多いな、オウジサマは」
リヒャルトが話の途中で投げた短刀は、男の背後の壁に突き立っている。リヒャルトは内心で驚いていた。本気で当てるつもりで投げた短刀だったのだ。軽々と避けた男は、相当な実力者だと分かる。
「……何の用だ」
眉間に皺を寄せたリヒャルトは、執務机に備え付けの剣を視線の先で確認した。すぐに手に取れる位置にあることに僅かに安堵する。
「これを届けるように頼まれた」
黒髪の男はアリアンヌの手紙を空気を切り裂くように放つ。真っ直ぐに飛んできたそれをリヒャルトは左手で掴んだ。可愛らしい封筒の、シャリエ伯爵家の印に眉を顰める。リヒャルトの表情に男は笑みを深くした。
「随分と惚れ込んでるんだな。美人だからか?」
男同士の気安さからか、リヒャルトを揶揄っているのか、暗殺対象ではないからか。男の態度はアリアンヌに対してのものとは大分違った。リヒャルトはアリアンヌの話をする不審な男に苛立ち、口を開いた。
「──Wer bist du?」
「Warum……?」
男は驚愕の表情を浮かべる。リヒャルトは男を睨んだまま視線を逸らさなかった。
「何故、だと?お前の言葉には僅かだがネーレウスの訛りがある。分からないはずがないだろう。──お前の主人は誰だ。何を命令されている」
詰問するリヒャルトに、男は一歩足を引いた。リヒャルトは剣の柄に手を掛けると、一気に引き抜いて男との距離を縮めた。男は上衣の裏から短刀を出し、左右の手に持った。男の動きは舞うようで、リヒャルトの剣を的確にいなしていく。リヒャルトもまた一歩も引かずに剣を繰り出していた。しばらく打ち合った後、男が大きく後ろに飛んでリヒャルトから距離を取る。リヒャルトが剣を構え直す間に、執務室の窓が男の手で開けられた。
「──またね、オウジサマ。精々足掻いて見せてくれ」
リヒャルトが前に踏み出した時には、男は窓から外に飛び出していた。
リヒャルトは剣を鞘に戻し、執務机の上の手紙を手に取った。ソファに移動し、腰を下ろして肘掛に寄り掛かる。明かりに透かすように手紙を掲げて見ると、可愛らしい薄桃色のそれには、繊細な筆運びでアリアンヌ・シャリエとサインが入れられていた。
注意深く封を開け、中から便箋を取り出す。縁にレースのような加工がされている便箋には、サインと同じ綺麗な文字が並んでいた。
──リヒャルト様、ご機嫌いかがでしょう。
私は過保護になってしまった家族の命令で不自由な日々を過ごしておりますが、愛しい貴方のことを思うと、不自由さすらも甘美なことのようです。次に会える日が待ち遠しいですけれど、どうかご無理はなさらないでくださいね。
突然ですが、そちらに今いらっしゃる男性は、何方かに私の命を奪うように命じられているようです。昨夜、私の寝室にナイフを持っていらっしゃいました。
父は警備を強化すると言っていましたが、きっと無駄だと思います。雪の中、足跡も残さずお帰りになる方ですもの。
父がリヒャルト様に報告すると言っていたので、私から先にお手紙でお知らせします。ご心配をお掛けすると思いますが、どうかあまり気になさらないでください。この手紙が届いたということが、私が無事でいるということの証です。
お忙しいとは思いますが、どうかお身体にはお気を付けてください。リヒャルト様も私を思ってくださっていたら嬉しいです。
愛を込めて
アリアンヌ・シャリエ──
開いて手紙を読んだリヒャルトは、女性らしい美しい文字と可愛らしい愛の言葉に似つかわしくない物騒な内容に、天井を仰いだ。
しばらく内容を反芻するも、突き付けられた事実にリヒャルトの速くなった鼓動は落ち着かない。リヒャルトの与り知らぬところで、アリアンヌは最初の夜と手紙を男に渡したときの、二度も危険に直面していたのだ。
居ても立っても居られず、リヒャルトがシャリエ伯爵邸へと向かおうと腰を浮かせかけたとき、本物の従僕が扉を叩いて入室してきた。
「公爵様、執務中に失礼致します。シャリエ伯爵家当主レイモンが面会希望に来ておりますが──」
その声に、リヒャルトは厳しい表情のまま、すぐに指示を出す。
「すぐに向かう。私個人の執務室へ案内し、お待ち頂いてくれ」
リヒャルトはアリアンヌからの手紙を丁寧に封筒に戻すと、ポケットへと入れて立ち上がった。